陰影に咲く


 赤い壁は呼吸音まで吸い込んで、少女の息遣いさえひっそりと閉じ込めてしまうようだ。
 小さなテーブルに、つつましいサイズのゴミ箱。天井から垂れる照明ランプ、シャワー室へ続く扉。薄い天板が貼られただけの簡素な机。あまりに無難で無個性な、どこまでもノーマルを極めたその部屋には、しかしいくつか普通ではない奇妙な点がある。
 一つ目は、壁に付けられた小型のモニター。画面は消えていて電源が付く様子もないので、今となっては何の役にも立たないインテリアだ。さらに、モニターと反対側の天井からは、部屋の内部を撮影するための監視カメラも付いている。こちらも今はその役目を終えているが、丸く黒光りするレンズは、誰かが息をひそめてこちらを覗いているのではないかと思わせる不気味な雰囲気を纏っていた。
 二つ目は、壁の一部を塞ぐようにして覆っている無機質な鉄板。それなりに年数が経っているようで、気のせいか錆の匂いが強く、息の詰まるような閉塞感で室内を満たしていた。
 そして三つ目は、部屋の中心の棚に飾られている金色の模擬刀。妖しく煌めく重量感のある模擬刀は、どこか生活感に欠けているもののシンプルで過ごしやすそうな室内には似合わない代物だ。
 どうしてそんなものがこの部屋にあるのか、青いシーツのベッドに腰掛けている少女は、その答えをよく知っている。少女は悲壮感と焦燥を煮詰めた暗い瞳で視線を床に落としていたが、やがて艶やかな長髪をなびかせてゆっくりと立ち上がった。
 超高校級のアイドルに相応しい、清楚で上品な立ち居振る舞い。一挙手一投足、指の先まで洗練された身のこなしで部屋の扉へと歩を進め、ドアノブを握った少女の横顔には、もう後戻りできないのだという強い決意が滲んでいた。

 廊下には、幸いなことに誰の姿も見えなかった。少女は気を引き締めて一歩を踏み出し、脳内で描いた『作戦』を反芻する。個室は防音だと聞かされていたが、無意識のうちに自然と忍び足になってしまう。かえって怪しい歩き方になってはいけない。自然に、普通に――胸中で繰り返し自分に言い聞かせながら、少女は淡々と歩みを進めていく。
 目的の場所へ進む少女の耳が、不意に、数人分の話し声を聞き取った。賑やかで懐かしさを覚える、不思議な声の群れ。少女にはやるべきことがあるというのに、声は彼女の胸を酷くざわつかせて鳴りやまない。声の主を、話の内容を、どうしても知りたいという気持ちになってしまう。
 そんな自分の心境に戸惑いつつ、目指していた食堂へ向けていた足を半回転させて、少女は声を辿るように『希望ヶ峰学園』と書かれた門に手をかけた。

 見えない何かに手を引かれ、背中を押されて引き寄せられるように、少女は彼女自身もわけの分からないままに真っ直ぐな足取りで歩いていた。すぐに玄関ホールの扉が見えて、僅かに開けられた隙間から明かりが漏れている。誰がいるのだろう。
 もはや『作戦』のことなど頭から消え去った少女は、扉の間に華奢な体をそっと滑り込ませた。そして、ホール内で談笑する六人の姿を見て――彼らが手に持っている色鮮やかな花束を見て、少女は短く息を呑む。
 外の陽射しを背に受けて立つ、六人の少年少女。黒いスーツに身を包み、それぞれに花束を抱えた彼らの先頭、ひときわ小柄な少年は、数か月ぶりに足を踏み入れた地で優しく微笑んだ。
「……久しぶりだね」
「……苗木、君」
 照れくさそうにはにかむ笑顔は少女の胸を温かな声音で締め付けて、彼女――舞園さやかは、唇を小さく動かし彼の名を呼んだ。声は、誰の耳にも届かなかった。

 玄関ホールに現れた一同は、各々が抱える花束を渡すべき相手に渡すため、各自の持ち場へと分かれた。
 超高級の格闘家である親友へ花束を持ってきた少女――朝日奈葵は、三階の娯楽室へとダンボール箱を運んでいた。テーブルに置かれている、もう使う者のいないチェス盤を脇に寄せて、両腕に抱いた溢れんばかりの花束を飾る。
 下に置いたダンボール箱から、白に赤い水玉模様の包み紙のアメを出して、花束に添えた。
「どれだけ放置されてたと思ってんのよ……もうベトベトに溶けてるんじゃないの」
 眉を寄せる腐川冬子の言葉に、朝日奈は気にした風でもなく「んー……想い出の品っていうか、嬉しいものならこれかなって」と笑った。ふん、とやや不機嫌そうに顔を逸らし、腐川もテーブル上に二つの花束を置く。
「あいにく、こっちの二人が喜びそうなものなんか、あたしには思いつかなかったわ。一応、適当に見繕ってやったけど……」
「えー、すごくわかりやすい二人じゃない?」
 大袈裟に首を傾げて、朝日奈は花束の中身がよく見えるように花の向きを整えた。
 透明なフィルムに包まれて色鮮やかに咲き誇る花々は、死者への手向けとするには、いささか不釣り合いにも見えた。真紅の薔薇に深い紫色の薔薇、暗闇に紛れそうな黒薔薇……どれも暗く重い色だが、申し分なく高貴な雰囲気で絢爛豪華な花束だった。
 しかしその妖艶な色香を放つ花束には、小ぶりな葉はともかく茎から伸びる棘まで一緒に包まれていて、故人へ供えるには相応しくないようにも感じられる。
 それでも、ここに眠る超高校級のギャンブラーならば喜んでくれるに違いないと、朝日奈は苦笑する。なにせゴシックロリータと耽美な世界観を愛し、コロシアイ学園生活という狂気の空間において自室に私物の棺桶を持ち込んでいたらしい女だ。
 部屋に入ったことがあると言う苗木いわく、棺桶の周りには赤薔薇を敷いて飾り立てていたと言うのだから、彼女の場合は死出の旅路すら美しく華やかであるべきなのだろう。お悔やみだからと言って菊などを供える方が似合わない気もする。
「なんだ、腐川ちゃんも分かってるじゃん」
 朝日奈は嬉しそうに笑って、色合いこそ毒々しいが上品な薔薇の花束の隣に並べられた、大ぶりな花束に添えられている色紙を見た。
 色紙には、生前の超高校級の同人作家が愛してやまなかったキャラクター――赤みがかったピンクの髪を噴水のように結った、美少女ヒロインらしからぬ体型のアニメキャラ――が描かれている。しかも、アニメに特別詳しいというわけではない朝日奈から見てもプロの仕事だと分かるほどに上手い。
 イラストの端には、ご丁寧に「外道天使もちもちプリンセスぶー子」とロゴが輝き、天使のイメージらしい衣装を着たキャラが「山田一二三くん、いつも応援ありがとう!」と彼の名を呼んで、語尾には星のマーク、片目を閉じたウィンクの先にはハートマークを飛ばしている。
「これ、山田が好きだったアニメのキャラ……だっけ? 凄い、本当のアニメの絵みたい!」
「本当のアニメーターが描いたのよ。……昔、あたしの書いた小説がアニメ化されるかもって話になった時の企画で知り合ったの。そのときは、アニメなんか興味ないから断ったけど。事件に巻き込まれても無事だったって聞いて、ちょうどのタイミングで苗木が皆にお花を供えに行こうなんて言い出したから……お、思いつきで事情を話してみたら快諾されたんだからしょうがないでしょっ!」
 興奮気味に目を輝かせる朝日奈と、なぜか彼女以上に興奮してヒステリックに叫ぶ腐川。
「アニメの人にわざわざ連絡を取って頼んだってこと? 優しいとこあるじゃん!」
 朝日奈に満面の笑みで褒められ、腐川は戸惑い照れを隠すようにそっぽを向く。
「……まぁ、知らない仲じゃなかったわけだしね」
 つっけんどんな言い方だが、声色に普段とは違う湿っぽさが混じっていることに気付き、朝日奈もわずかに眉を下げる。
 単なる気まずさとも違う神妙な空気が流れて、やがて朝日奈は花束に向かって手を合わせた。
 腐川も驚いた表情で目を丸くしつつ、おずおずとためらいながらも、朝日奈の横に並んで合掌する。以前の彼女からは考えられない行動に、朝日奈は腐川に分からないほど少しだけ口角を上げた。
「……行こっか」
 黙祷を終えて微笑む朝日奈。小さく頷き、腐川も合わせていた手を下ろして、二人は娯楽室を後にする。
 誰もいなくなった薄暗い部屋の中、三人分の人影が、室内から動くことなく二人の後ろ姿を見守っていた。

 学園の二階、開け放たれた扉の先、男子更衣室の中に一人の青年が立っていた。手には大量の花束をひとまとめに提げ、二台のトレーニング器具の前で腰を落とす。
 彼――十神白夜は、思いのほか優しい手つきで器具の前に花を供えた。
「……」
 犠牲となった仲間たちに献花しに行こう、と苗木が提案したとき、十神の脳裏を真っ先によぎったのは、紛れもなく超高校級のプログラマーのことだった。
 コロシアイ生活が始まった当初は路傍の石としか思えず、欠片の興味も抱かなかった存在。
 しかし、本来あった学園生活の記憶を断片的ながらも取り戻しつつある今となっては、彼の才能にどれだけの価値があったのか痛感せざるを得なかった。崩壊した世界を立て直すために活動する間も、もしも彼が生き残っていたらと歯噛みする場面が何度もあった。
 なにより、よみがえった記憶の糸を辿る度に、失ったものの大きさを改めて思い知らされる。二年という決して短くない歳月を共にし、最悪の場合は一生をシェルター内で共に暮らすことさえも受け入れられる程度には、認められる仲間だった。
 社会のゴミでしかない超高校級の暴走族という肩書きの奴も、頭が固く規則を守ることしか能がないと思っていた優等生、超高校級の風紀委員も、かつては確かに信頼のおけるクラスメートだったのだ。……社会で実践的に役立つプログラマーはともかく、後者の二人についてはマイナスの評価が数ミリ程度上がったに過ぎないが、十神自身と彼を知る者からすれば、そもそも評価が少し上向きになっただけでも恐るべき快挙だろう。
 そんな偉業ともいえる関係を構築した存在を綺麗さっぱり忘れていたことに、十神は幾度となく悔しさと苛立ちを覚えたが、いくら感情を突き動かされたところで、起こってしまったことは変わらない。
 さまざまな才能を持つ同級生の中でも、やはり頂点に立つのはこの俺だ――並外れた経歴によって培われた尊大なまでの自信は変わらないが、それだけの能力を自負しながらも、十神には級友が喜びそうな手土産ひとつ、持参することが出来なかったのだ。
 飾った花束を複雑な表情と眼差しで見つめ、十神は静かに瞑目した。
 ――記憶を消されてたんだから、しょうがないよぉ。困ったように、こちらを気遣うように苦笑いする姿が思い浮かび、十神の眉間のしわが深くなる。誰に対しても優しく穏やかな彼が言いそうなことだが、その言葉を受け入れることは十神にとって逃避と同義だった。
 ――オメーらしくもねぇ、しけたツラしやがってよ、気持ちわりぃな。
 ――なに、気にすることはない。時々にでも思い出してもらえるなら、それで充分だ。
 聞こえるはずのない声が鮮明に思い出されるのは、らしくもなく感傷に浸っているせいか、もしくは本来の学園生活で実際にそんな会話を交わしたことがあったのだろうか。それすらも思い出すことは出来ず、考えることさえ無意味に思えてしまう。
 苗木が「全て背負ったまま前に進む」と言ったように、この痛みも受け入れて、抱えたまま生きていくのが道理なのだろう。超高校級の完璧たる十神白夜には造作もないことだ。しかし、開かれた蒼い瞳には自信だけでなく確かな喪失感も浮かんでいる。
 そんな自分自身を自嘲するかのように十神は緩く口角を上げ、薄い笑みをたたえて立ち上がった。今は供える物を思いつかなくとも、思考を止めずに考え続けることは出来る。
 そうして犠牲となった彼らのことを考えることが、なによりも一番の弔いなのかもしれない。
 実に十神らしくない考え方ではあったが、踵を返し更衣室から出ていった彼の背を見つめる三人の影は、嬉しそうな気配を纏って三者三様に笑っていた。
 スポーツバッグを手に持った少女風の容姿の少年と、白い学ランを着た生徒と、長く派手な刺繍の施された学ランを着た生徒。仲良く並び立っている彼らの姿は、やがて煙のように薄くなっていった。

「……っと、ここでいいか?」
 一階、寄宿舎側の校内で周囲を見渡し、葉隠康比呂はトラッシュルームの焼却炉前で足を止めた。掃除当番しか開けられない鉄格子は冷たく閉ざされて、焼却炉を稼働させるためのスイッチは当然の如く電源が落とされている。
 光のないボタンに目をやり、葉隠は深い溜息を吐いて鉄格子の前に花束を供えた。コロシアイ学園生活の中では特に深い絡みがあった関係ではないが、だからといって特別に仲が悪かったわけでもない。気兼ねなく雑談や軽口を叩き合える、いわゆる普通の友人だった。知り合い以上で親友未満――ある意味では、いちばん居心地の良い関係かもしれない。
 死んでしまった皆へ花束を手向けに行こうという話になった際、誰が誰の花を担当するか決めるとき、「桑田っちの分は俺に任せるべ」と挙手した葉隠に、反対や怪訝な顔を向ける者はいなかった。強いて言うなら霧切が「あなたたち、そんなに仲が良かったかしら?」と言いたげな表情をしていた気もするが、口に出して言及されることもなかった。
「桑田っちよぉ。あんな可愛い従妹に慕われてるなんて、ずるすぎだべ」
 努めて明るい口調で笑い、葉隠は供えた花束へ冗談めかして笑いかける。先日、塔和シティで行動を共にした少女を思い起こし、彼女の桑田に対する熱烈なまでの偏愛を振り返ると、笑いと同時にやりきれない息が漏れる。
 初めこそ、ジェノサイダーにも匹敵するようなストーカー気質および思いの丈の深さにドン引きしたものの、一連の騒動から解放されて改めて彼女について考えてみれば、それは絶望と呼ぶ他ない運命だった。世界で一番――むしろ彼が世界の全てと思うほどに愛している相手の死を突き付けられ、見当違いだが本気で命を懸けた復讐を続けている。……実際のところ言うほどの悲壮感がないのは、彼女がただ闇雲に復讐するのではなく、きちんと相手のことを見てからどうするか決めると言っていたからだ。
 今日この学園には全員が集まっているが、誰も彼女の話題を口にしないところからすると、葉隠以外の生き残り面子は彼女とまだ出会っていないらしい。
「この花束、花音っちが選んでくれたんだべ?」
 葉隠が苗木から連絡を受けて桑田の花束係に立候補したものの、さて花束なんて贈ったことねぇぞどうしたもんかねと頭を悩ませ、しかし相談する相手など一人しか思いつかないのは至極当たり前のことだったと言えるだろう。二つ違いの従兄に誰よりも惚れこみ、彼が超高校級の野球選手となる前から見ていた少女だ。
 さすがに生き残ったメンバーで希望ヶ峰学園へ墓参りに行くなどといったことは教えられないので、質問は自然と嘘を織り込んだものになってしまったが。
「花音っち、桑田っちの好きな花とか、心当たりねぇか?」「花? なによ急に」「いや、いつか世界が落ち着いたら、墓参りでもと思ってな」
 いけしゃあしゃあと嘘を吐くことに罪悪感はあったものの、少女は意外なほど真剣に考え込むそぶりを見せた。
 そして、「そういえば、昔渡したい物があったんだよね」と言って教えてくれたのが、野球のボールを模したカーネーションの花束だった。白い花を丸い形に整え、さながらボールの縫い目を表現するように、赤い花を二列に緩く配置している。
「まあ、そのときは葉隠が供えてきてよ」
「? 花音っちは自分で供えねぇのか?」
 葉隠の疑問に、少女はなぜか困り気だが嬉しそうな笑顔で答えた。
「あたしは、160を投げれるようになったら渡そうかなって。そしたら、レオンお兄ちゃんに胸を張って会いに行くつもりだからさ」
 唐突な百六十という数字に首を傾げる葉隠だったが、それ以上はなにも返さない少女に意味を追求するのも野暮のような気がして口を閉じた。
 思い出に浸りつつ、葉隠は野球ボール形の花束に笑う。
「……今は、俺の持ってきた奴で我慢してほしいべ。いつかオメーの可愛い従妹が、胸を張って会いに来てくれるらしいからよ」
 暗いトラッシュルームに、葉隠の声が明るく力強く響く。「じゃあ……またな」
 そう言って出ていった葉隠を見送る一人の影。その手からは鈍く光る水晶玉が零れ落ちて、音も立てずに転がっていった。

 トラッシュルームから退室し、玄関ホールを目指していた葉隠の正面方向から、こつこつと硬いヒールの鳴る音が響いてきた。それと同時に霧切響子が現れ、葉隠が「霧切っちも、供えてきたんか?」と声をかける。
「ええ」
 短く返した霧切の顔つきはいたって普段と変わらず、肉親である父親を弔ってきた後にしては感情が薄いようにも思える。けれど彼女には彼女の事情があるはずで、表面的にはそう見えないとしても、人は誰だって何かしら知らない一面があるものだ――桑田の従妹である少女との邂逅でそう学んだ葉隠は、霧切の父である学園長のことには触れず、共に玄関ホールへ足並みを揃えた。
 玄関ホールにはすでに腐川や朝日奈、十神の三人が戻ってきていた。朝日奈が「あれ、苗木が一番最後?」と人数を確認する。
「ふん、いつまでも鈍間な奴だな」
「もう、そういう言い方しないって!」
 冷たい物言いの十神に朝日奈が咎める口調で言って、霧切が冷静に場を纏める。
「もう少し待っていましょう……あら?」
 玄関ホールの扉の前に一つ花束が残っているのに目を留め、不可解そうな声を出した霧切に、腐川が疑問への返答をした。
「それは、この学園で犠牲になった全ての人に対する花束らしいわよ。ほら、いちばん上の階の教室で血まみれになった部屋とかあったでしょ? この学園にあたしたちが記憶喪失で放り込まれる前から、学園内で死んでいった人たちのための花だって、苗木が」
 説明を受け、けれどおそらく腐川が言ったよりももっと広い意味の弔いなのだろうと、霧切は嘆息して薄く笑った。学園内で死んでいった人たち――きっとそこには、江ノ島盾子や戦刃むくろも含まれているに違いない。
「……苗木君らしいわね」
 呟いたところで、ちょうど玄関ホールに戻ってきた彼の姿が、ホール内に影を落とした。

 皆と散り散りになって別れた苗木誠は、迷いのない足取りで自分の個室へと向かった。可愛らしいドット絵の表札を確認して、ドアノブに手をかけ、そっと回す。鍵はかかっておらず、扉は拍子抜けするほどあっさりと開いた。
 懐かしささえ覚える室内に入り、部屋を見回して息を吐く。コロシアイ生活に逆戻りしたような錯覚を覚えたが、苗木の身に纏う黒いスーツが、あの頃から時間は進んでいるんだと教えていた。
 苗木は花束を軽く握り直し、シャワー室へと向かう。立てつけの悪いドアをかつてモノクマに教えられた要領で開けて、それから静かに膝を折る。
「……ただいま、かな」
 シャワー室の壁に花を手向け、まるで相手がそこにいるかのように笑いかける苗木。誰かに見られたらと思うとなかなかに恥ずかしいが、いまこの部屋の中に、苗木以外の人間の気配はない。苗木は、気の緩んだ笑顔で言葉を重ねた。
 気配の存在しない幽霊となってしまった少女――舞園さやかは、血の通わない青白い顔で、生前と変わらない柔和な笑みを浮かべた。目尻に浮かんだ涙だけが、きらりと光る。
「……おかえりなさい、苗木君」
 彼女の手に握られていた包丁は、最初から幻であったかのように空へ消えた。

「ずっとお花を持ってきてあげたかったんだけど、遅くなってごめんね。これ、舞園さんに似合うと思って――っていうか、舞園さんみたいだなって思ってさ。人が集まるところとか、誰からも愛されて、とっても人気者で」
 はにかむ苗木から差し出された花束は、淡いピンク色の桜花と枝をまとめたものだった。言葉もなく花束を見つめる舞園には気づかず、苗木は近況報告に近い言葉を重ねていく。
 学園を脱出した後の出来事、未来機関と呼ばれる組織で起こった事件の顛末――近い未来で、この校舎を改修して希望ヶ峰学園を復興させ、自分が新しい学園長になる予定だということ。
 静かに耳を傾ける舞園に、苗木は丁寧に言葉を紡いでいく。本当にそこに舞園がいるのだと心から信じているような優しい表情で、大切な友人へと誠実な口調で語りかけている。
 この学園を出た後の話はとても長いもので、苗木は重要なところだけをかいつまんで出来るだけ簡潔にわかりやすく話したいらしいが、どれもこれもが衝撃的で現実味を帯びておらず、けれど苗木の言うことに嘘があるとも思えなかった。苗木と背中合わせになる形で話を聞いていた舞園は、しばし目を瞑って彼の声にじっと耳を傾けた。
 苗木が一通り話し終わり、目を閉じて舞園へ手向けた花に掌を合わせる。それと入れ替わるように、今度は舞園が口を開いた。しんと静まり返った部屋の中、可憐だが芯の通った舞園の声だけが、清流のように部屋を満たす。
「――あの夜のこと、今でもずっと後悔してるんです。馬鹿みたいですけど本気で、苗木君のことも桑田君のことも傷つけて、苦しめて――ひどい女ですよね」
 自嘲して笑う声は穏やかで、舞園は淡々と独白を続けた。
「コロシアイが連鎖するたびに、学園を彷徨う影も増えて。みんな自分が死んだことに気が付けなくて。後悔と、罪悪と……そういったどろどろした感情だけが漂っていて」
 自分を信じてくれた人を利用しようとしたこと。
 発狂しそうなほど深い後悔の渦は、死んでしまった他の生徒たちの影からも感じられた。
 思うままに生きてきたせいで衝動に負け、出たいと思う気持ちを抑えきれなかったこと。
 表面的な強さにばかりこだわって、大切な友人を傷つけてしまったこと。
 自分の弱さに向き合おうともせず、あまつさえ強くなりたいと奮起した友人に嫉妬したこと。
 友人のことを思うあまり周りが見えなくなり、暴走の果てに死んでしまったこと。
 己が愛情を注ぐ物に夢中で、本当に大切な物を思い出した時には何もかも手遅れだったこと。
 友人の負う痛みを理解しきれず、彼女ならば大丈夫だと置き去りにしてしまったこと。
 中には「妹に尽くせた」「人生をそれなりに自分らしく生き抜けた」などと後悔の念があまり見られない者もいるが、彼女たちにも思うところがあるのか、この学園から気配を消す様子はない。
 そして、舞園には苗木と同じか、それ以上に心残りなこともあった。彼女がそれまで生きていた世界のことだ。
「そういえば、コロシアイが始まってからは、あんなに一人でいるのも久しぶりで。私、今まで本当にいろんな人に支えられて、守ってもらってたんだなって」
 苗木と同じくらいに思い出すのは、芸能生活で自分を支えてくれた仲間や共演者のこと。マネージャーのこと。ファンのことだった。
「確かに厳しい世界だったけれど、私にとっては怖いだけの場所じゃなくて、確かに帰りたい場所で。息継ぎなしで泳ぎ続けるのも頑張れちゃうくらい、大事な世界で」
 なにもかも、今更になっちゃったんですけど。小石を投じられた水面のように揺れる舞園の笑い声は、涙の滲んだ寂しいもので、苗木の耳にも届かず虚ろに反響する。
 ひとしきり笑って、舞園は苗木の方に体を向けた。随分と長く瞑目している苗木の背に腕を伸ばし、彼を優しく抱きしめる。
「――だから苗木君は、どうか後悔のない生き方をしてくださいね。自分にとって本当に大切なものを、見誤らないように」
 透ける腕で苗木を包み込み、願いを託すように呟く舞園。
 ようやく目を開けた苗木は、背中や胸元に不思議な温かさがあるのを感じながら、ふっと眉を下げた。
「……ずっと背負い続けるから。その重みが、皆がいたことの証だから」
 舞園の目が見開かれ、膜の決壊した涙が頬を零れ落ちる。一筋の雫は次から次に溢れて、苗木の背にとめどなく雨を降らした。温度も質量もない涙は、床を濡らすことなく虚空に消える。
 どこか遠慮したすすり泣きは、やがて「生きていた。生きていたかった」と主張するような、激しい号泣となって苗木の個室に響き渡った。まるで、子どもが泣いているような声だった。

 苗木が玄関ホールに戻ると、テーブルにもたれていた朝日奈が「あっ、やっと戻ってきたよー」と元気な声を上げた。
「ごめん、待たせちゃったね」
 申し訳なさそうな苗木に、十神が「ふん」と不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「みんな、やるべきことは済ませたかしら」
 確認を取る霧切に全員が頷き、苗木が最後に残った花束を手に取った。苗木一人で抱えるのがやっとというほど大きく、色鮮やかで派手なものだ。
「改修の日までしか、飾っておけないけど」
 苦笑する苗木に「こういうのは気持ちが大事なんだよ!」と朝日奈が背中を押して、場を代表して苗木が花束をホールの扉に飾った。気配はなくともホールに集まった八人の亡霊が、苗木たちとのひとときの別れを惜しむように、花束の前に並んでいる。
「またしばらく、お別れですね」
 寂しげに笑う舞園の言葉。生きている者の耳には決して届かないはずの声に、しかし苗木はふと顔を上げる。
「いま、舞園さんの声が聞こえたような……」
 突飛な発言をする苗木にきょとんと目を丸くする朝日奈の隣で、霧切がくすりと控えめに笑った。「エスパー、だからかしらね」
 さらに怪訝な表情で眉を寄せる朝日奈。苗木は、苦笑いで頬を掻く。
「エスパーっていうか、ちょっとね。……自分にとって大切な人や信じてる人の気持ちって、言葉にしなくても伝わることがあるから。もう会えない皆の思いも、なんとなく伝わってくる気がして」
 その言葉には、朝日奈も「あ、それはちょっとわかるかも」と同意する。
「大好きな人のことって、ついつい見ちゃうもんね。だから、なんとなくでも考えてることがわかっちゃうのかな」
 にこにこ笑顔の朝日奈に対して、腐川は卑屈な表情で口角を上げた。
「つ、つまりただの妄想じゃない。大した想像力ね」
 そして、彼女にしては真面目な面持ちで、彼女なりの考えや信じるものがあるといった口ぶりで唇を真一文字に結ぶ。
「あたしには何も聞こえないわよ。……本当の気持ちなんて、本人にしか分からないものなんだから」
 霧切も、腐川の意見に反対するでもなく、苗木や朝日奈の言葉に賛同するでもなく、言葉を繋げた。
「互いを思い合えている間柄なら、遠く離れていても気持ちは繋がっている。けれど、どれだけ近くで大事に思っていても、声に出さなければ無意味で伝わらないこともある……。だからこそ、人間関係は複雑なんでしょうね」
「ふん、馬鹿馬鹿しい。少なくとも俺にとっては、現実に存在するものだけが真実だ。鎮魂だの墓参りだの……そもそもあれからどれだけの時間が経ってると思う。仮にあいつらの霊魂が存在したところで、とっくの昔に成仏しているだろう」
 冷淡ささえ感じさせる十神だが、花束の前で並ぶ不二咲と大和田、石丸の三人が嬉しそうに笑っていることには気付いていない。
 同じく亡霊の存在に気付いていない葉隠が、十神の態度に突っ込みを入れる。
「十神っちはドライすぎだべ。まあ、俺も正直なとこ、オカルトチックな話なら勘弁だけどよ。でもこれはどっちかっつーと、俺らのけじめをつける意味もあるんじゃねぇか? なんつーか、心の整理って言うか……」
 言いながら玄関の扉に手をかけ、入って来た時と同様に強く押し開ける葉隠。外の光がホールに差し込み、青空の下を吹く爽やかな風が、苗木たちをあおる。風は思ったより強く、扉に掛けた花束から、赤いガーベラの花がこぼれ落ちた。
「あっ、いけない」
「ガーベラなんて、花束に入っていたかしら?」
 振り返り、両手で優しく受け止める苗木に、不思議そうに小首を傾げる霧切。
 その瞬間、苗木たちは確かに皆の声を聞いた。蒼穹の下に踏み出した苗木たちの反対側で、暗闇の中から決して動くことは出来ず、だけど遠くから苗木たちの背を押すような声だ。
「――希望、常に前進」
 幾重にも重なり合った、けれど耳にすっと通るような声の群れは、苗木たちを抱擁するようにその場に響く。
「い、いま桑田っちたちの声がしたような……? 幻聴だべ? なあ!」
「あーもう、さっきまで良いこと言ってたのに……」
 狼狽する葉隠に朝日奈が呆れ、腐川はきょろきょろと忙しなく周囲を見渡し、十神も多少は動揺した様子で眼鏡の奥の目を鋭く尖らせた。
 霧切が苗木を見ると、彼は赤いガーベラを手に乗せたまま、声のした方を見て無邪気に笑っていた。目尻に浮かぶ涙は一瞬だったが、きっと霧切の見間違いではないだろう。
 柔らかな風がもう一度吹いて止んだとき、学園の亡霊たちの姿は、澄んだ空気に溶けるようにして消え去っていた。

 苗木たちが希望ヶ峰学園を訪れた日から数か月後。
 学園長室で椅子に座る苗木は、目を通していた書類を机上に置いてゆっくりと伸びをした。時刻は日の落ちる寸前で、室内は夕陽によって燃えるような橙色に染められている。――夕陽を素直に綺麗だと思えるようになったのは、いったいいつからだっただろうか。
 世界が終わりかけていた頃は、夕焼けすら空を焼き尽くしているように見えたものだと思い返しながら、苗木は椅子からゆっくりと立ち上がった。
 開け放たれたカーテンの向こう、窓の外に広がる景色を見る。だいぶ復興してきた街を見下ろすと、徐々に平和な風景を取り戻しつつある人々の姿が見えた。これまでの世界を守ってきた仲間たちと、これからの未来を作っていく仲間たち。いま、この世界があるのは、決して苗木たちだけの力のおかげではない。
 窓辺に飾られた赤いガーベラの花と、大きな写真立てに入っている78期生の写真に触れて、苗木の指先に影が落ちた。燃えるような夕陽が影を色濃く落とし、赤のガーベラが静かに揺れる。
 背負い続けると誓った影の重みをその背に感じながら、苗木は夕焼け色に染まる世界の眩しさにいつまでも目を細めていた。
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