小さな友達


 よく晴れた平日の午後。日課の散歩コース、猫の溜まり場。
 春には暖かな陽光が差し込み、冬には家々の壁が風を遮る路地裏で、一松は煮干しの袋をガサガサと鳴らして猫を呼んだ。途端に、今までどこにいたのかと思うほどたくさんの野良猫たちが集まってくる。
「ちょっと待ってて」
 親しい友人に話しかけるような口調で(もっとも、彼に人間の友人は殆どいないが)、一松は煮干しを袋から少しだけ出して、足元に迫る大柄な猫にやる。その猫が餌に食いついている隙に、残りのうち半分を他の猫たちに、残った分をまだ幼い子猫の足元に置いてやる。
「お前、相変わらず食べるの早いね」
「ぶにゃん」
 あっというまに自分の分を食べ終えたボス猫を撫でながら、一松は猫たちの食事風景を楽しそうに眺めていた。
 それが、松野一松にとって心休まる幸せな時間だった。


 猫が友達だなんて、我ながら暗いと思う。それでも大事な友達であることに変わりはない。
 たくさんの猫に囲まれて、一松は平凡な幸福というものを満喫していた。


 その日も一松は、いつもと同じように煮干しの袋を持って猫の溜まり場へと出かけた。空は少しだけ曇っているが、ぱっと済ませて帰れば雨には濡れずに済むだろう。
 傘を持たずに溜まり場へ顔を出した一松は、彼の気配に集まり始めた猫たちに慣れた手つきで煮干しを与える。にゃあにゃあと鳴きながら餌を食べる猫を、穏やかに見守っていた、そのときだった。
「そこの貴方」
 突然に声をかけられて、一松は驚きつつも態度には出さずに振り向いた。
 溜まり場の出入り口の方に、数人の女性が立っている。四、五人で、まるでチームだというかのように固まっている彼女たちは、一松とその周りに集まっている猫たちを見て、一瞬だけ眉をひそめた。
「……なんですか」
 不愛想な一松を威圧するような視線で、集団の中でも特に恰幅の良い女性が前に出た。
「貴方ね、この付近の野良猫に餌をあげているのは」
 咎めるような口調で言われ、一松は渋々ながらも事実を認める。
「……そうですけど」
 途端に、女性の目付きが一段と鋭くなった。
 不穏な気配を察知して威嚇する猫たちを一瞥し、彼女は唐突に宣言した。
「いきなりで申し訳ないけど、ここの野良猫たちは保健所に引き取ってもらうわ」
「……は?」
 思わず、一松の口から間抜けな声が漏れた。
 その反応を意にも介さず、女性たちは口々に自分の意見を述べる。
「野良は衛生的にも不潔だし」
「発情期なんかは鳴き声だってうるさいわよね」
「だいたい、糞の始末も出来ないのに餌なんてあげないでほしいわ」
 がやがやと騒ぎ出す彼女たちを呆然と見ている一松の足元で、小さな子猫が不安そうな目をして「にゃあ」と鳴いた。しかしその声すらも耳障りだと言いたげに、女性の一人が宣告する。
「一週間後には、業者の方に来てもらうから。貴方も、平日の昼間から猫に餌なんてあげてちゃ駄目よ」
 そして、こんなところに長居したくないといった素振りで、彼女たちはあっという間にその場から離れていった。
 後には、口を半開きにして呆気にとられる一松と、数匹の猫たちだけが残された。


 猫たちが保健所に連れていかれる。
 それはつまり――殺処分される?
 思考がそう至ったところで、一松の背筋がぶるりと震えた。
 そこから家までの道のりを、どう歩いて帰ったかはあまり覚えていない。けれど、途中から降り出した雨でずぶ濡れになった一松を見て、青ざめている彼の表情を見て、五人の兄弟達はただならぬ雰囲気を察し集まった。
「とりあえずほら、風邪ひくよ」
 さっとタオルを差し出してくれるチョロ松に、ばたばたと着替えをもってきてくれる十四松。おそ松とカラ松は一松が落ち着くのを待ち、トド松も、おろおろしながらもそれに倣った。
 髪を乾かし着替えた一松は、少しだけ落ち着きを取り戻して事の顛末を口にした。先程よりは冷静になれたつもりだったが、話の終盤、一週間が経てば猫たちが連れていかれてしまうというところに差し掛かると、僅かに声が揺らいだ。
「……たかが猫ごときで、って思うかもしれないけど……」
 話し終えた一松が不安げな表情で顔をあげる。神妙に聞いていた五人のうち、最初に口を開いたのはおそ松だった。
「でも、お前にとっては大事な友達だろ?」
 目を丸くする一松に、他の四人も声を揃える。
「ブラザーが可愛がっているキャットを見捨てるわけにはいかないだろう?」
「里親とか……、時間は少ないけど、出来ることはあるでしょ」
「一松兄さんの友達、いなくなっちゃったら寂しいっす!」
「本当、猫相手には優しいんだから。闇松兄さんなんて呼べないじゃん」
 口々に笑う兄弟に、一松の瞳が微かに潤む。
 一番上の兄が、当然のように満面の笑みで鼻の下をこすった。
「一松の友達は、俺らの友達だからな!」


 タイムリミットは七日と少し。六つ子の行動は早かった。
 カラ松と十四松は駅前の公園へと向かい、道行く人々に声をかける。
「そこのガール、キュートなキャットに興味は無いか?」
「可愛いっすよー!」
 おそ松とチョロ松はビラを作り、町中に貼り付けていく。
「あっちの八百屋のおっちゃん、店に貼ってもいいってよ!」
「本当? じゃあ、その後は向かいの本屋さんにも頼んでみようか」
 トド松は男女を問わず知り合いに片っ端から連絡していた。
「ねぇねぇ、猫って癒されるよね。実は子猫を預かっててさ、里親探してるんだ~」
 一日目が過ぎ、二日目が過ぎ、三日目が過ぎて、やがて猫たちは新しい飼い主と巡り会っていった。


 四日目の昼。
 兄弟が里親探しに奔走する中、一松は一人、久しぶりに猫たちのもとを訪れていた。
 数日ぶりに会った友達は貰われていった以外に一匹も欠けておらず、安堵と共に心配する。引き取ってくれる人がいなかったらどうしよう、と。
 貰い手が見つかって少し減ったとはいえ、数匹の猫たちをまとめて飼うわけにはいかないし、かと言って見殺しになど出来そうもない。
 一松の心を読んだかのように、子猫が足元にすり寄った。黒い両目が、不思議そうに彼を見上げる。何か悲しいことでもあったの? とでも言いたげに。
「……ごめんな」
 それだけを呟いて、一松はゆっくりと立ち上がった。このままこうしていても仕方がないと、町に向かって歩き出す。
「今まで、たくさん幸せにしてもらったんだから……、今度は僕が、皆を幸せにする番だ」
 小さな独り言に応えるように、ひときわ大柄な猫がふてぶてしく「ぶにゃん」と鳴いた。


 あっという間に日は流れ、ついに訪れた七日目の朝。
 まだ夜も明けきらないうちに、一松はそっと布団から抜け出した。他の兄弟を起こさないように気を付けて、こっそりと家を後にする。
 薄暗い道を歩き、路地裏に辿り着くと、そこは数日前よりも随分広く感じられた。煮干しの袋を取り出してガサガサと鳴らしてみても、あれだけ居た猫たちはもうやってこない。
 たった一匹だけ残された、大柄な猫を除いては。
「……ぶにゃん」
 路地裏の奥で不愛想に鳴くボス猫の隣に腰を下ろし、煮干しの袋を開けてやる。数匹の猫で分け合っていたそれは、今や全てボス猫のものだ。
 それまでは己の分をあっという間にたいらげ、他の猫が食べる様を羨ましそうに見ていたボス猫だったが、この時ばかりはそんな元気もないように見えた。
「……もう良いの?」
 半分以上も残して鳴くボス猫を、一松は何度も繰り返し撫でた。ボス猫は食べ残した煮干しをじっと見ている。
「残したって意味ないんだよ。もう、ここにはお前しかいないんだから」
 分かるわけないと分かっているけれど、つい話しかけてしまう。
「……ごめん」
 一松の声は、震えていた。
「ごめんね。お前のこと、守ってやれないかもしれない」
 静かに撫で続ける一松に、あまり撫でられることが好きでないはずのボス猫は、ただ黙って目を細めていた。
「きっと、昼前には保健所の人たちが来る。そしたら……」
 その先を言葉にすることが出来ず、一松はぐっと押し黙った。黙ったまま、自分の膝に顔を埋めて声を殺して泣いた。


 家に戻ると、五人は既に朝食を終えていた。一松の目が赤く腫れていることについて、誰も深く追及はしなかった。


「あと一匹か~」
 路地裏に向かって歩きつつ、おそ松が頭の後ろで手を組んだ。
「ボス猫ってのが大変だよね。小さくて可愛い猫の方が人気だから」
「見た目で選ぶ奴はちゃんと世話しないから絶対に駄目だよ。真剣に責任もって飼ってくれる人じゃないと」
 トド松とチョロ松の会話に、十四松が口を挟む。
「やっぱり、うちで飼っちゃ駄目っすかね~」
 しかしそれを、カラ松が否定で打ち消した。
「今でさえ六人で一部屋だからな……。これ以上はスペースが無いだろう」
 残念そうに眉を下げるカラ松に、一松が小さく舌打ちした。
「クソ松が出ていけば、猫一匹分のスペースぐらい出来るでしょ」
「なるほど!」
「いや、なるほどじゃないぞ十四松?」
 そうこうしているうちに、一行は路地裏に到着した。辺りに人はおらず、一松はほっと胸を撫で下ろす。
「ちょっと待ってて」
そう言って一松が路地裏に入っていく。その後ろ姿を見送りながら、おそ松が笑った。
「あいつが俺達に待っててって言うの、なんか新鮮だよな」
「ちょっと分かるかも。いつも僕達に着いてくる側だからね」
 チョロ松が頷いていると、大柄な猫を連れた一松が戻ってきた。
「こいつが最後の一匹なんだけど……。なに皆にやにやしてんの」
 じとっとした目で見られ、一同は和んでいた顔をさっと隠す。
 一松の足元では、連れてこられた猫がぶすっとした顔で五人を見上げていた。
「目付き悪いね……。貰ってくれる人、見つかるかなぁ」
 不安そうなトド松は、それでもスマホで写メを取るとさっそく知り合いに拡散し始めた。
「とりあえず、今日はこの子も連れて行こうか。知らないうちに居なくなっても困るし」
 そうチョロ松が言った直後。
 歩き出そうとしていた一松が、足を止めた。
「――その猫、渡してちょうだい」
 ちょうど一週間前と同じ顔触れの女性たちが、仁王立ちで立ちはだかっていた。
「随分と頑張ってたみたいだけど、まぁ、そんな猫は残っちゃうわよねぇ」
 意地悪く言う女性の一人を、一松が歯噛みして睨み付ける。
「業者の人なんて来てないみたいですけど」
 一歩進み出て、チョロ松が問いかけた。
「ああ、保健所の人はあと数分で来られるそうよ。良いじゃない、保健所と言っても、一週間の間に飼い主が見つかれば引き取ってもらえるんだから」
 この一週間のうちに引き取り手の無かった猫が、たったもう一週間の猶予の間で貰われていくとは思えない。
 反論させる気もないと言わんばかりに、女性はたたみかける。
「貴方たち、見たところ全員いい大人みたいだけれど、平日の昼間から猫なんかに構っているだなんて……仕事もしていないのかしら」
 反射的に、十四松が口を開いた。
「兄さんの友達に、なんかって言わないで!」
 すると女性は大げさに驚きの表情を浮かべた。
「あらまぁ、猫が友達だなんて、可哀想なのねぇ」
 馬鹿にしきったわざとらしい言葉と仕草に、カラ松の眉間の皴が深くなる。
「おい、いい加減に……」
「やめろ、カラ松」
 怒気のこもった声を、おそ松が静かに制した。
「あら、そっちの赤い子は賢いようね」
 服の色で指されたおそ松は、へらりと笑って頭を掻く。
「いやー、俺達確かにニートだしさ。世間様から見ればどうしようもないクズなんだろうけど」
 ニート、という単語に過敏に反応する女性陣に、おそ松はいつもと変わらない笑みで告げた。
「弟とその友達を馬鹿にされて黙ってられるほど、クズじゃねーんだよな」
 おそ松が言い終わると同時に、道の向こうから車の走行音が響いてきた。それを聞きつけ、女性が勝ち誇ったように言い放つ。
「どうやら、保健所の方がいらしたみたいね」
 彼女は一松に歩み寄ると、足元でふてぶてしく自分を見ているボス猫に手を伸ばした。
「っ……」
 やっぱり、守れなかった。
 思わず一松が目をつむった、その瞬間。
「ぶにゃん」
 ボス猫が、鳴きながらその手を強く払った。
 ひるみつつももう一度捕まえようと再び伸ばされた女性の手は、しかしまたも空振りする。
「ほら、一松」
 女性の手からすくいあげるように、おそ松が猫を抱き上げていた。
 ぱちくりと目を瞬かせる一松に、当たり前のように猫を差し出す。
「こいつ、お前がいいってよ」
 女性達も五人の兄弟もぽかんとしている中で、停車した車から男が一人、現れた。
 彼は――ミスター・フラッグ。もといハタ坊。
「待たせたじょー。猫ちゃんはどこだじょー?」
「「「「「は、ハタ坊!」」」」」
 声を合わせる五人と、事態を飲み込めていない女性たちが一斉に車の方を振り返る。
 保健所の車だと思っていたのは、黒塗りのベンツだった。ボディガードのように屈強な、しかし六つ子にとってはトラウマでもある旗を頭部に携えた男も立っている。
「ちょ、ちょっと、どういうこと!」
 混乱している女性と困惑している兄弟に、おそ松はポケットからあるものを取り出して見せる。それは……。
「僕のスマホじゃん!」
「せいか~い」
 誇らしげに鼻の下をこするおそ松に、トド松が慌てて自分のポケットをまさぐり、つい先程までそこに入れていたはずのものが無くなっていることに愕然とした。
「いつのまに……」
「トド松、さっきこの猫の写真撮っていろいろしてたじゃん? そのとき、ついでに俺がハタ坊にも送ってみたんだよね。金持ちだから飼ってくれるじゃないかと思ってさ」
「いや、送り終わったんならさっさと返してよね! まったくもう!」
 怒るトド松に「ごめんごめん」と悪びれていない謝罪をして、おそ松は女性達に向き直る。
「で、結局この猫は俺らの友達が飼ってくれるってなったんだけど、まだ何か文句ある?」
 完全に沈黙している女性達を尻目に、ハタ坊は無邪気に猫を撫でる。
「可愛いじょ~。大事にするじょ~」
 ボス猫は若干嫌そうな顔をしながらも、「ぶにゃあ」と鳴いてされるがままになっていた。
 その鳴き声で、放心状態だった一松がようやく我に返った。
「本当?」
 一松がそう口を開いた瞬間、その場に二台目の車が現れた。どうやら保健所の車のようだ。
「うわっ、めんどくせー。じゃ、おばさんたち後はよろしく!」
「おっ、おばさん?」
 女性達が額に青筋を立てたところで、猫を抱いたままのおそ松を先頭に、六つ子とハタ坊はリムジンに乗り込んだ。


「……びっくりした」
 ロングシートの座席に腰かけて、一松が息を吐く。その膝に、おそ松の手からボス猫が乗せられた。
「ぶにゃん」
 ごろごろと喉を鳴らす猫を、一松は優しく撫でる。そして、車内の全員に向かって小さく頭を下げた。
「皆……ありがとう。おかげで、助けられた」
 ハタ坊は頭の旗をパタパタさせながらにっこりと笑う。
「猫ちゃんは大事に飼うじょー。いつでもうちに遊びに来るといいじょー」
「旗さえ刺されなきゃいいんだけどね……」
 トド松の呟きに、他の五人がハタ坊に気付かれないように小さく首を縦に振る。
「それにしても、野良猫から大金持ちのペットだなんて、羨ましいなー。俺もハタ坊のペットになりたい!」
「……おそ松兄さん、ペットじゃない。友達。それか家族」
「そこ? ペットになりたい発言はスルーなの一松兄さん?」
 わいわいと騒がしい七人と一匹を乗せて、リムジンは晴天の下を滑るように走っていった。
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