繋いだ手の温度


 幼い頃の記憶。
 熱を出した千鶴と、おろおろ見守ることしか出来ない薫。
「千鶴、何か欲しい物は無いか?」
 尋ねる薫に、千鶴はいつも、あるお願いをした。
「お兄ちゃん、あのね――」


 十数年の月日が経ち、二人は高校生になった。
 まだ小さいうちに離れ離れになってしまったが、偶然にも薄桜学園で再会したのだ。
 ゴールデンウィークも終わったある日、南雲薫は、実の妹である雪村千鶴が体調不良で学校を休んでいることを知った。
 保険医の山南敬助によると、どうやら風邪らしい。
 千鶴の義父である雪村網道は、出張が多くなかなか家に帰ってこないというのも聞いている。
 その日、薫はいつもより早く学校を後にした。


 ピンポーン。玄関のチャイムが鳴る。しかし、住人は眠っていて気づかない。
 ピンポンピンポンピンポーン。
 うるさいほどにチャイムを連打されて、さすがに住人――、雪村千鶴は目を覚ました。
 まだ熱は下がっていないようだが、訪問者を放っておくわけにもいかない。
 父が帰ってくるのはまだ先のことだし、幼馴染みである藤堂平助だろうか。
 そんなことを考えながら部屋を出て、念のためにドアスコープ越しに外を見ると、
「……薫?」
 ドアの前には、不機嫌な表情の兄が立っていた。


「体調管理も出来ない妹を持って、兄として恥ずかしいよ」
 嫌味ったらしい薫に背を向けて、千鶴はベッドに潜る。
 お見舞いに来てくれたらしいが、来るなりずっと説教じみたことしか言わないのだ。
「おい、聞いてるのか?おい……ちっ」
 言い返す気力もなく無視しているうちに、千鶴は眠ってしまった。
 薫は小さく舌打ちして、荷物を置いたまま千鶴の部屋から出て行ってしまった。


 やがて日が暮れ、千鶴は自然に目を覚ました。
 何だか額に冷たいものを感じて手をやると、濡れたタオルが乗せられている。
 ちょうどそのとき、ドアが開いて薫が部屋に入ってきた。
「起きたのか……お粥作ったけど、食べられそうか?」
 その手には皿を持っていて、とても良い匂いが漂っている。
 千鶴は、目を丸くした。
「……薫が作ってくれたの?」
 すると、薫は少し照れたような顔でそっぽを向いて、
「別に……。食べたくないなら、良いけど」
「ううん、嬉しい。いただきます!」
 千鶴は満面の笑みを浮かべて両手を合わせた。
「……何だか、小さい頃に戻ったみたいだね」
 薫お手製の夕ご飯を食べ終えた千鶴は、そう呟いて微笑んだ。
「お前は、小さい時から良く風邪をひいてたね」
「うぅ……。でも、薫はいつも心配してくれてたよね」
 互いに幼少時のことを思い出し、懐かしい記憶を共有する。
「あの時は、小さくて何も出来なかったけど……」
 うつむいた薫に、千鶴は小さく首を振って否定した。
「そんなことないよ。薫、覚えてない? 薫がいつも私にしてくれたこと」
「……」
 反応を見るに、薫も覚えているらしい。
 千鶴は眉を下げて困ったように薫を見つめる。何かを訴えかける視線に、ついに薫が根負けした。
「……わかったよ。今日だけだからな」
 ベッドから伸ばされた千鶴の左手を、薫の右手がそっと包む。それは小さい頃とまったく同じようでいて、少しだけ違っていた。
「薫の手、大きいね。昔は同じくらいだったのに」
「当たり前だろ。俺はお前の兄なんだぞ」
 あのときぴったりと重なっていた手は、今では薫の方が一回り大きくなっている。それに、丸みを帯びた柔らかい千鶴の手と、力強くたくましい薫の手は、もう同じとは言えなくなっていた。
 それでも、変わっていないこともあった。
「薫……、素直じゃなくて、ひねくれてて、小さい頃とは別人みたい」
 だけど、やっぱりこうすると安心する。
 互いの感触を確かめるように握り合った手を見つめ、千鶴は目を細めた。
「お前だって、小さい時は俺のことお兄ちゃんなんて言って、俺が居ないと泣いてたくせに」
 いつも通り棘のある薫の言葉も、今日は優しい響きを持っている。
「そんなに泣いてないもん」
 頬を膨らませる千鶴に、薫は「どうだか」と言ってくすくす笑った。
 それはまるで、幼い頃に戻ったようで。
「……ありがとう、お兄ちゃん」
 千鶴は、いたずらっ子のように笑った。
「今そう呼ばれると、何か変な感じだな」
 薫が、素直な感想を口にする。
 そして空になった皿を手に取り、千鶴と繋いでいた手を離す。
 少し不満げな、寂しそうな顔をする千鶴に、薫はぶっきらぼうに告げた。
「これからは、いつだって繋げるだろ」
 当然のようにそう言って、薫は食器を下げに部屋を出た。
 残された千鶴は、頬を染めてその後ろ姿を見送る。急激に顔が熱くなったのは、風邪のせいだけではないだろう。
「……やっぱり、薫は優しいお兄ちゃんだね」
 呟いて、誰もいない部屋で一人、千鶴はにっこりと頬を緩めた。


「本当に一人で大丈夫か?」
 心配性な薫をどうにか説得すると、彼はしぶしぶ帰っていった。
 家に入り、部屋に戻る前に台所に寄ると、鍋に作り置きのお粥が入っている。
 その横に、シンプルなメモ書きが置いてあった。
『早く治せよ』
 薫らしい、そっけない一言が、優しく胸に染みて。
 変わったようで変わらない兄を思いながら、千鶴は心が温まるのを感じた。
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