薫風の彼方


 それは、よく晴れた初夏の昼下がりだった。
 人里離れた山の奥、ひっそりと佇む小さな民家に、一人の少年が現れた。黒い髪を肩の上で揃え、一見すると少女に見間違えられそうな彼は、民家の前でじっと立ち尽くしていた。端正な顔は眉が寄っていて、少年は何とも複雑そうな表情をしている。
 逡巡した後、深く息を吐きだした少年が扉に手をかけると、扉が音を立てて開いた。年季の入った家なので、あちこち立て付けが悪くなっているのだろう。戸が軋む音と共に、着流しに羽織姿の青年が顔を出す。彼が黒髪の少年の横に立つと、少年は鋭い目付きで青年を睨んだ。
「……」
 じっとりした視線を送られても、着流しの青年は意にも介していない。彼は爽やかな青空に目を向けると、猫のような瞳を気持ち良さそうに細めた。
「晴れて良かったね」
「何でお前まで来るんだ」
 清々しい表情の青年とは裏腹に、少年の声は毒を煮詰めたように苦々しい物だった。
「千鶴だけで良かったのに」
 明らかに棘の含まれたそれにも応じない青年に少年が軽く舌打ちしたところで、開けたままの扉から少女が現れる。
「すみません、お待たせしましたっ」
 艶やかな黒髪を背中に流し、黄色い着物に身を包んだ少女が、申し訳なさそうに眉を下げている。その顔は、黒髪の少年と瓜二つだ。
「相変わらず鈍間な妹だね」
「そんなに待ってないよ」
 少女のことを妹と呼びながらも辛辣な言葉を吐く少年の隣で、青年は柔らかく口角を上げて微笑んでいる。
「ほら、涼しいうちに早く行こう」
「お前、俺の妹に気安く触れるんじゃない! 千鶴は俺と手を繋ぐんだ!」
 笑って少女に手を差し出す青年に、少年は噛みつかんばかりの勢いで目を吊り上げる。少女は頬を緩めてにっこりと笑った。
「ふふ、仲良しですね」
 青年の右手を取った少女の、空いた右手に手を伸ばした少年は、驚きのあまりに絶句する。二、三度目を瞬かせ、彼はまたも複雑そうな顔をして少女の手を握り直した。
「仲良しって……」
 不服だ、と言わんばかりの少年の声は、誰にも届かないまま夏空に消えた。


 一行は民家を離れて山中に踏み出した。元は荒れていたが、何度か通った道なので土が踏みならされて随分と歩きやすくなっている。
「沖田さん、体調はどうですか? 太陽が辛かったりとか」
「平気。むしろ天気が良くて気分が良いくらいだよ。千鶴ちゃんは?」
「私も元気です。無理はしないでくださいね」
 互いを気遣い合う二人を横目で見つつ、少年は面白くない気分でそっぽを向いていた。この二人が過剰なまでに日光を気にするのは自分のせいだと分かっているから、口をきつく結んで黙っている。
 山の中は高い木が密集しているおかげで木漏れ日程度の日差ししか入ってこない。きらきらと輝く白い光は、黒と茶色の髪に反射して綺麗だった。
「それにしても、風が無いからちょっと蒸し暑いね。……千鶴ちゃんと薫は二人して色白だし、こんな天気だとすぐに倒れちゃいそうだな」
 突拍子なく意地悪な笑みを浮かべた青年に、引き合いに出された少年は、指摘された通りの白い頬を赤く染めて憤慨する。
「沖田には、俺がそんなにか弱く見えてたわけ? 自分の方こそ病気で伏せてたくせに」
 かなり刺々しい口調になった少年。少女も彼を庇うような言葉を重ねた。
「薫って、けっこうやんちゃだったんですよ。小さい時は私に付き合って大人しい遊びもしてましたけど、木登りや駆けっこなんかも得意で」
 しょっちゅう母様たちに怒られていました、と締めた少女に、青年がくっくっと含み笑いをしているのに少女が気付いた時には、少年の額に青筋が立っていた。そのままツノでも生えてきそうな勢いだ。
「あ、あれ?」
 思っていたのとは違う反応に少女が首を傾げると、青年はついに堪え切れなくなって大笑いした。
「あははっ、それじゃ薫が怒るでしょ、千鶴ちゃん。そんな、親から怒られた話なんて」
「お前のせいで、余計な恥をかいたじゃないか!」
 笑い過ぎて涙目になっている青年を視線で射殺さんばかりの少年。きつい眼差しは少女にも容赦なく向けられて、少女の背筋がぞくりと冷えた。
「そ、そんなつもりじゃなかったんだけど……」
 しどろもどろになった少女は、ちょうど辿り着いた目的地の花畑に目をやって、その中心に立っている小さな墓石に向かって、眉を下げて謝った。
「ごめんね、薫」


 久々の対面で第一声が謝罪というのもどうなんだろうと思いながら、少女――雪村千鶴は、手製の墓石に水をかける。薫が暑さに弱かったというような覚えは無いが、打ち水の涼しさは誰でも気分が良いものだろう。
 目印に置いてある小さな墓石の下に埋葬されている兄が先ほどのやり取りを見たら、きっとツノが生えるくらい怒るんだろうな。二本のツノを生やして激怒する兄を想像すると、何だか背筋が寒くなって、千鶴は考えるのをやめた。
「相変わらず良いところだよねぇ」
 両手を合わせて黙祷し、青年、沖田総司が穏やかな声で呟いた。
「空気は澄んでるし、陽は暖かいし。一年中春みたいな場所だ」
 青年と同じく黙祷を捧げた千鶴は、頷いて淡い笑顔で目を細めた。
「薫が眠る場所、ここを選んで良かったです」
 土が盛り上がっている周りには、白く小さな花が群生している。そよそよと風に吹かれる花の傍で、少年はただ下を向いて口をつぐんでいた。
 墓前に団子やおにぎり、茶を供える千鶴の後ろ姿を見て、自分が埋葬されている墓を見て、少年――南雲薫は、微かに震える唇を開きかけ、思い直したように再び閉じた。
「この花にも水を撒きましょうか」
 手桶を持って立ち上がり、近くを流れる川へ歩く千鶴に、沖田がついて行く。薫も、無言で後を追った。
 清流の水を汲もうとしゃがんだ千鶴に、沖田が「落ちないようにね」と笑っている。小川は浅いとはいっても石がごろごろしていて、転んだら大怪我をするのは必至だ。
 気を付けて桶を水底へ沈める千鶴の背中に、薫は無表情のまま腕を伸ばす。
 黒髪が流れる黄色い着物の、新緑の色をした帯に手が触れた瞬間、激しい風が吹いた。
「きゃっ……!」
 突風に煽られ桶を落とした千鶴は、よろけて川の方へと倒れ込みそうになる。間一髪、沖田が千鶴の手を引いて、二人は抱き合うように地面へと転がった。
「……気を付けろって言ったでしょ」
「す、すみません……」
 咎めつつも千鶴を抱きしめて安堵の息を吐く沖田に、千鶴は消え入りそうに声を落とす。
 草花に広がる二人の髪を、今度は優しい風が揺らした。可愛らしい白い花は、すんでの所で下敷きになるのを免れ、二人を囲むように咲いている。
「……そういえば昔、この花で、花冠を作ったんです」
 ふと思い出したように千鶴が呟き、二人の脇に立っていた薫がしゃがんで花に触れた。
 沖田が口を開くよりも先に、千鶴は過去を懐かしんで嬉しそうに続ける。
「家の裏にも沢山咲いているんですよ。それで薫と二人で花輪を作って、互いの頭に乗せたりして」
 くすくすと笑う千鶴がこぼしたのは、無邪気な笑顔だけでは無かった。沖田の腕に包まれ、見下ろす薫の眼差しを受けて、彼女は静かに泣いていた。
「思い出せたことが本当に嬉しくて、でももう居ないことが寂しくて……」
 頬を伝う涙を拭いながら、ごめんなさいと顔を隠してしまう。その手を無理に引き剥がそうとはせずに、沖田は千鶴の頭を優しく撫でた。
「薫も寂しかったんじゃないかな」
 沖田の言葉に、薫は顔を逸らして小川へ近づいた。さっき千鶴が落とした桶に触れて、自分の手が透けて何も掴めないことに酷く悲しげな顔をする。けれど、千鶴と同じ色の瞳から涙は流れない。幽霊は泣いたり出来ないのだから。
「まぁ、寂しければ何をしても良いわけじゃないけど。僕は、ただ君を守り切れて良かったとしか思わなかった」
 突き放すような物言いに、千鶴はそっと目を伏せた。薫は川辺に浮かぶ桶をじっと見つめている。
 千鶴の頭を撫でたまま、沖田はふっと青空を見上げた。ゆったり流れる白雲と、どこまでも高く鮮やかな青が広がっている。
「でも、一応は僕の義兄になる人なわけだし。お義兄さんとくらいは呼んであげても良かったかなぁ」
 冗談めかして笑う沖田に、千鶴もつられて小さく吹き出した。涙が乾いていないので、泣き笑いのようになった彼女の笑顔に、薫はしかめっ面を解いて呆れたように溜息を吐く。
「誰がお義兄さんだ」
 だけどその声に怒りの色は薄く、まるで小さな子供が拗ねているようだった。


 二人はしばらくの間のんびりと会話を交わしながら寝転がっていたが、やがて千鶴の方から身体を起こして、川に留まっている桶を拾い上げた。
 汲んだ水を花に撒いて、二人は再び墓前で手を合わせる。
「また来るからね、薫」
「素直じゃなかったお義兄さんのために、今度は花でも持ってきてあげようかな」
 最後までからかうような沖田に眉間のしわを深くしつつ、薫は墓の横に立った。
「ちゃんと俺の妹を守れよ。お前より先に俺のところへ来るようなことがあったら、今度こそ承知しないからな」
 聞こえないと分かっていても、つい語りかけてしまう。薫にとって千鶴は大切な妹だから、釘を刺しておかないといけない気がしたのだ。
 二人は供えたおにぎりなどを片付けると、帰路に向かって薫の墓に背を向けた。沖田が千鶴へと片手を差し出して、千鶴がその手を優しく握る。
 そこで、沖田が不意に千鶴の顔を見て首を傾げた。
「今日さ、家を出るときに、千鶴ちゃん何か言ってたよね。確か……、仲良しとかなんとか」
 墓石に腰かけて二人を見送ろうとしていた薫が、途端に赤面して慌てだす。
「馬鹿、そんなことどうでも良いだろっ! さっさと帰れよ!」
 しかし薫がどれだけ声を荒げて焦ったとして、二人には見えないし聞こえない。
 千鶴は「ああ、そうですね」と肯定して、顔をほころばせた。
「幼い頃に薫と手を繋ぐとき、そう言ってたんです。仲良しだから手を繋ぐんだって言って、そのうち手を繋ぐことを仲良しと言うようになって」
 まさか当の本人がすぐそこにいるとは露知らず、千鶴は嬉々として幼少の思い出を語った。具体的には、母様と出かけるときに「ほら、仲良ししよう」と手を繋いできたりといった、薫にしてみれば恥ずかしいことこの上ない思い出だ。
 案の定、沖田は口元を手で押さえながら肩を震わせている。
「あの薫にも、可愛い頃があったんだね……。もっと優しくしてあげれば良かったなぁ」
 それは本気で言っているのか、いや確実に馬鹿にしてるだろと般若の如き顔をする薫。千鶴は沖田の言葉が本心だと疑っていないようで、満面の笑みを浮かべた。
「良かったら、薫との話もたくさんしたいです。小さな頃の思い出、たくさんありますから」
「いやもうお前は喋るな!」
 悲痛な絶叫はその場の誰にも届かず、薫は千鶴の口を塞ごうとしたり、笑い続ける沖田の背を叩いたりと、騒がしく動き回る。勿論、その全ては空を切って無駄な抵抗に終わり、薫は忌々しげに舌打ちした。
「これだから目が離せないんだよ、ちくしょうっ」
 叫んだ声は青空に吸い込まれ、吹いた風が三人の足元に咲く白花を少しだけ散らす。
 楽しそうな二人分の笑い声と共に、やけに必死な薫の声が花畑に響いて、少しずつ遠のいていった。
 花畑にたたずむ墓の主が安らかな眠りに就けるのは、当分先のことになりそうだった。
1/1ページ