境界線がにじむ夜


 満月の夜。空に浮かぶ月は、淡い光を放っている。
 それを見上げながら、誰もいない縁側で一人、藤堂平助は溜息を吐いた。
「……左之さんたちって、大人だよなぁ」
 そこに、雪村千鶴が通りかかる。
「どうしたの?」
「うわっ、千鶴!」
 突然に声をかけられて驚き、平助は声をあげた。千鶴は慌てて「驚かせてごめんね」と謝る。
「いや、オレこそでかい声出してごめんな。ちょっと、考え事してて……」
 頬を掻く平助の隣に腰を下ろし、千鶴は首を傾げた。
「考え事……?」
 いつも明るい彼らしからぬ雰囲気で、平助が眉を下げる。
「なんかさ、左之さんや新八っっぁんに比べて、オレはガキだなって……子供と大人の境界線って、どこにあるんだろうな」
 そう肩を落とす平助に、千鶴は素直な思いを口にした。
「確かに二人は大人っぽいけど、だからって平助君が無理に大人になることは無いんじゃないかな」
「けどよ……」
 言いかけた平助の目を真っ直ぐに見据え、千鶴は先を続ける。
「背伸びしたり、誰かの背中を追いかけてばかりじゃ疲れちゃうよ。大人とか子供って考える前に、平助君には平助君にしか出来ないことがあると思うから……私は平助君なら、大人でも子供でも一緒に居たいって思うし」
 穏やかな目をした千鶴の優しい言葉に、平助は少し黙り込む。そして、いつものような明るい笑顔を満面に浮かべた。
「……オレ、焦ってたのかもな。千鶴がそう言ってくれて、なんかちょっと安心した」
 ありがとな、と呟く声は普段の彼と変わらない。
 けれど、少しだけ揺らぎが残っているような気がして、千鶴は安心させるように微笑んだ。
「大丈夫……平助君は、平助君だよ」





 ――あれから、どれくらいの月日が経ったのだろうか。

 あの日と同じ、満月の夜。空に浮かぶ月は、鮮やかに辺りを照らしている。
 白髪に赤い目の羅刹隊――藤堂平助は、ゆっくりと月を見上げた。
 頬を濡らす返り血と、周りに倒れている浪士の死体。口元に垂れる血をぺろりと舐め取れば、瞳の赤はより濃さを増す。
 赤い目で見る月は、気のせいだろうか、どこか赤みがかっているような気がした。
「……くそっ」
 髪の色が変わり、目の色が変わり、やがては心までもが変わってしまいそうで、彼は小さく歯噛みする。
 そんな平助のもとに、人影が近づいた。
「平助君……」
 振り向くと、男装した少女――雪村千鶴が、泣き出しそうな顔で平助を見つめていた。
「千鶴……なんで、ここに」
 羅刹隊でない彼女は、基本的に夜の外出を禁止されている。土方や山南に見つかれば大目玉だろう。
 しかし千鶴は、ひどく不安げな表情で口を開いた。
「……お願い、戻ってきて」
 その言葉は、平助の胸に深く突き刺さった。瞬間、白い髪が茶に染まり、瞳の赤もすっと元の色に入れ替わる。
 けれど、見た目は普通の人間に戻っても、中身はもう元に戻れないことを、誰よりも平助自身が理解していた。
「オレは人間じゃなくなったんだ……今さら、どうやったって戻れねぇよ」
「違うよ。平助君は、平助君のままだよ」
 きっぱりと断言する千鶴に、思わず平助は激昂する。
「どこがオレなんだよ! 人の血を欲しがって、人を斬ることばかり考えちまうオレの、どこが【藤堂平助】なんだよ!」
 まるで野犬が吠えるような、悲痛な叫び。
 千鶴は涙をためた瞳で、それでも彼をしっかりと見据える。
「だって……平助君は、苦しんでる。本当に平助君が変わってしまったなら、人を殺すことで悩んだり、傷ついたりしないはずだよ」
 こらえきれなかった涙の粒が、頬を伝った。
 決して平助が怖いわけじゃない。ただ、一人で苦しむ彼の姿を見るのが、たまらなく辛いのだ。
「平助君の優しさは変わってない。やっぱり、私の大好きな【藤堂平助】のままだよ!」
 叫ぶ千鶴に、平助は視線を落として呟いた。
「……生きてるとさ、あやふやなことばっかだ。大人とか子供とか、人間とか羅刹とか。オレは、結局どっちつかずの中途半端な存在だ」
 そして静かに千鶴のもとに歩み寄り、頬を濡らす涙をそっと拭った。
「けど……お前がオレのために必死になってくれてんのに、オレ自身が腐ってちゃ駄目だよな」
 申し訳なさそうに言う平助の頬を、千鶴は彼と同じように拭う。乾きかけている血を、白く細い指が撫でた。
「馬鹿、汚いだろ」
 慌てて離れようとする平助に、千鶴は小さく首を振った。
「平助君のことを、支えたいの」
 痛みを減らせるように。癒せるように。
 困ったように微笑む千鶴に、平助も思わず苦笑する。
「お前は、いつだってオレの支えになってるよ。あの頃から、ずっとさ」
 平助が悩んでいるとき、立ち止まって進めないとき、それでも隣にはいつも千鶴がいる。それだけできっと、境界線がにじんでしまうような夜も乗り越えられるのだろう。
「もしも、平助君がどこかに行っちゃいそうになったら、私が引き止めるからね」
 自分よりも小さな少女の力強い言葉に、平助は屈託なく笑った。
「千鶴が傍にいてくれるなら、オレはどこにも行かねぇよ」
 互いに手を取り合って、二人は月夜の空を見上げた。
 相変わらず血の匂いは鼻につくし、頬の血も完全に落ちてはいないけれど。
「月、綺麗だね」
「ああ、綺麗だな」
 美しい月光は、二人を包み込むように青白い光を放っている。
 たとえあの月がまた赤く見えたとしても、千鶴の手が離れない限り、平助が境界線を越えることは無いのだろう。
 月明かりに照らされて、二人は屯所への道を歩き出した。
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