視界に満ちるもの


 月曜の放課後。
 町外れにある小さな喫茶店で、沖田は千鶴に甘味を勧めていた。
 しかし千鶴は、いつもなら瞳を輝かせて礼を言うというのに、今日に限っては手を付けようともしない。それは、彼女のささやかな反抗だった。
「……ねぇ、そろそろ機嫌直してよ」
 ため息と共に吐き出された沖田の言葉に、しかし千鶴はぷいっとそっぽを向く。
「沖田先輩が悪いんじゃないですか」
 温和な彼女にしては珍しい、少し怒気を含んだ声。
 そんな可愛げのない態度に、沖田はわざとらしく眉を寄せた。
「だから、もう何度も謝ったでしょ? ごめんって」
 苛立ちが見え隠れしている口調に千鶴は一瞬ひるむが、それでも今回は腹に据えかねているようで、口は閉ざされたままだ。
「……君って、案外頑固だよね」
 嘆息して、沖田は千鶴の前に置かれたチョコレートケーキにフォークを刺した。
 僅かに目を見開く彼女の視線を意識しながら、それを容赦なく自分の口に運ぶ。
「食べ物を残しちゃいけないでしょ?」
 しれっという沖田を悔しそうに軽く睨みつつも、結局千鶴がチョコレートケーキに手を付けることは無かった。

 店から出ても、千鶴は不機嫌なまま、二人は黙って歩いていた。
 喧嘩中だというのに、律儀に沖田の少し後ろを歩くのが、真面目な彼女らしい。どれだけ立腹していても、自分から距離を取るのは失礼だと思っているのだろう。
 そこまで考えて、沖田はふとあることを思いついた。
 このままでは無言で互いの家に着いてしまうことを懸念して浮かんだアイデアだが、下手をすれば千鶴をさらに怒らせてしまうかもしれない。
 それでも今の沖田は、何をしても千鶴が怒ってばかりだというのがつまらなかった。千鶴に言わせれば、沖田さんの自業自得というものだとも言えるが。
 ともかく実行するという結論を出して、沖田は右手を口元にあてる。
「げほっ、けほっ……!」
 沖田は、勢いよく咳き込み始めた。
 過呼吸を起こしかねないほど激しい咳に、千鶴は慌てて沖田の背をさする。
「沖田先輩、大丈夫ですか・」
 何度か背中をさすっていると、やがて沖田は少しずつ落ち着きを取り戻した。
「ごめんね……ありがとう、千鶴ちゃん」
 いつもと変わらない表情に、千鶴はほっと胸を撫で下ろす。
 さっきの沖田は本当に苦しそうな顔をしていて、このまま倒れてしまいそうで怖かったのだ。
 ひとまず安堵した千鶴だが、どうしても見過ごせないことを恐る恐る尋ねた。
「……何か、病気なんですか?」
 その問いに、彼は軽く頷いて肯定した。
「そうみたいだね。僕も、ついさっき知ったんだけど」
 曖昧でよくわからない返答に、千鶴は眉を下げる。
「つい、さっき……? その、病名とかは?」
 病名を聞き、医者の父を頼れば沖田の助けになれるかと思って尋ねると、沖田は少し考えた後に真顔で答えた。
「うーん……恋の病、かな?」
「……は?」
 思わず間抜けな声が出てしまった。
 ぽかんと口を開けている千鶴を見て、沖田は悪戯っ子のような笑みを見せる。
 そして、不意に真っ直ぐな視線を向けた。
「……もしもさ、今日このまま僕たちが喧嘩別れして、次に会うまでの間に事故や病気で死んじゃったら、どうする?」
 脈絡のない話に、千鶴は戸惑い首を傾げる。
 想像すると、それはとても悲しいことだ。きっと千鶴は、怒ってばかりだった事を後悔するだろう。些細なことで意地を張らずに、もっと楽しい時間を過ごせば良かったと思うはずだ。
 けれど……。千鶴は目を伏せて、ぽつりと呟いた。
「……でもそれ、屁理屈ですよね」
 その言葉に、沖田は声を出して笑った。
「あはは、ごめんごめん」
 もう、と頬を膨らませつつも、千鶴の怒りはすっかりどこかに消えてしまっていた。
 沖田の言動に呆れたということもあるし、何だかもう馬鹿らしくなったのだ。怒る、という感情にはエネルギーを使うものだと、千鶴はしみじみ実感した。
「沖田先輩が元気でいてくれるなら、それで十分です」
 どっと疲れた気もするが、千鶴は心からの言葉を口にする。
 すると、沖田は少しだけ寂しそうに目を細めた。
「沖田先輩……?」
 不安げな千鶴に視線を移して、沖田は彼女の頭を優しく撫でる。
「っ、あの……」
 思わぬ行動に、千鶴の頬が真っ赤に染まった。
 動揺する千鶴を、まるで子供をあやすかのような目で見つめながら、ゆっくり手を下ろして沖田は口を開く。
「……今は平和な時代だけど、だからって絶対に死なない、なんて保障は無いんだよね。交通事故、自然災害、不治の病……僕らは、いつ死んだっておかしくない命なんだ」
 淡々と語る沖田の瞳は、いつか必ず訪れる死を見ているようだ。
「僕が死ぬときは、千鶴ちゃんの笑顔を見ながら逝きたいな」
 彼らしく軽い口調で言われて、千鶴は返答に困って押し黙る。やがて彼女は、複雑な表情で告げた。
「……死ぬっていうのは悲しいことですけれど……誰にでも、その時は来るんですよね」
 そこで一度言葉を切って、千鶴は少し顔を上げる。彼女の表情は、不思議と達観したような穏やかな顔だった。
「いつか必ず終わりが来るなら……私も、最期は沖田さんの笑顔を見ていたいです」
 死というものに怯えや恐怖を感じても、そこから目を逸らすことは無い。
 千鶴の芯の強さに触れた気がして、沖田は自然に微笑んでいた。
「それなら、二人で一緒に死ななくちゃね」
 くすくす笑う沖田を、「不謹慎ですよ」と千鶴がたしなめる。
 夕焼けに赤く染まる道を並んで歩いていると、先に千鶴の家が見えてきた。
 名残惜しげな表情で、千鶴は玄関の前に歩を進める。
「それじゃ、また明日ね」
 手を振る沖田に、千鶴も笑顔で別れの挨拶を返した。
「はい、また明日」

 人は、いつか死ぬ。
 当たり前だけど、普段は忘れてしまいがちなこと。
 それでも、そのとき視界に満ちるものが愛しい人の笑顔であったなら、きっと幸福だろう。
 違う場所で同じことを考えながら、千鶴と沖田は同時に息を吐いた。

(叶うことなら、最期の瞬間まで傍にいられますように)
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