欠けた双花


 それは、千鶴と薫がまだ小さな子供だった頃。二人が、まだ共に暮らしていた頃の話。

「薫、見て! 母さまにもらったの!」
 可愛らしい桜の飾りがついたかんざしを、幼い千鶴が嬉しそうに見せる。
「綺麗だね。千鶴によく似合っているよ」
 薫は優しく微笑んで、薄桃色のそれを千鶴の髪に添えた。
 恥ずかしそうに頬を染めながら、千鶴は照れた顔で微笑む。
 しかし、それから数日が経ったある日。
 部屋で猫と遊んでいた薫は、廊下で大きな物音がしたのを聞いて飛び出した。
 そこには、転んでしまったらしい千鶴が半泣きの表情で座り込んでいた。
「……壊れちゃった」
 千鶴の手に乗っているのは、先日から彼女の髪を美しく飾っていた桜のかんざしだった。
 けれど、薄桃色の桜の花びらは半分に割れてしまっている。どうやら、転んだ拍子に砕けてしまったらしい。
「どうしよう……」
 千鶴の大きな瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。
 それが零れ落ちる寸前、薫はとっさに千鶴の手から桜の飾りを取り上げた。
「薫……?」
 困惑する千鶴に、薫は割れた桜の半分を糸でかんざしにくくり付けた。残り半分の欠片にも糸を巻き付け、かんざしに付けた方の桜を千鶴に渡す。
「俺たちは二人で一つだから……、いつでも一緒だから。桜も、二人でいれば欠けない」
 たどたどしい口調でそう言った薫を、千鶴はぽかんとした顔で見つめる。
 やがてそれが薫なりの慰めだと気づき、思わず涙が引っ込んだ。
「ずっと一緒だったら……大丈夫だね」
 あんなに綺麗な桜が壊れてしまったというのに、なぜかもう悲しくはない。
 むしろ、薫の温かい優しさに触れて、笑みさえ浮かんできた。
「ありがとう、お兄ちゃん」
 それからも千鶴は、欠けた桜のかんざしを大事に髪に飾り続けた。


 思い出してしまえば、それはまるで昨日のことのように鮮やかな記憶で。
 それでも、成長した心身と変わってしまった二人の間には確かに距離が出来ていて。


「……千鶴……」
 懐かしい声。
 もうじき夜が来る山の奥地で、薫は沖田と刃を交え、激闘の末に胸を突かれて地に伏した。
 純血の鬼である薫でさえも死は避けられない、致命傷だった。
 枯葉の落ちる地面に赤黒い染みが広がり、倒れている薫の全身をゆっくりと覆っていく。
 薫は血の気の引いた青白い顔をゆっくりと上げて、静かに千鶴を見つめた。
 その瞳は悲しそうな寂しげな色に揺れて、憎しみや狂気といった感情はすでに消えていた。
 残っているのは、あの頃と変わらない妹への愛情。
 兄として、誰よりも千鶴を大切に思う気持ち。
 けれど、薫がもう助からないというのは誰の目にも明らかだった。
「……お前がいたから、耐えられたのにな」
 悔しさをにじませた声が響く。それはきっと、南雲家のことだろう。
 別れてしまった千鶴も、自分と同じように酷い目にあっているのだと思っていた。
 自分はたった一人の家族で、兄だから。
 助けなくては、と心に誓った。
 だけど再会した妹は兄のことも家族のことも忘れ、平和に暮らしていた。
「なんで……お前だけ……っ」
 憎くなかったといえば、それは間違い無く嘘になる。
 実際、薫は残酷な手で何度も千鶴を陥れようとしてきた。
 それでも、あのとき確かに胸をよぎった思いもあった。千鶴が幸せに暮らしていると知ったとき。脳裏に浮かんだのは、憎しみだけでは無かった。

(……千鶴が無事で良かった)

 そして同時に、情けなくもなった。
 唯一の家族であり兄妹であるというのに、妹を守ることもできない自分を、薫はただ責めた。
「俺が……千鶴を守らなくちゃ……」
 いつしか目的と手段は入れ替わり、守るべき存在の千鶴を薫は少しずつ追い詰めていった。
 気付いた時には、何もかもが手遅れだった。
 利用していたはずの網道にも裏切られ、素性も知らない沖田が千鶴を守り抜き、薫は悪役として倒された。

「なんで……お前なんだ」
 どうして、俺じゃ千鶴を護れないんだ。
 言葉にならない叫びが、大粒の涙となって浮かんだ。
 本当は、千鶴と出会った時点で全て打ち明けてしまえば良かったのかも知れない。
 何も言えなくとも、せめて遠くから見守るだけで良かったのかも知れない。
 でも、自分たちのことを忘れて千鶴と沖田が笑い合うのが妬ましかった。
「俺だって……」
 ――幸せに、なりたかった。



 走馬燈が駆け巡り、ぽろぽろと涙をこぼす薫の横に、千鶴は静かに膝をついた。そして、彼の頬に手を添え、涙をそっと拭う。
目を見開き驚く薫の頬を、しかし上から落ちる雫がさらに濡らしていく。
「……ごめんなさい……っ」
 際限なく降り注ぐそれは、千鶴の涙だった。
 二人の涙は薫の頬で混ざり合い、地面へと流れていく。
「……泣くなよ、馬鹿」
 力を振り絞って、薫は強がりの憎まれ口を叩いた。そして、ゆっくりと口を開く。
「最後くらい……笑ってくれ」
 その言葉に、千鶴は無理矢理に頬を緩めて笑顔を作った。しかし無理にあげた口角は歪み、上手く笑うことは出来ない。
 それでも薫は満足げに微笑んだ。
「ありがとう……千鶴」
 それが、薫の最期だった。
 千鶴の涙を拭おうと伸ばした薫の白い指が、音も無く地面に落ちる。
 何も言わずに見ている沖田の前で、千鶴は声をあげて泣いた。


 やがて泣き疲れた千鶴は、そのまま薫の横で眠ってしまった。深く息を吐きだした沖田が、二人の上に自分の上着を掛けてやる。
 その時、薫の懐から小物が零れ落ちた。それは、糸が巻きつけられた桜花の飾りだった。
 半分に欠けてしまっている、薄桃色の桜の花びらをかたどった飾り。
 沖田は、同じ飾りのついたかんざしを千鶴が持っていることを知っていた。

「いつから持っているのかとか、どうして持っているのかは分からないんですけど……とても大切な物のような気がするんです」

 彼女は、いつもそのかんざしを肌身離さずに持っていた。
「……きっと、君たちは初めから離れてなんかいなかったんだろうね」
 そんな沖田の呟きは、誰の耳に届くこともなく、静寂の森に消える。
 共に寄り添うような二人の兄妹を、沖田は目を細めて穏やかに見守っていた。



 千鶴……。
 最期にお前が居てくれて、俺は確かに幸せだったよ。



 そんな声が、聞こえた気がした。
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