惚れた腫れたの恋慕と神様

 早朝の空気が頬を撫でる。清廉に澄み切った、年の始めに心を引き締めてくれるような、きりりとした空気だ。
 初日の出には少し早い空を見ると、薄暗い青空の向こうが徐々に明るくなってきている。
 たくさんの参拝者で賑わう境内は、しかし度を越した下品な騒々しさなどは欠片も感じさせない。行き交う人々は誰も彼も幸せそうに笑っていて、こちらまで頬が緩んでしまう。
 ふと、宝物館の方から歩いてくる影があった。
 周りを押しのける訳でもないのに、自然と彼の周りの人たちが通り道を作る。人の波を悠然とした足取りで抜け、真っ直ぐにこちらへ向かってきた御神刀――石切丸は、柔らかく揺れる茶髪の下で、にこやかな笑みを浮かべた。
「新年、明けましておめでとう」
 薄い唇から白い息を吐き、軽く会釈した石切丸に、私も小さく頭を下げる。
「明けましておめでとうございます。元旦から、大変ですね」
 微笑みかけると、石切丸は両目を優しく細めた。神々しい白の瞳孔が月のように光り、まなじりの紅がきゅっと上がる。
「これだけの人が集まるのは、やはり年に一度のことだからね。とても嬉しく、有難いことだ」
 言って、御本殿に向かい列を成す人々を見つめる石切丸の目は、この神社の御神刀らしい慈悲に満ちていた。
 その横顔を幸せな気分で見つめながら、私は少し不思議なことに気が付いた。
 刀剣男士として私の隣に立っている石切丸は、審神者でない普通の人には見えないはずだ。
 大勢の人で賑わっているとは言え、境内に一人立ち虚空に向けて喋っている人物がいたら不審者と思われるだろうが、参拝客たちは誰一人として私の方を気にも留めていない。
 そういえば先程石切丸がこちらに来た時も、道を開けてくれた人々は石切丸を認識していたというより、自然な動きで無意識に彼の通る空間を避けていたようにも思える。
 小首を傾げて石切丸を見上げると、彼の鮮やかな紫の瞳と目が合った。神様然とした瞳は、夜明け前の空を背景に少しだけ暗く見えた。
「……私は、この神社の御神刀として長く在ったけれど」
 不揃いな前髪の間から、真剣な眼差しを向けられる。それはいつも通りの真っ直ぐな視線だけど、どうしてか背筋をなぞるような不穏な雰囲気を纏っていた。
 不安な気持ちを振り払おうと開いた唇が、石切丸の目に射抜かれて動かなくなる。
 そんな私を見据えて、石切丸は穏やかな声音で甘い言葉を囁いた。頬が淡い朱に染まっている。
「今は、君のことを何よりも愛おしく思うよ。誰よりも、何よりも大切なんだ」
 脈絡のない告白。唐突な愛の言葉に、しかし私は眼前が真っ暗になった気がした。
 嫌な風に鼓動が早くなり、背筋を冷たい汗が伝う。こんなにも寒いのに手汗で指の間が湿る。
 吸った息は肺を凍らせるんじゃないかと思うほどに冷たく、何故か涙が湧き出てきた。
「……いや、です」
 思うより先に言葉が口をつき、ぽろりと涙が零れ落ちる。
 痛む鼻先を上げて石切丸を見つめ、もう一度繰り返した。
 いつのまにか、神社中の人たちは霧のように消えていた。

「いやです」

 自分の吐いた言葉で目が覚めた。それと同時に、驚いた表情の石切丸と目が合う。
 内番着姿の彼は、焦りと困惑の混ざった顔をしていた。足元は温かいのに何だか顔が冷たくて、自分の頬に触れると、指先に涙が触れた。
「……君が炬燵で寝てしまっていたから、布団まで運ぼうとしたんだけれど」
 泣くほど嫌だったかい? と眉を下げる石切丸に、こちらの方が申し訳なくなってしまう。
 寝起きでぼうっとする頭を振り、部屋を見回して思い出した。正月を迎えてもう数日経つというのに、炬燵で書類の整理をしているうちにうたた寝してしまったらしい。
 落ち込んだ様子の石切丸にもう一度謝罪して、私は彼の誤解を解くために慌てて口を開いた。
「実は、変な夢を見て……」

 乾いた口を潤すために石切丸が淹れてくれた茶を一口飲むと、だいぶ気持ちが落ち着いた。
 夢の内容を聞いた石切丸は、湯呑を机上に置いて「ふむ……」と声を漏らした。
「私が、君のことを特別に愛しく思うと言って」
 改めて本人の口から愛しいと言われると、何だか凄く照れてしまう。
 気恥ずかしさで真っ赤になった私に、彼の淡々とした声が不思議そうに尋ねた。
「それが泣くほど嫌だったのかい?」
 問いは悲しみよりも怪訝な色を帯びていた。
 ……私と石切丸は恋仲であるから当然のことと言えば当然なのだけれど、私たちの間にある情の深さを暗に示されているみたいで、やっぱり恥ずかしくなる。
 照れを誤魔化すように咳払いして、私はあの時に思ったことを口にした。
「石切丸に特別扱いされるのは凄く嬉しいんだけど……誰よりも、何よりもっていうのが、何か引っかかっちゃって」
 目を伏せた私に、石切丸が興味深そうな顔をする。室内灯に照らされた瞳が、じっと私を見ていた。
「何ていうか、石切丸は神社でずっと大切にされていて、地元の人たちにもとても愛されているから……私が石切丸の一番になるのは、寂しいなって思って。……変な言い方だけど」
 言いつつ、我ながらおかしなことを言っているなと耳が熱くなる。
 私が勝手に変な夢を見ただけで、由緒ある神社で大事にされている石切丸が私を特別扱いするなんて、口に出すのもおこがましい話だ。
 自分で話しておきながら、今の話は忘れてほしいと言いかけた私に、真面目な顔で何やら考え込んでいた石切丸は僅かに目元を緩ませた。
 戦の時以外にもちゃんと引かれている目元の紅が、まなじりが垂れるのに合わせてゆったりと下がる。
「……君は、私を通して、私の居る場所やその地に居る人々のことも愛してくれているんだね」
 慈愛とはまた少し違う、心から嬉しそうな声だった。神秘的な紫の瞳が、白い瞳孔の輝きで全体的にきらきらと輝いている。
 夜空の星屑みたいだな、と思って見つめていると、不意に大きな手で頭を撫でられた。
「わっ」
 思わず大きな声を上げてしまったけど、石切丸は満面の笑みを浮かべたまま私の頭を撫で続けた。柔らかくて、でも所々が硬い、力強さと優しさを体現したような手が心地良い。
「君は特別だよ。なんと言っても、私の主だからね」
 私の頭を撫でながら、石切丸は幼子をあやすように言った。私が口を挟む前に、静かに言葉を続ける。
「そして、私の居る神社や石切に関係する人たちも、それぞれ全ての人が、私にとっては誰一人としてかけがえのない大切な人たちだ。……順番なんてつけようもない、愛すべき人の子たち」
 恋仲でもある身としては、不満かい?
 こちらの瞳を覗き込む石切丸の瞳は、やはり神様らしい真摯な慈愛に満ちていて。
 私は、この御神刀の主となることが出来た幸せを嚙みしめながら、そして彼の『特別』の一人であることを誇らしく思いながら、自分の口角が上がるのを感じた。
 この神様は、いつだって人々を平等に愛してくれる。
「そうだね……じゃあ、恋仲としての『特別』を、一つだけ」
 呟いた私に、石切丸が笑顔のままで疑問符を浮かべている。ようやく撫でる手を止めた彼の胸元に縋り付いて、半ばよじ登るような体勢で、唇にキスをした。
「!」
 薄いが弾力のある唇から、驚きと共に熱い吐息が漏れるのを感じた。いつだって優しい言葉を紡ぐ口唇は、それに相応しい柔らかな感触をしている。
 恋人という『特別』を堪能すべく、角度を変えて何度も触れるだけの口付けを繰り返す。
 やがて照れ笑いしながら身体を離すと、名残惜しげに額へと口付けられた。その仕草が妙に可愛らしく思えて、ついまた笑ってしまう。
 男士たちの中でも特に大きな体躯で私を抱きしめる石切丸に、私も審神者として、彼の恋人として、ありったけの愛を込めた言葉を囁いた。
「私も、石切丸のことが特別だよ。男士はみんな一人一人が特別で、大切で……石切丸は、男士としても恋人としても大切」
 御神刀様を相手に恋人なんて表現を使うのは不敬な気もして、未だに少し気が咎めるけれど、当の石切丸は穏やかな眼差しで私を見つめてくれる。抱きしめて、愛してくれる。
 彼が彼であることにこの上ない幸福を感じながら、私はいつまでも優しい温もりに包まれていた。
1/1ページ