第一話「緋色の絆」
空が青く染まり、まだ薄暗いながらも着実に夜が明けていることの分かる早朝。
時空の狭間に存在する本丸の一室で、布団にくるまっていた刀剣男士――加州清光は小さな声を漏らした。
無意識に軽く伸びをして、重い目蓋を擦る。上半身だけ起こして欠伸をすると、彼は口元に当てた自分の手を見てしばし硬直した。
白くて細い、けれど少し骨っぽさのある長い指。彼のトレードマークでもある赤い爪紅は、昨晩の入浴時に落としておいたままだ。今は血色の良い健康的な爪がむき出しになっている。
改めて目にした素の爪は何だか不思議気な感じがして、加州は開いた両手の爪をまじまじと見つめ、きょろきょろと周囲を見回した。
加州が寝ていたのは、小さな和室だった。審神者の私室と執務室の間に挟まれた、近侍室と呼ばれる部屋だ。
部屋の端に寄せられた机を見て、隣に敷いた布団で寝ている小さな男士の姿を見て、加州は昨日一日の出来事を思い返した。
初期刀である加州清光が顕現した日の午後。
加州は、本丸三階の鍛刀部屋でこんのすけから説明を受けていた。どこから持ってきたのか、こんのすけは首に唐草模様の風呂敷を巻いていた。
部屋には、資源を管理するための小さな木箱が四つと、顕現する男士のためのかなり大きな木箱がある。小さな木箱には、それぞれ蓋の外側の面に液晶パネルが付いていた。
「それでは、これから鍛刀を行います」
「なんかどきどきするなぁ……」
緊張した面持ちの加州とは裏腹に、こんのすけの口調は滑らかだった。
「鍛刀と言っても、難しいものではありません。資源と時間に任せて、新しい仲間を迎える手助けをするだけですから」
これからは出来るだけ毎日やっていただきますしね、と付け加えるこんのすけ。
ふと加州が疑問を投げかける。
「俺も鍛刀で呼び出されたの?」
率直な質問を、こんのすけは簡潔に否定した。
「加州様は初期刀ですから、鍛刀ではなく政府を仲介して呼び出された形になります」
それが主に選んでもらえたことの証明でもあるのだと思うと、加州は何だか嬉しくなった。
こんのすけは加州に四つの小さな木箱を示して、きびきびと指示を出した。
「では、まず必要なだけの資材を投入します。小さい方の木箱に、パネルが付いていますね」
「ぱねる?」
首を傾げた加州に、こんのすけは言葉を選んで説明する。
「あー……液晶、と言っても分かりませんよね。触れるだけで操作ができる機械です」
見本を見せようと、こんのすけは白い前足で木箱のタッチパネルに触れた。液晶に光が灯り、三桁の算用数字を入力する画面が現れる。こんのすけが画面を突く度に、数字の数が一つずつ増えていった。
「なにこれ、面白いかも」
感心した様子で見つめる加州に、「では実践です」とこんのすけが場所を交代する。加州は、物怖じする様子もなく液晶の端に触れた。
「今回は初めてですので、全て五十で統一しましょう。加州様、パネルに入力を」
よく見ると、小さな木箱には一つ一つに資源の名称が書いてあった。左から順番に、『木炭』『玉鋼』『冷却材』『砥石』と刻まれている。
慣れない手つきで全てのパネルの表示を五十に合わせると、こんのすけが大きな木箱の方に移った。そちらにも黒い枠のパネルが一つ付いていて、鍛刀開始の文字が表示されている。
確認を取るようにこんのすけを見ると、表情の読みづらい目で、顔だけは笑っているままに小さく頷かれた。
意を決してタッチパネルに触れる。瞬間、鍛刀開始の文字が複雑な数字に切り替わった。十九分五十九秒、五十八秒……数字は刻々と数を減らしていく。
「こちらが鍛刀時間です。資源の数に応じて鍛刀される刀の種類が変わり、刀種によって鍛刀時間は違います。……一部、例外はありますが。ニ十分は短刀ですね」
こんのすけ曰く、各資源を五十で揃えた場合の鍛刀は、ほとんど短刀が顕現するらしい。
「短刀といえば守り刀としての側面もあるし、これから本丸を守る仲間としてぴったりだよね」
納得したように頷いて、加州は今まさに鍛刀が行われている大きな木箱をじっと見つめた。自分たち刀剣が生まれる鍛冶場の熱がこの小さな箱に濃縮されていると思うと、なんだか妙な気分だった。
「それでは、鍛刀時間を短縮してみましょう」
首に結んだ荷物を下ろし、こんのすけは広げた風呂敷から一枚の札を取り出した。
手伝い札と書かれたそれを画面に乗せると、鍛刀時間の数字は、あっという間に零になった。その代償とばかりに、乗せた札からは手伝い札という文字が消えてしまう。未来の技術だとは聞いているが、狐に化かされているようだ。
そう思いながらこんのすけに目をやり、ああそういえばこいつ管狐なんだっけと加州は息を吐いた。管狐というよく分からない存在に、自分が存在していた時代からは遠く離れた、よく分からない未来の技術。考えるだけ無駄だ。
そんな加州の心を知ってか知らずか、こんのすけは元気良く声を上げる。
「さあ、新しい仲間との邂逅です」
「新しいお仲間かぁ」
こんのすけの張り切った声と、興味深そうな加州の声が重なった。箱の隙間から光が漏れている。加州は、思い切って木箱の蓋を開けた。
箱の中から桜が舞い、白い光が室内に満ちる。現れた新たな刀剣男士――紺色を基調とした洋服に身を包み、桃色の髪を持つ幼子の姿をした彼は、淡い光を放って柔らかく微笑んだ。
「秋田藤四郎です。外に出られて、わくわくしますっ」
一連の流れを思い出し、加州は布団から出て全身を大きく伸ばした。筋肉や骨の動く感覚を意識しつつ、自分が寝ていた布団の片付けに取り掛かる。身体の動かし方は顕現した時からなんとなく理解できているが、それにしても奇妙な気持ちだった。
よいしょっ、と掛け声を出して布団を押し入れに仕舞い、隣の布団でまだ眠っている秋田に視線をやる。起こすべきかどうか悩み、壁に掛けられた時計を見つけて、もう少し待つことにした。昨夜こんのすけに告げられた起床時間より、三十分以上は早い時間だ。
時間が来るまでに身支度を整えておこうと、加州は部屋の隅に寄せられた机の前に座った。伏せられた鏡を立てて、解いたままの髪を指で軽く梳いてみる。
ピカピカに磨かれた鏡を覗き込むと、少し癖の付いた長めの黒髪をおろし、赤い瞳を持つ、少年の姿が映っていた。
加州が口を開けたり片目を閉じたりすれば、鏡の中にいる少年も同じように動く。なんとも言えない感覚が妙に可笑しくて、自分でもよく分からないまま笑みが漏れた。
そして加州は、しばらく何度も鏡を見てにこにこしていたが、こうしている場合じゃないと思い立って鏡を元の位置に戻した。
「さて……」
ぐるりと周囲を見回すと、明かりのない室内を、ぼんやりとした朝陽だけが照らしている。
部屋には一通りの調度品が揃っていて、基本的に男士が近侍を任された際に共用で使うものだと、昨日の晩に主に教えてもらったばかりだ。
加州は一旦近侍室から出て近くの洗面所で顔を洗い、部屋に戻ってくると昨晩のうちに準備しておいた内番用の服に着替えた。袖が邪魔だと思ったが、かつての主たちがしていたようなたすき掛けなどは、まだ自分の手では出来そうにない。
机上の鏡を再び立てて、寝ている間に乱れていた髪を手櫛で整え、肩の上で緩く一つに結ぶ。
両耳に着けていた菱形の耳飾りは、床に就く前に外しておいた。箪笥の小物入れに仕舞っていたそれを取り出して、何とか鏡を見ながら耳に着ける。
そこまで仕度を終えて、加州は耳飾りと一緒に仕舞っていた爪紅の瓶を見つめた。こちらは、上手く塗れる自信がない。顕現した時には既に塗られた状態だったので、自分で塗った経験は勿論なかった。だからと言って、塗らずに主の前へ出るなど絶対にごめんだ。
加州清光と言えば、新選組で有名な沖田総司の愛刀だ。けれども、加州自身は貧しい環境の中で生まれたことに引け目を感じており、身なりを整えていないと落ち着かない。
可愛くしていなければ愛されない。誰に言われたわけでもないのに、そんな考えが顕現した当初から加州の心に深く根差している。
「と言っても、これ、自分でやるのは難しそうなんだよなぁ……」
ため息を吐いて、加州は紅の入った瓶を揺らす。怖がっていてもしょうがないので、試しに左手の爪を塗ってみることにした。小さな筆で紅を掬い取り、慎重に爪へと滑らせる。
付け過ぎないように注意して塗っていると、何だか心が浮き立つような気がした。
「……意外に良い感じかも」
五枚の爪全てに紅を塗り終え、加州は達成感で誇らしげに左手を掲げた。若干はみ出したりしているが、初めてにしては上出来だろう。
顕現した時に勝手に塗られている状態だったのだから、いっそ爪自体が赤く染まったままであれば、わざわざ自分で塗る手間が省けるのに。
そんなことを心の隅で思ってもいたが、それは間違いだったらしい。確かに時間はかかるが、自分の手で自分を彩るというのは悪くない気分だった。
次は右手の爪を塗ろう、と小筆を左手に持ち替える。筆先がぶれないよう指に力を込めて、先ほどよりも集中して爪に紅を塗っていく。
しかし左手は力の加減が難しく、右手の爪紅は指にまで垂れて手を汚してしまった。完全に失敗だ。
「あーあ……やっちゃった」
嘆息し、文机の横に備え付けられたちり紙を取って右手を拭く。思いの外お洒落が楽しくて、つい調子に乗ってしまった。
右手の紅を拭き取り、左手の爪に目を向ける。はみ出した部分を綺麗に拭き取ると、やはりこちらは満足の行く出来栄えだった。
それにしても、どうして左手だと物が持ちにくいのだろう。加州は別の小筆を持ち、半紙に墨で丸を描いてみる。右手で筆を滑らせるとなかなか美しい円を描くことが出来たが、やはり左手では歪な楕円になってしまった。
左手の爪だけに紅を塗り、右手の爪には塗っていないというのは不格好なので、加州は一生懸命に左手で小筆を操る練習をした。
どれくらいの間、そうしていただろうか。部屋の半分に敷いたままの布団から、もぞもぞと身動きする音がした。小さな衣擦れの音と共に、寝惚け眼の秋田藤四郎が顔を出す。
「ふあ……。あ、加州さん。おはようございます」
笑顔で朝の挨拶をした秋田は、すでに支度を終えている加州を見て慌てて跳ね起きた。
「わ、もうそんな時間ですか? 寝坊してしまいました……!」
急いで布団から出て片付けを始めた秋田に、加州は笑って首を横に振った。壁時計は、起床時間まであと十分あることを示している。
「まだ起床時間じゃないよ。俺はちょっと早くに目が覚めちゃっただけ」
その言葉に秋田はほっと胸を撫で下ろし、机に広げられた半紙に目を留めた。決して加州が散らかしているようには見えないが、墨の塗られた大量の半紙に両目をぱちくりと瞬かせる。
「加州さん、お仕事ですか?」
きょとんとしている秋田に、加州は苦笑して頬を掻く。
「あー……実は、爪紅を塗る練習してるんだ。筆の扱い、まだ慣れなくて」
なるほど、と納得した秋田は、落ち着かない挙動で部屋中を見回して自分自身の身体に目をやった。小さな両手を感慨深そうに見つめる姿に、加州がくすりと笑みを漏らす。さっきまでの自分を見ているようだ。
「……ふふ、変な感じがします。まだ一日も経っていないんですよね」
くすぐったそうに笑う秋田は、思い通りに動く身体を得たことが本当に嬉しいらしい。
加州は筆を扱う練習の手を止め、改めて秋田が顕現した昨日の出来事を振り返った。
秋田藤四郎と名乗る短刀が励起されたとき、加州はいろいろな意味で驚きを隠せなかった。
戦のために呼び出された兵士が、これほどまでに幼い姿で現れたこと。そして、彼の顕現と同時に妖しい光と花々が咲き乱れたこと。まるで幻術のような、現実味のない光景だった。
白光を纏い、煌々と舞った桜花は、秋田が名乗り終えるのと同時に消えてしまった。欠片も残らず、まるで空気に溶けるようにして霧消した花に加州が眉を寄せると、程なくして秋田の姿も幻のように見えなくなってしまう。
大きな木箱の中には、物言わぬ小さな短刀だけが残っている。煌びやかな登場が嘘のように、少年の姿はどこにもなくなっていた。
「え?」
驚きのあまりぽかんと口を開いた加州に、こんのすけが風呂敷の中から青いお守りを出して手渡した。手の平に収まるサイズのそれは青地に銀色の刺繍が施され、表には金の糸で『鍛刀御守』と縫われている。裏には同じく金糸で、本丸紋の模様が描かれていた。
「本来、刀剣を目覚めさせ、刀剣男士として顕現させることが出来るのは、その能力を持った審神者である主様のみです。しかし雑務などで手が離せない場合、審神者の力を宿した御守袋を使うことで、皆様が主様の代理として、新しい刀剣男士を励起させることが出来ます」
「え、じゃあ今の奴は、まだ起きてないってこと? でも、確かに姿が見えて喋ってたよね」
お守りを眺めながら怪訝そうに加州が言い、こんのすけはさらに説明を付け加える。
「先ほどの男士は、完全な実体ではありません。人が睡眠から目覚める際に夢と現実の狭間をたゆたうような感じで、意識の一部だけが覚醒している状態です。姿も一時的に現れただけで、先程の光や桜の花などは、政府の方で設定された演出の一環ですね」
夢と現実の狭間、と言われても、顕現したばかりの加州にはいまいちピンとこない。
こんのすけは、加州にお守り袋を短刀の本体へ当てるよう促した。
「審神者自身が能力を使うか、代理の者が御守袋を刀剣に触れさせると、刀は刀剣男士として実体を持ちます。ですから、既に居る刀を鍛刀した場合は、励起させずに刀解や連結に回してください。この本丸では、刀剣男士は一振りにつき一人だけ顕現させる方針のようですから」
覚えることが予想よりも多く、後で帳面にでも纏めておいた方が良さそうだなと思いながら、加州は言われた通りに箱の中の短刀を拾い上げてお守り袋をそっと重ねた。
本体に触れた鍛刀御守の文字がきらきらと輝き、刀全体が光に包まれて人の形に代わる。
本格的に励起され、少年の身体を得た刀剣男士――秋田藤四郎が、にこにこと笑っていた。
「……改めまして、秋田藤四郎です。ずっと貴い方の守り刀をしていたので、あんまり戦には出てないんですよね。でも、主君のために、これから頑張るつもりです!」
今度こそしっかりと実体を持って、秋田は小さな身体で溌剌とした意気込みを見せる。この本丸に顕現した刀として、気合は充分のようだ。
「俺は加州清光。この本丸の初期刀だよ。よろしく」
挨拶して加州が手を差し出すと、秋田は嬉しそうに手を取って握手した。
「加州さんの手、色が付いてます。可愛いですね」
両手の爪に塗られた紅を見て顔をほころばせる秋田に、加州は照れたように笑う。
「ありがと、お洒落してるんだ。今度、秋田にもやってあげようか?」
すると秋田は、ぱっと花の咲くような満面の笑みを浮かべた。
「良いんですか? ぜひ、お願いしますっ」
それが、加州と秋田が交わした初めての約束だった。
思い出したところで、加州は不安げに眉を下げて、机上の半紙と秋田の顔を交互に見る。
「そういえば爪紅の約束してたね。うーん……他人のをやる分には両手が使えるから、綺麗に出来るかな……」
「?」
疑問符を素直に表情に出す秋田へ、加州は小筆を右手に持ち替えながら説明した。
「や、ちょっとね。俺、さっき自分の爪を塗ってて気付いたんだけどさ。この身体、右手だと上手に物が扱えるんだけど、左手じゃ上手くいかないんだよね……」
「それは、加州様が右利きだからですね」
加州が難しい顔で言うのとほぼ同じタイミングで、部屋の障子が開いた。二人がぱっと振り向くと、手拭いを頭に巻き、作務衣を着たこんのすけの姿があった。
「おはようございます」
相変わらず感情の読みづらい黒目がちの瞳で真っ直ぐに二人を見つめ、ぺこりと頭を下げる。秋田も深々とお辞儀して、「おはようございます!」と爽やかな笑顔を見せた。
秋田に続いて加州も「おはよ、こんのすけ」と微笑み、「右利きって?」とこんのすけの方へ向き直る。こんのすけは開け放った障子の向こう側に立ったまま、すらすらと解説した。
「人間には利き手というものがありまして。多くの人は右手の方が動かしやすいと感じるものだそうです」
「へぇ、そうなんだ」
興味深そうに右手を握ったり開いたりする加州と、慌ただしく押し入れに布団を仕舞う秋田。
そんな二人に、こんのすけは淡々と予定を告げる。
「本日は、まず朝食ですね。お二人は準備が終わり次第、一階の居間に集合してください」
了解、と加州が答えると、こんのすけは「それでは、主様を起こして参ります」と会釈して、前足で器用に障子を閉めて隣の部屋に行ってしまった。
食事を用意するのは今のところ審神者の担当で、昨晩の夕餉の際には加州と秋田が手伝いを申し出たものの、まずは人の身体に慣れてからと断られたのは記憶に新しい。
内番着に着替える秋田の隣で、加州はごくりと唾を飲み込み、紅を塗り終えていない右手の爪を睨んだ。
出来るだけ酷い失敗はしないよう、少なめの量を塗り広げると、大満足とはいかないまでもそこそこの出来にはなったと思う。
塗ったばかりの紅を乾かす時間も惜しんで居間へと降りた加州は、朝食を食べるのにも爪に神経を使い、一日の始まりからどっと疲労していた。
ただでさえお椀に慣れていないというのに、食器で紅が剥げてしまわないよう、また爪紅で食器を汚してしまわないように食事を摂るのは、予想していたよりもずっと大変な作業だった。
やはりきちんと乾かしてから来れば良かったと、食事中に何度も反省した。
食器の片付けまで主に任せるのは、加州も秋田もとても申し訳なく思えて仕方なかったが、不慣れな手つきで食器を割りでもしたら大変だ。
二人は、早く人間の身体に慣れて、主の手伝いが出来るように頑張ろうと話し合いながら、濡れた布巾で机の拭き掃除をしていた。
そこにこんのすけがやってきて、主からの伝言を報告する。
「本日の予定ですが、お二人には万屋へ買い出しに行っていただきます」
予想していなかった言葉に、加州が僅かに目を丸くして聞き返した。
「買い出し? 戦じゃなくて?」
驚きと、ほんの少し残念な響きを含んだ問いかけに、こんのすけはその反応を見越していたように理由を並べた。
「まず、我が本丸には未だ加州様と秋田様の二振りしか顕現しておりません。戦場へと急く気持ちも分かりますが、せめてあと一振りは鍛刀で迎え入れたいところですね」
その言葉に、加州は先日、秋田を顕現させる前に単騎で函館へと出陣したことを思い出す。
出陣の方法や手入れの仕方を学ぶという意味もあって、たった一振りで向かわされた戦場は、練度の低さとまだ人の身に慣れていないことでとても不安なものだった。
「それから、主様には本丸の運営について覚えていただくことが山ほどありますので。先達の審神者に助言をいただきながら、丸一日は勉強漬けですね」
つまり、とてもじゃないが今日は出陣に時間を割くことなど出来ないようだ。
「……なるほどね。じゃあ俺たちは人の身に慣れる訓練も兼ねて、今日は本丸の小間使いってわけかー」
「基盤整備ですよ。昨日も言いましたが、ここは生まれて間もない本丸ですからね。なにかと大変なこともありますが、新しい物事を一から積み上げていくというのは、きっと思っているよりも存外楽しいものですよ」
どこか拗ねた様子の加州をなだめるようにこんのすけが言って、二人のやり取りを静観していた秋田が口を挟む。
「そういえばこんのすけって、僕たちの本丸に来る前は別の本丸にいたんですか?」
あ、それ俺も気になるかもと加州が顔を寄せ、二人に見つめられたこんのすけはふいと顔を逸らしながらも胸を張った。首に結われている銀色の鈴がチリンと鳴る。
「私は研修生上がりですから。政府で基礎的な研修を受け、先輩の管狐と共に他の本丸にて研鑽を積み、晴れて新しい本丸を一匹で任されるまでに至ったのです。もっとも、全ての管狐が同じ道のりで本丸に配属されるわけではありませんが」
誇らしげに語るこんのすけへ、加州と秋田は「おおー」と小さく拍手する。こう見えてなかなかの努力家、根性と実力のある狐のようだ。
「私のことはさておき、万屋への地図を主様より預かっております」
素直に褒められたのが恥ずかしかったのか、こんのすけは照れを隠すような改まった口調で、一枚の地図を加州に手渡した。
受け取った加州が、秋田にも見えるよう腰をかがめて地図を広げる。本丸と書かれた印から一本の線が延び、橋を越えた先に商店街があるようだった。
「この商店街の中心にある、大きな万屋に行ってきてほしいとのことです。覚え書きはこちらで……とりあえず数日分の食料品ですね」
もう一枚、買うものを箇条書きにしたメモ用紙も渡され、それは秋田が受け取った。当面の食材となるのだろう、数種類の野菜が几帳面に連ねられている。
「いよいよ、外に出られるんですね」
きらきらと目を輝かせる秋田を見て、加州が緩く口角を上げる。
「お、やる気満々じゃん。頼もしー」
こんのすけが居間の時計を見て時間を確認すると、チッチッと時を刻む壁掛け時計は、九時過ぎを示していた。
「では、十時に玄関へ集合することにしましょう」
居間の片付けを終え、二人は近侍室に戻って外出の準備を始めた。渡された地図と買い出しのメモは、それぞれ加州が地図を、秋田が買い出しメモを持つことに決める。
二人とも、特に私物がないので準備らしい準備もなく、手持無沙汰な気分になったところで、加州が「あっ」と声を上げた。
「約束、忘れないうちにね」
ばたばたと箪笥の小物入れを開けて赤い小瓶と小筆を取り出し、文机の前に秋田を座らせる。そして加州自身は秋田の対面に腰を下ろした。
「時間あるし、爪紅塗ってあげる。ちょっと冷たいよ」
小筆で紅を掬い、手を差し出した秋田の指をそっと掴んで、小さな爪に塗り広げる。
「わぁ……。なんだか、花びらみたいですね」
頬を染めて微笑む秋田。素直な反応に、加州も笑みを返す。
黙々と爪紅を塗る静かなひとときが流れ、やがて加州は秋田の左手を離した。五枚の爪が、見事な紅色に染まっている。
「……どうかな?」
少しだけ心配そうに尋ねる加州に、秋田は左手を掲げて深紅の爪を眺め、幼子のように目を輝かせた。見ているだけで胸が弾む、美しい色だ。
「とても綺麗です! ありがとうございます」
その様子に安堵した加州は、ほっと息を吐いて秋田の右手を取る。
「ん、気に入ったのなら良かった。右手にも塗ってあげるね。あ、乾くのに時間かかるから、しばらくは物が当たらないよう気を付けて」
加州が秋田の爪を塗る間、秋田は部屋の窓から見える青空を静かに見つめていた。
右手の爪も塗り終わり、秋田は爪に気を付けながら膝に手を当てて加州へ礼を言う。加州が道具を片付けながら時計を見ると、ちょうど十時になる五分前だった。
「そろそろ降りよっか。……あーるじー? 俺たち万屋に行ってくるね。財布と、地図に買い物のメモと……ん、忘れ物はないよ、大丈夫」
「行ってきますね、主君」
加州が部屋の障子を開け、二人は隣室で作業をしている主に声を掛けて財布を預かってから階段を降りる。一緒に渡された布の鞄に財布とメモを入れて、秋田がしっかりと肩に掛けた。
玄関先では、すでにこんのすけが待っていた。
上がり框に座り靴を履く秋田の手元を見て、こんのすけが「ほう」と感嘆の声を漏らした。
「加州様にしてもらったのですか? 可愛らしいですね」
秋田は自慢げに笑って、靴を履き終えるとこんのすけに見せつけるように両手を開く。深い紅色の爪が、こんのすけの鈴に柔らかく反射した。
「加州さん、塗るのがとても上手なんです! 丁寧で、優しくて」
唐突に褒められた加州は、満更でもなさそうにはにかんだ。
「どういたしまして。こういうのも、悪くないね」
玄関を出た二人と一匹は、飛び石を辿り真っ直ぐに正門へ向かう。顕現してから初めて外へ出た秋田は、空の青さや流れる雲の白さ、頬を撫でる風に、一瞬で心を奪われたようだった。
「……外の世界って、本当に素敵ですねぇ」
しみじみとした口調で両目を細め、正門に描かれている模様に目を留めて、「わぁっ」と声を弾ませる。
秋田の目に映る正門は、本丸の玄関に相応しく立派な佇まいをしていた。門扉には草花と筆の模様が墨で描かれ、独特な存在感を放っていた。
「こんのすけは留守番?」
加州が横目で問うと、こんのすけは二人から少し離れた位置で行儀良く前足を揃えて頷いた。
「はい。主様のお目付け役ですから。本丸の留守は任せておいてください」
「お使い、頑張ってきますね」
優しくこんのすけの頭を撫でる秋田に、くすぐったそうに目を細めて、こんのすけは二人を門へと促した。
「この正門は、いろんな時代や場所に通じる入口であり、帰り道でもあります。主様が行先を指定することによって、商店街などの外界に通じたり、各出陣先や政府の施設に繋がったりもしますが……それを設定できるのは主様だけですので、普段は近付かないようにお願いします」
傍目には何の変哲もない普通の門だが、やはり特殊な能力があるらしい。不用意に近づくと大変なことになりそうだというのは、加州も秋田も直感的に理解した。
「それでは、門は既に商店街へ繋がっていますので。なにかありましたら、これで連絡を」
渡された端末は、加州の片手にちょうど収まるくらいの、秋田の手には少し大きいサイズの機械だった。直感的な操作が可能なタッチパネル式で、加州が液晶画面に触れると、瞬時に点灯して様々な項目が表示された。
「電話は、主様や私と直接会話することの出来る機能で、メッセージは文字のやり取りをするための機能で……まあ、使っているうちに分かると思いますから。ここに時間が出ているので、十一時半には戻ってきてください」
画面の右上に表示されている数字は、十時七分を示している。
非常にざっくりとした説明で手渡された機械を、加州はとりあえず懐にしまった。
「それでは、気を付けて行ってらっしゃいませ」
ふっくらとした尻尾を一振りするこんのすけに手を振り返し、加州と秋田は手を繋いで門を潜り抜けた。
重厚な門扉の向こうは、爽やかな青空と自然の道が広がっていた。
審神者が指定することによって行先の変わる扉とは、恐ろしくもあるが面白くもあると思いながら、加州は秋田の手をしっかりと握る。
「今日の天気は一日中晴れ。今の時代は、これからの天候が一週間先まで予想できるんだって。凄いね」
懐から先ほどの機械を取り出し、加州は慣れない手つきで画面を操作する。天気と描かれた画面に触れて秋田へ手渡すと、秋田の瞳が生き生きと輝いた。
「とても便利になったんですね。天気予報って言うんですか……僕もやってみたいなぁ」
「お、秋田も予報しちゃう? 猫が顔を洗うと雨が降るとは聞いたことあるけど、俺たちにもできるかなぁ」
他愛ない話をしながらしばらく歩いていると、川を跨いで小さな石橋が掛かっていた。橋名板には卯の橋と刻まれていて、数匹の兎が描かれている。
年季が入っているようだが、きちんと手入れされているのがよく分かる、綺麗な橋だった。
「うん、この橋を渡って一本道だね」
地図を確認して橋を渡り、加州と秋田は更に先へ進んだ。
橋を過ぎると、すぐに商店街が見えた。アーチ状の看板が高々と掲げられ、のどかな道程が一変して華やかな活気に満ちている。
本丸の外に興味津々な秋田は落ち着かないそぶりで辺りを見回し、加州は決してはぐれないように秋田の手を軽く握り直した。
商店街には、実に色々な店があった。服飾専門店や甘味屋などが立ち並び、呼び込みをする者や道を行き交う客は多種多様で、加州たちと同じ付喪神や妖怪の類ばかりに見えた。
「あちらは唐傘お化けさんでしょうか……凄いですね……」
流石の秋田も、好奇心と同じかそれ以上に畏怖や畏敬の念が強いようで、加州にくっついて離れようとしない。ただ目だけをくりくりと動かして、人の流れや店を追うので精一杯だった。
決して身動きが取れないほど混雑しているわけではないが、はぐれてしまうと合流するのは絶望的だろう。二人は気を引き締めて歩を進めた。
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