恋の形
「うーん」
夜十時。雪村千鶴は、自室で机に向かって顔をしかめていた。
彼女の視線の先にあるのは、先日、国語の課題として出されたものだ。
「一人一句、俳句を作ってこい。題材は何でも良い」
授業の最後に土方が課した一言は、簡単なようで難しい。少なくとも、俳句など生まれて初めて作る千鶴は真っ白な紙を前に頭を抱えている。
図書室で俳句や短歌に関する本を借りては来たものの、なかなかテーマが浮かばないのだ。
「……難しいなぁ」
小さくため息を吐き、千鶴は肩を落とした。しかし提出期限はあと一週間も残っている。
やっぱり、焦らずにゆっくりと題材を探そう。そう心の中で呟いて、千鶴は机上のプリントをファイルにしまった。
それから数日後。
「出来ない……!」
薄桜学園の放課後、千鶴は白紙のプリントを前に本気で悩んでいた。いつのまにか提出日は明日に迫っている。
この六日間、何もしなかったわけではない。ただ、何を見聞きしてもピンとこないのだ。
自分以外誰もいない教室で悶々と思考を重ねる千鶴の耳に、帰宅をうながすチャイムが響く。
泣きたいような気持ちで教室を施錠して、千鶴は鍵を返すために職員室へと向かった。
「失礼します」
ノックしてドアを開くと、そこには千鶴の担任である教師、原田左之助がいた。
「遅くまで勉強熱心だな。あまり根を詰めるなよ?」
千鶴から教室の鍵を受け取り、壁のホックに掛けながら言う原田に、千鶴は小さく首を振る。
「いえ……、あまりはかどらなくて」
目を伏せる千鶴に、原田は意外そうな顔をした。
「何か難しい問題でもあるのか?」
「国語の課題で……俳句を作るっていう内容なんですけど」
「あー……」
保健体育の教師である原田は、専門外の返答に頭を掻く。
そして、それでも出来る限りの助け舟を出すように口を開いた。
「まぁ、まずは肩の力を抜くのが大事なんじゃねぇか? 俳句なんざ俺はさっぱりだが、そんなに難しい顔して作るもんじゃねぇってことくらいはわかるぜ」
言いながら戸棚を開け、原田は二人分、ポットでお茶を淹れる。
「ほら、休憩時間だ」
「え、でも……」
千鶴は遠慮がちに眉を下げたが、
「普段からお前は頑張ってるからな。ちょっとしたご褒美だ」
そんなことを言われてむげにすることも出来ず、ありがたくいただくことにした。
二人で茶を飲みながら、他愛もない話をする。
テストのことやクラスメートの話、学園に唯一の女子である千鶴のことを、原田はよく気にかけていた。
けれど、
「困ったことがあれば何でも言えよ。俺は、お前の担任だからな」
頼もしく微笑する原田の言葉に、何故か千鶴の胸がちくりと痛む。
(原田先生は……先生、だから)
自分の受け持つ生徒を気にするのは当然のことだろう。
我が儘な子供が駄々をこねるように痛む胸を押さえて、千鶴はお茶を一気に喉に流し込んだ。
「っと、あと一杯分残ってるな。飲むか?」
中途半端に余ってしまったお茶を見て、原田は千鶴に声をかける。千鶴はそれを断り、「じゃ、俺が飲むか」と腰をあげかけた原田に「私が淹れます」と言ってコップを受け取った。
お茶を注ぎ、ポットを空にして原田のもとにコップを運ぶ。
「ありがとうな」
優しい目で微笑まれるとなんだか恥ずかしくなって、千鶴は頬を染めた。
そのとき、窓の外から柔らかい風が吹いて、桜の花びらが舞い込んだ。薄桃色の小さなそれは、ひらりと軽やかに舞って原田の茶に着水する。
「……風流だな」
湯に浮かぶ花びらを見て、原田は目を細めた。
「花見の席じゃ、酒に桜の花びらを浮かべる飲み方もあってな……、なかなか綺麗なもんだぜ」
朱塗りの杯に澄んだ酒を注ぎ、桜花をひとひら浮かべる様子を想像して、思わず千鶴も頬を緩める。
「原田先生に似合いそうですね」
すると原田は嬉しそうに笑い、桜が揺れる茶を一息に飲み干した。
穏やかなひと時を過ごした千鶴は、ふとあることに気付く。
(まるで……ハートみたいな形だなぁ)
コップに残された桜花を眺める千鶴の脳裏に、不意にある言葉が浮かんだ。
翌日。
「お前ら、ちゃんと課題やってきたかー?」
課題を集める土方に、千鶴もクラスメートに混じってプリントを提出する。
「お前は何を書いたんだ?」
隣の席の井吹龍之介にたずねられて、千鶴は微笑みながら短く答えた。
「いつも思ってること、かな」
途端に、目を輝かせて
「俺と一緒だな!」
という龍之介を、プリントを確認していた土方が捕まえる。
「おい井吹、お前の俳句……『昼ごはん アンパンだけじゃ もたねぇよ』……って、なんだこれは!」
「! だ、題材は何でも良いって言ったじゃんかー!」
クラスメートたちから笑いと同情の声が漏れる中、必死に逃げ回る龍之介。
騒がしい教室で、千鶴はノートに写しておいた自分の俳句に目を向ける。
『不安でも 皆の声に 元気をもらう』
初めの頃は、校内で女子一人という状況に心配の絶えない日々だったが、優しい先生やクラスメートたちのおかげで、この学校に入って良かったと思えるまでになっていた。
厳密に言えば字余りになってしまったが、土方先生なら咎めない気がしたので、そのままで提出した。
そして、その句の隣に小さくひっそりと書き残した句がもう一つある。恥ずかしくて提出は出来なかったが、こちらも千鶴にとっては大切な一句だ。
この日常で、自分がいつも思っていること。そして、茶に浮かぶ桜の花を見て感じたこと。
秘めし花 揺れる思いは 我が心
秘めた恋心にも似た桜の花は、湯の中で静かに揺れていた。
それはまるで、原田に想いを伝えられない自分の心のようにも見えて、飲まれてしまう前にいつかそれを告げられる日がくるのだろうかと思いながら、千鶴はそっと目を伏せた。
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