薄桃騒動記


「あれ……?」
 とある春の日。屯所内の自室で、雪村千鶴は青ざめた。
「……ここに置いてたはずなのに……」
 そう視線を向ける文机の上には、しかし何も無い。千鶴は半泣きの表情で周囲を捜索する。
 そこに、藤堂平助が訪ねてきた。
「おーい、千鶴……って、どうしたんだ?」
 今にも泣きだしそうな千鶴を見て驚く平助に、彼女は眉を下げて口を開く。
「日記帳……無くしちゃったの」


 千鶴が屯所に来てからずっとつけていた日記帳が、いつのまにか無くなっていた。
 それを知った幹部隊士は顔を見合わせる。
「おい総司、お前の仕業じゃねぇだろうな」
 土方歳三が険しい顔で沖田総司を睨み付ける。
「嫌だなぁ、土方さん。すぐに僕を疑わないで下さいよ」
 苦笑いする沖田を、斉藤一が横から短くたしなめた。
「あんたの日頃の行いだ」
 壁にもたれて話を聞いていた原田左之助が、口をはさむ。
「ところで、千鶴はどこ行ったんだ?」
「とりあえず部屋には無かったから、どっか落としてないか探してくるって。新八っつぁんも一緒に行ってる」
 最初に相談を受けた平助が答えた。
「しかし……まめに日記をつけているのは良いことですが、もしも事情を知らない平隊士が拾って読んでしまったら一大事ですねぇ」
 内容にもよりますが、と付け加えた山南敬助の言葉に、皆が重々しく頷く。
 場に落ちた沈黙に、土方が苦い顔で小さく舌打ちした。
「しょうがねぇ……あいつがどの程度のことまで日記に書いてるのかは知らねぇが、面倒な事になる前に俺たちで見つけるぞ」


 幹部隊士が意気込んでいるその時、千鶴と永倉新八は日記帳をすでに発見していた。
 千鶴が探し求めていたそれは、なぜか勝手場にあった。しかし……。
「にゃぁ」
 小さな猫にくわえられた状態で。
「あいつが持って行っちまってたのか……」
 頬を掻く永倉に、千鶴は着物の袖を捲り上げて子猫に近寄る。
「猫ちゃん、返してね……」
 しかし子猫は警戒するように身をかがめ、するりと二人の間を抜けて逃げ出してしまった。
「あっ、待てこの野郎!」
 その後ろ姿を、永倉が必死の形相で追いかける。
 そこに、ちょうど他の幹部隊士たちが現れた。
「うおっ、新八っつぁん! 何してんだ?」
 平助が慌てて永倉を避けると、永倉は子猫を追いながら叫んだ。
「あの猫が持ってやがったんだ!」
「本当か!」
 原田と平助が、揃って後を追った。
「おい千鶴、あれには何を書いてるんだ?」
 共に走り出した土方の問いに、つまりは『羅刹や千鶴の素性について』を書いていないか聞いているのだと察した千鶴は即答する。
「特に重要なことは書いてません!」
 ひとまず胸を撫で下ろした土方の隣を走りながら、沖田が楽しそうに笑った。
「千鶴ちゃんのことだから、毎日の献立とか書いてそうだよね」
「な、何で知ってるんですか!」
 動揺する千鶴に、斉藤がため息を吐く。
「……今はそれよりも、あの帳面を取り返すのが先だろう」
 まるで忍者のように音もなく走る彼の横で、山南が柔和な笑みを浮かべた。
「彼女らしいではありませんか」
 どこか和やかな会話を交わしながら、彼らも子猫を追った。


 気付けば、子猫は姿を消していた。
「ちくしょう、見失った!」
 悔しそうに辺りを見回す永倉に、平助が声をあげる。
「あ、あれじゃねぇか?」
 指差した先には、小さな帳面が落ちていた。どうやら猫が落としていったらしい。
「でかした平助!」
 意気揚々と拾いに行く永倉の前に、ふと影が差した。
 突如現れたのは、新選組の宿敵である鬼、風間千景だった。
「風間!」
 原田の呼びかけにも応えず、風間は落ちている帳面を拾う。
「なんだ、この小汚い帳面は……」
 平助が思わず声を荒げた。
「返せ! それは、あいつの大事な……っ」
「馬鹿!」
 大声で原田がさえぎったが、少し遅かった。
 風間はにやりと笑い、
「ほう、我が嫁の……」
「み、見ないでくださいーっ!」
 ようやく追いついた千鶴の絶叫を聞きながら、帳面を開く。
 そこには……毎日の献立だけが、きっちりと毎食分書き連ねられていた。
「ふむ……お前らの質素な生活ぶりは良く分かった。これは返してやろう」
 千鶴に帳面を手渡し、風間はくるりと背を向ける。
「お前が将来俺に嫁ぐため、料理の修練を積んでいることが分かっただけ、よしとするか」
 そんな言葉に、千鶴は困り顔をする。
「いや……そういうわけでは……」
 しかしそれを聞くことなく、風間は静かに去っていた。


 そこまで書いて、千鶴は帳面を閉じた。
 長い文だったので腕が疲れたが、献立以外のことを記した初めての日記だ。
 子猫にも盗まれるような管理ではいけないと反省して、千鶴はしっかりと日記帳を文机の中にしまう。
「……ふふ」
 ここでの暮らしは決して楽ではない。
 それでも、確かに出来た楽しい思い出に、千鶴は頬を緩めた。

 明日は、どんな出来事が待っているのだろうか。
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