序章「はじまり」


 時は西暦二千二百五年。
 時空を超える戦争のさなか、人と物にまつわる物語が無数に生まれ、そしてそのほとんどが長い歴史の影で静かに消えていった。
 審神者と呼ばれる歴史の守り手によって励起された刀剣の付喪神、刀剣男士。過去と未来を守る役目を持った戦士たちは、人に近い器を与えられてこの世界に顕現する。
 元は『物』であった彼らは、それぞれに固有の姿を得て『者』となった。
 呼吸することで心臓は熱く鼓動し、傷を負えば鮮血が流れる。食事や睡眠を取ることも出来るし、自らの意思で動き、人と何一つ変わらない生き方で毎日を過ごすことも出来る。
 一日の繰り返しで日々が積み重なれば、やがて季節は平等に巡っていく。
 春は誉桜にも似た花吹雪に感嘆し、夏には青空の陽射しに目を細めて汗を流す。秋は移ろう景色に物悲しさを覚え、冬には寒さに耐えて雪解けを待つ。
 人の身体を得て長い年月を経た付喪神たちは、人間のような暮らしの中で、己の器に確かな心が形成されていく感覚を知った。それは、彼らが歴史を守る意味を知るため――物も歴史も、全ては「人の心」から生まれたものであるため。
 そしてそれ故にこの本丸の者たちは、暮らしの中で培われた「付喪神の心」を記録に残した。



 これは、とある本丸の刹那の奇譚。



 八月も折り返しを過ぎた夏の午後。
 数日後に処暑を控えた青空は、どこまでも抜けるように晴れていた。山のような形で縦長に伸びた入道雲が、まるで一つの巨大な生命のように、大きな屋敷を見下ろしていた。
 空気感だけは素朴な片田舎の民家といった雰囲気を持ちながら、その屋敷は単なる家屋とは到底思えないほどに大きかった。重厚な木製の門扉から、落ち着きのある色合いで揃えられた飛び石が延々と伸びて、屋敷の玄関口に繋がっている。
 庭へ回ると、緑と茶色の草木が鮮やかな群青の空に美しく映えていた。地平の彼方には屋敷全体を囲む漆喰の壁がそびえ立っているはずだが、敷地があまりに広大なので、限界まで目を細めてやっと壁があるのが分かるかどうかといった具合だった。
 さらにぐるりと視界を移動させると、屋敷から少し離れた位置に厩が見えた。その脇には、手付かずだが今すぐにでも畑か何かに使えそうなくらいの空き地もあった。まるで、これから誰かが活用してくれることを待っているかのような佇まいだ。
 しかしそれだけの規模に反して、屋敷の中には人の気配がほとんどなかった。空き地も庭も厩も、人っ子一人いない状態で静かにそこに在るだけだ。
 半刻が経ち、入道雲の傍に浮かぶ千切れ雲が、屋敷の上空を端から端まで横切った頃。
 誰もいないはずの屋敷から、唐突に人の声がした。唯一の出入り口である正門を通った者はおらず、まるで屋敷の中で突然生み出されたかのようなその人物は、楽しそうに声を弾ませた。
「お、凄く良い天気じゃん。主も出てきたら良いのに」
 屋敷の一室から縁側へと現れたのは、黒髪を肩の辺りで一つに結った少年だった。緩やかな赤いツリ目に、両耳から下がる金色のイヤリングがゆらゆらと揺れている。赤い襟巻で首元を覆い、行燈袴の足元に一匹の狐を連れていた。
 狐は、見た目は普通の狐よりも丸っこくて愛嬌があるが、白い顔を不思議に彩る模様のせいで、どこか妖怪じみた雰囲気を漂わせている。ふさふさした白い胸毛の上で、首に付けられた銀色の鈴が陽光を受けて鈍く輝いていた。
「主様は陽の光が苦手のようで。外出自体は、嫌いじゃなさそうですが」
 張り子の狐面を思わせる、感情の読み取りづらい顔で答えた狐に、少年は狐自身についての問いを投げかけた。
「っていうか、こんのすけ……だっけ? なんかやたらふわふわしてるけど、暑くないの?」
「私の夏毛は一本一本が細く、風を通しやすい構造になっています。そのため、見た目ほどに暑くはないのですよ。加州様こそ、夏場に襟巻などして暑くないのですか?」
 同じ問いを返されて、加州と呼ばれた少年は首に巻いた赤い襟巻に右手を当てて苦笑した。
「あんたと一緒。これ、けっこう薄い素材だからそんなに暑くないよ。……冬用は、また別にあるのかな」
 他愛もない会話を交わした一人と一匹は、どちらからともなく青い空を見上げる。縁側から覗いた夏の空は清々しく晴れていて、見ているだけで気持ちが良かった。
 ゆったりと流れる白雲を見つめ、加州は全身に空気を入れるように深呼吸した。その様子を見ていた狐――こんのすけは、黒目がちの瞳をじっと加州に向ける。
「……初めて得た人の身体は、どうですか?」
 それは単純な興味本位の質問にもとれたし、注意深く観察している風にも見えた。
 頬を掻き、自身の身体を見下ろして、加州は思ったままの心境を口にする。
「やっぱり、まだ変な感じ。でもこれから慣れていくんだろうなって思うよ、うん」
 不意に風が吹いて、加州の襟巻とこんのすけの体毛をなびかせた。音のない涼風に誘われて顔を上げると、本丸の正門が目に入った。
 大男が数人は同時に通れそうな、とても大きく幅のある門扉に黒く模様が描かれているのを見て、加州は怪訝な表情で眉根を寄せた。
 赤い瞳を眇める加州に、疑問を察したこんのすけが庭へと降りる。
「本丸紋と呼ばれる紋様です。各本丸を示す模様で、これは草花と筆を描いたものですね」
 門の前に立ち解説するこんのすけに、草履を履いてついてきた加州が「へぇ」と感嘆の声を漏らす。言われてみれば筆の方はすぐにそれだと分かり、加州は草花の方もじっと見つめた。
「こっちは……胡菜かな?」
 こんのすけは「そうですね」と頷いて、「現代では菜の花と呼ばれることが多い花ですね」と補足する。
「春先に咲く、黄色くて可愛い花だよね。ま、今は夏だけど」
 そう加州が呟くと、こんのすけはくるりと屋敷の方へ踵を返した。
「さて、外の様子を見るのは切り上げて、そろそろ主様の元へ戻りましょう。これから、やることはたくさんありますからね。まずは単騎での出陣にその後の手入れ、鍛刀の説明と内番の確認……」
 仕事人ならぬ仕事狐のスイッチが入ったらしいこんのすけに、加州は唇を尖らせて抗議する。
「え、俺いま顕現したばっかりなんだけどー? 忙しすぎじゃない?」
 腰に手を当てて面倒くさそうな顔をする加州へ、こんのすけは目尻を吊り上げて口をかっと開いた。面妖な模様付きの顔で凄まれると、なかなかに迫力がある。
「何を言っているのですか。この本丸は今日が始まりの日、地盤をしっかり固めなければその上に立つ全てが不安定な本丸になってしまいます。加州様は我が本丸における初期刀、つまり本丸全体の基礎となる存在なのですから、もっと自覚を持って……」
「…………お前、けっこう口うるさいね」
 半目になって呆れた口調で言いながらも、加州は自分の胸が少しだけどきどきと弾んでいることに気が付いた。
 そっと胸に手を当てると、心臓の位置だろうか、とても小さな鼓動が感じ取れる。それは緊張か、楽しみか、不安か、期待か。あるいは、その全てか。
 自分でも気づかないうちに微笑み、加州は赤い襟巻をたなびかせて正門の模様――本丸紋を見つめる。
「しょうがないなぁ……。選んでもらったからには、頑張らないとね」
 加州の前を歩いていたこんのすけが、振り向きながら僅かに口角を上げた。
「その意気です、加州様。私も出来る限りの力を尽くしますので」
 思ったよりもやかましかった狐だが、本丸を支える気持ちは厚く熱いようだ。なにもかもを一から始める仲間として、頼もしく心強いことには違いない。
 門に背を向け、加州は自分の顕現した本丸の屋敷を仰いだ。
 快晴の空に悠然と浮かぶ入道雲。そして、大きく堂々とした佇まいの屋敷。泰然自若としたその風景は、本丸の始まりに相応しく、爽やかで明るい空気に満ちている。
 加州は、本丸の中心にあたる中庭で足を止めて不敵に笑う。
「じゃ、始めよっか」
 見た目は立派で大きいものの、内実は出来たばかりの小さな本丸。
 それがどう育っていくものかと湧き上がる感情に胸を高鳴らせながら、加州とこんのすけは屋敷の中へ踏み出して行った。
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