ありがち勘違い


 暖かな春の午後。山奥に佇む小さな本丸の一室で、薬研藤四郎は人知れず溜息を吐いた。
 戦績を整理していた手が止まり、それに気づいてまた筆を持つ手に力を入れる。しかし、気付けばいつのまにか気が抜けてしまう。真面目で勤勉な彼にしては珍しく、業務に身が入っていないのは誰の目にも明らかだった。
「はぁ……」
 一旦、休憩しようと思い、薬研は筆を置いて畳に寝転んだ。窓から吹き込む爽やかな春風が眠気を誘ったが、今日の彼が集中出来ていない理由は、春うららといった気候のせいばかりでは無かった。
 身体を起こし、書類を脇にどかして文机に突っ伏した薬研。艶やかな黒髪を、柔らかい陽の光が優しく照らす。そのまま眠ってしまいそうな姿勢だが、薬研の脳内には、安眠とは程遠い悩みの種があった。
「……乱の野郎は、今日は畑当番だったかな」
 ほとんど無意識に零れ落ちたのは、薬研の恋人である乱藤四郎の名だった。
 同じ刀派であり、人で言うところの兄弟として括られる二人だが、刀の身には血の繋がりも何も無い。そう割り切っている二人が結ばれたのは、ここ最近のことでは無かった。
(もうそろそろ一ヵ月になるか)
 頭を転がして壁の暦表を見ると、乱に告白された三月の頃が、随分と昔のように思えた。
 元々、兄弟として仲の良かった乱のことは憎からず思っていて、関係が少し変わるだけだと深く考えもせずに応じたのは薬研の方だ。まさか、たったそれだけのことでこうも思い悩む日が来るとは考えもしなかった。いや、それまでがそういうことに疎すぎて考えもつかなかったというのが正しいか。
 以前の自分からは想像つかないなと、薬研は再び大きな溜息を漏らす。恋仲になったからといって、二人の間にこれといった変化は無かった。単なる兄弟の一人であった時と同じように話し、時には戦に出る仲間として共に戦う。それ以上でも、それ以下でも無いのが、薬研には却って問題だった。
(あいつは、恋仲らしいことをしたいなんて思わねぇのかな)
 決して口に出すことは無いが、薬研は密かに飢えていた。飢えるなどといったら語弊があるかもしれない。ただ、せっかく恋仲になったのだから、手を繋ぐやら二人で出かけるやらなどのそれらしい出来事があっても良いのではないか。
 文机の下で組んでいた両手を解き、薬研は右手の手袋を脱いだ。現れたのは、骨っぽい固い手。陽に透かすと、色白さがより一層強調される。
 乱の手は、自分の手よりも柔らかいのだろうか。そんなことを考える己が少し恥ずかしく、同時にくすぐったい気持ちにもなった。
 そこで、薬研はふとあることを思い出した。この本丸には、自分と同じく恋仲である男士があと六振りもいる。勿論、恋仲は一振りと一振りの組み合わせなので、薬研たちを合わせると合計で四組の恋人たちがいる計算だ。
 そのうち特に馴染み深い一振りの存在を脳裏に浮かべ、薬研はその刀に話を聞きに行こうと思い立った。自分と同じ程か、もしくはそれ以上に色恋沙汰に疎いはずのその刀が、恋人とはどう過ごしているのか。興味が半分、参考にしたい気持ちが半分だ。
 机上の書類を纏めて引き出しに仕舞い、薬研は上着代わりの白衣を羽織って仕事部屋を後にした。

 男士用の部屋が並ぶ廊下を、すたすたと迷いの無い足取りで歩く。それぞれに与えられた個室は、基本的に顕現した順で埋まっていた。途中、厠や刀装作成部屋などを挟みながらも男士用の部屋が圧倒的に多いのは、やはり顕現した男士の多さによるものだ。
 どこまでも果てが無いように思われる廊下を曲がると、通りがかった一室から二人分の話し声が聞こえた。位置的に、中盤に顕現した和泉守兼定と堀川国広の部屋の近くだ。
 この二振りは同じ主を持ち、連続で顕現したことで部屋が隣同士である。何より、二振りが恋仲同士の組み合わせの一つであることで、薬研も何となく親近感を持っていた。
 二振りの知り合いである加州が「堀川は、和泉守のこと大好きだもんな」と半ば呆れ気味に言っていたが、その時の堀川は困ったように笑うだけだった。
「僕は、兼さんの助手なだけだよ。唯一無二の相棒っていうかさ」
 しかしそれから半月も経たずに交際を開始していたのだから、薬研にとっては不思議な距離感でもある。兼さんの助手から恋人へ移行した時、二人の間では何が変わったのだろうか。
 兄弟という関係から恋仲へと移り変わった自分たちと比べつつ、だが今話を聞きに行くべきなのはこっちでは無いと薬研が部屋の前を素通りしかけた時だった。話し声の主が、突然に声量を上げる。
「くっ、国広! あんまり、無理やりするんじゃねぇ!」
 切羽詰まった声。心なしか涙混じりに聞こえるそれに、国広と呼ばれた声が答える。
「兼さん、上手く入らないから動かないで。血が出て痛い思いしたくないでしょ?」
 余裕のない声とは対照的に、淡々と応じる声は、確かに和泉守の名前を呼んだ。薬研の読み通り、ここは和泉守と堀川の部屋だったらしい。
 部屋の前に人がいるとは思っていないのか、和泉守が息の上がった声で縋るように言った。色気のある吐息が、部屋の外まで漏れている。
「せめて、もう少し優しくしろよ」
「兼さんが動くから変なところに当たるんだよ。ほら、力抜いて」
 対する堀川は、まるで子供を相手にするかのような態度で和泉守をなだめている。
 意図せず盗み聞きする形になってしまった薬研は、真っ赤になって立ち尽くした。なるべく足音が響かないよう、抜き足差し足忍び足で隠れるように移動する。
(……昼間からお盛んなことで)
 僅かな体重移動にも気を配りながら廊下を抜けると、どっと疲労が押し寄せてきた。足音を気にする必要が無くなり、「ふぅ」と深い溜息を吐く。
 それにしても、いくら昔馴染みで相棒だといえ、よくも半月で事をなすにまで至るものだ。共に過ごした年月が長ければ、それだけ気恥ずかしさが勝る物じゃないだろうか。いや、逆に恥じらいも何も無くなるものなのか。
 まだ熱を持っている頬を軽く右手で煽りながら、薬研は目的の部屋へと急ぎ足で向かった。

 堀川は脇差故に見た目こそ和泉守より幼いが、実際は年長の刀だ。だからあの場でも主導権を握っていたのだろうかと余計なことを邪推して、薬研はさっきの会話をきかなかったことにしようと首を横に振った。
 薬研が当てにしているのは、織田信長のもとに在った一振りだ。薬研に負けず劣らず生真面目で、およそ恋愛沙汰には興味のなさそうな性格ながら、意外な刀と付き合っている。
 目当ての部屋を目前に、しかしまたしても薬研は唐突に足を止めた。この部屋からも、二人分の話し声が聞こえる。けれど、この部屋の主はこんな真昼間からやましいことなど何もしていないだろう。薬研にはそんな確信があった。
 辿り着いた部屋の主は、薬研と元の主を同じくする打刀、へし切長谷部。この本丸で随一の堅物が、よもや昼間から情事にふけることなど、あるはずが――、
「君のは随分と硬いな。しかも太くて色も濃い」
 聞こえたのは、長谷部と恋仲である刀の声だった。
 男としては少し高い、常に何かしらの驚きを求めていそうな声音。
「お前のが柔らかすぎるんだ。少し力を入れただけで折れてしまいそうだな」
 何故か得意げにも聞こえる返答の主は、部屋の主でもある長谷部のものだった。鼻で笑う顔が薬研の目に浮かぶようだ。薬研の頬を一筋の汗が伝う。
「おいおい、折るとは縁起が悪いな。どれ、そんなに言うなら君の物を試させてくれ」
「っ、ちょっと待てっ!」
 なにやら争うような物音がして、部屋の中がにわかに騒がしくなった。しばらくがたがたと落ち着きのない音が響き、長谷部が抵抗する声が聞こえる。
「おい、勝手に入れるんじゃない……、あっ!」
 長谷部の声が途切れ、一緒に居るらしい恋仲の刀――、鶴丸国永の困ったような声がする。
「ああ、君ので書類を汚してしまったな。君のは濃いからなぁ……。見ろ、書類に跡がついてしまった。綺麗に落ちるだろうか」
 そこまで聞いて、またしても薬研は赤面して背を向けた。どうして今日はどいつもこいつも色ボケてやがるんだと心の中で吐き捨て、部屋から十分に離れた廊下で大きな足音を立てる。粟田口の長兄が見たら怒るか心配するかの二択だろうが、幸か不幸か一期一振は朝から遠征に出ていた。
 へし切長谷部は、時に愚直と言えるほど主に忠実な刀だ。主命を達成することを生きがいにしているかのような言動は、多くの本丸で忠犬と評されているくらいだ。
 我が本丸の長谷部も例に漏れず真面目で、そんな長谷部が鶴丸国永と交際していると聞いた時には流石の薬研も長谷部の胃痛を心配したものだったが、当の本人たちは仲睦まじくやっていたらしい。……あの長谷部が、こんな時間からあんなことをするくらいには。
 自由と驚きを追い求める鶴に、長谷部が感化されてしまったということか。白い鶴は悪い虫では無いのだろうが、恋とはそれほどにまで心を狂わせるものなのか。
 もはや恋愛そのものがよく分からなくなってきたところで、薬研は自分が手洗い場まで来ていたことに気付いた。衝撃の場面に二度も出くわして火照った顔を洗うにはちょうど良い。
 ついでに、陽の高いうちからいろいろと有り余っているらしい二組の恋人たちにも頭から冷水をぶっかけてやりたいところだが、それは自重する。誰であっても余暇の使い方は自由だ。……ただ、廊下まで声が漏れていたのはいただけないが。
 この分だと残りの一組、歌仙と青江まで盛っているんじゃないだろうかと思いつつ、流石にそれは無いかと自分で自分の思考を打ち消した。日頃から思わせぶりな言い回しを好む青江はともかく、こんな昼日中では、誘われる歌仙の方が怒り出しそうだ。
 とりあえず、声が漏れていたことは後でそれとなく二組の片方ずつ――堀川と鶴丸に伝えておこうと胸に決め、薬研は手洗い場の扉に手を伸ばした。しかし触れる直前に物音が聞こえてきて、思わずその手が止まった。
「うぅ……痛いよぉ」
 苦しげな声には、本丸内の誰よりも聞き覚えがあった。鈴を転がすような、それでいて明朗闊達な明るい声だ。戦場では勇ましいその声音は、今は弱々しい子どものように揺れている。
「そんなこと言っても駄目だよ。ほら、もっと大きく開けて」
「んぐぅっ」
 対する声には艶があり、最初の声に語気を強めて指示している。最初の声の可愛らしい声がくぐもり、気のせいか荒い息遣いまで耳に響くようだ。
「ああ、こぼさないようにね。床に垂れたら、掃除するの面倒だし」
 困ったように苦笑している声が耳朶を打ち、呆然と耳まで真っ赤になっていた薬研は額に青筋を立てて我に返った。今度は迷うことなく扉に手を掛け、派手な音と共に両手で勢いよく扉を開く。
「なにしてやがる!」
 怒りに任せて荒々しく叫んだ彼が見たものは、涙目で不安そうにこちらを見つめる恋人――乱藤四郎と、その名に相応しくにっこり笑う脇差、にっかり青江の顔だった。青江の手には、歯ブラシが握られている。その先端は乱の口に突っ込まれていた。
「おや、薬研くん。乱くんが虫歯を隠していたみたいでね。手入れで治るものでもないし、まずは歯磨きの徹底からと思っていたんだけど……」
 完全に薬研の勘違いを理解している青江の含み笑いに、薬研は頭から湯気が出るんじゃないかというほど真っ赤になった。口を泡だらけにしている乱は、急に怒鳴り込んできた薬研を涙目のまま困惑した表情で見つめている。
 そこへ、薬研の声を聞きつけたらしい鶴丸と長谷部が現れた。二人とも、いつもと変わらずきっちりした内番着姿だ。その姿には少しの乱れもない。
「どうしたんだ、そんな大声出して」
 金の瞳を丸くしている鶴丸に、薬研は目に見えて狼狽した。
「なっ……、あんたたちさっきまで部屋にいただろうっ!?」
 酷く驚いている薬研に、鶴丸の隣に立つ長谷部が顎に手を当てて頷く。
「確かに、俺たちは二人で書類の整理をしてたが……。それがどうかしたか?」
「長谷部用のシャープペンシルの芯を無駄に折ってしまったから、後で万屋に行かないとな。それと、強力な消しゴムもだな」
 鶴丸が言って、長谷部は呆れたように「貴様が勝手に人の芯を使って折ったんだろうが! まったく、だいたいお前は筆圧が強すぎるんだ」と溜息を吐いた。
 シャーペンの芯という言葉に、薬研が呆気にとられていると、扉の向こうから堀川と和泉守も顔を出した。手洗い場で話し込んでいる五人に、和泉守がぎょっとした顔を見せる。
「こんなところで、なにしてんだ?」
 横にいる堀川も、「なにかあったんですか?」と身を乗り出した。この二人は戦装束を着ていて、多少の汚れはあるものの、目立った怪我などはしていない。着衣の乱れもなく、強いて言うなら服に多少擦り切れた部分があるが、どう見ても戦闘によるものだろう。
 またしても驚いている薬研に代わって、青江が二人に声を掛けた。
「和泉守くんと堀川くん。出陣帰りかい?」
 問われた堀川は少し笑って、
「はい、さっき帰って来ました。兼さんがピアス落としちゃって、付け直してあげてたら血が出ちゃったんですよね。痛いとかくすぐったいとかで、なかなかじっとしててくれなくて」
「あっ、馬鹿、言うんじゃねぇって!」
 途端に和泉守は顔を赤くして声を張り上げた。しかし、それに応じる堀川の声は冷たい。
「暴れないでって言ってるのに聞かなかったのは兼さんでしょ」
 叱るように言われて、和泉守は「耳周り触られるとくすぐってぇんだよ」と愚痴をこぼす。それも「言い訳しない!」と堀川に怒られて、和泉守は完全に口を閉じた。
 それじゃ、ちょっと洗面所借りますね、と堀川がタオルを濡らし始める。それを見ながらもぽかんとする薬研に、青江がわざとらしく口角を上げて尋ねた。
「それで? 薬研くんはいったい何に怒っていたのかな?」
 瞬間、全てを理解した薬研は、みるみるうちに白い頬を紅潮させた。今日は何度も赤面する場面があったが、今の表情は怒りと羞恥でまさに怒髪、天を衝くといった形相だ。
「揃いも揃って、紛らわしいことしてんじゃねー!」
 部屋中に響き渡る大声で叫ぶ薬研。タオルを濡らしていた堀川の肩がびくっと跳ね、他の者たちも、恐ろしい剣幕に背筋を震わせる。
「おい、またなにかしたのか?」
 長谷部に睨まれた鶴丸は、必死で首を横に振った。
 場にいる全員の視線を感じ、その中で唯一にやにや笑っている青江に眉間の皺を濃くして、薬研は手洗い場から猛烈な勢いで出ていった。
 廊下を走り去る後ろ姿を見ながら、和泉守が疑問符を浮かべて頭を掻く。
「なんだぁ?」
 濡れたタオルを絞り、堀川は和泉守の血が付いた耳たぶを拭き始めた。和泉守が「いてっ」と声を上げたが、それとは別に、堀川は申し訳なさそうに眉を下げた。
「……もしかしたら、勘違いさせちゃったんでしょうか」
 堀川から言葉を向けられた青江は、掴みどころのない笑顔で緩く微笑んだ。
「そうだねぇ。まあ、彼も男の子だしね」
 後には、いまいち状況を飲み込めていないままの鶴丸と長谷部、和泉守だけがしきりに首を傾げていた。

 無我夢中で廊下を走り抜けた薬研は、誰もいない縁側でやっと立ち止まって腰を下ろした。顔の熱は冷めたが、自分を見た乱の困った顔が頭から離れない。
「……」
 顔を両手で覆い、深い溜息を漏らす。冷静さや状況判断には自信があったのだが、恋愛ごとが絡んだだけで早とちりをしてしまった。恥ずかしさと不甲斐なさで自分が嫌になる。
 そもそも、恋をしたのは乱からのはずだった。それなのに、今では薬研の方が振り回されているようだ。乱から愛情を受けすぎて、薬研の方が重たくなってしまったのだろうか。
(……なんて、馬鹿らしいな)
 どこまでも自分らしくない思考に自嘲して、薬研は薄い笑みを浮かべた。もとはと言えば、告白してきたわりに何も恋仲らしいことをねだらない乱にやきもきしていたのだ。そのせいで自分のペースが乱されているようだとも思い、また笑う。
「なに一人で笑ってるの」
 唐突に声が降ってきた。顔を上げると、空と同じくらいに澄んだ青い瞳が薬研を見下ろしている。呆れているような顔で、薬研を覗き込んでいた。
 返す言葉が見つからない薬研の隣に、乱藤四郎は距離を詰めて座った。
「さっきの、にっかりさんもびっくりしてたよ。どうしたのさ、急に」
 口を尖らせ、頬を膨らませる乱。鮮やかな金髪は、陽に照らされてきらきらと輝いている。見目だけは女子のそれだ。
 薬研は目を伏せて逡巡し、ついに観念した。
「……お前に乱されてんだよ」

 事の顛末を聞いた乱は、お腹を抱えて大笑いした。顔をしかめて頬を赤く染める薬研には、「はしたないぞ」とたしなめる余裕もない。
 笑い過ぎて目の端に涙まで浮かべた乱は、指先で涙を拭うと再び笑った。
「はー、おっかしい。それで和泉守さんたちがびっくりしてたんだ」
 納得しつつ笑い続ける乱に、薬研が「もういいだろ」と頬を掻く。乱は笑い声を噛み殺して普段通りの笑顔に切り替えた。
「それにしても、そんなに悩むくらいなら言えば良かったのに」
「言えるわけないだろ。第一、告白してきたのは乱の方じゃなかったか?」
 精一杯の嫌味で返すも、乱は意にも介していない様子で頬を緩めた。嬉しそうに目を細める表情は、どこか安堵しているように見える。
「……薬研、本当はボクを気遣って付き合ってくれてるのかなって思ってたから、安心した」
 思いがけない言葉に、薬研は目を瞬いた。乱が少しだけ残念そうに笑う。
「あーあ。虫歯が無ければ、今すぐ口吸い出来たんだけどな」
「そういえばお前、虫歯を隠してたんだって? どれ、見せてみろ」
 大きく口を開けた乱の唇に、薬研の手が触れる。
 柔らかな光を受ける白い肌に、薬研の黒髪が影を作った。乱の青い瞳と、薬研の紫を帯びた瞳が重なる。二人の頬と頬が、触れるほどに近くなった。乱が目を閉じ、その長い睫毛が影を落とすのを、薬研は静かに見つめる。
「……っ!」
 突然、大きな音と振動が響いた。はっと二人が廊下に目をやると、そこにはいくつかの書物を床に散らした歌仙兼定が、顔を真っ赤にして薬研たちを見ている。半端に開いた口と、丸く見開かれた目が動揺を物語っている。
 薬研と乱が弁解するより先に、物陰から青江が現れた。何冊か本を持っているあたり、歌仙の手伝いだろうか。青江は、まだ放心状態の歌仙の足元に散らばった本を見て、それから縁側に座る薬研と乱に目をやって小さく笑った。
「おやおや、歌仙くん。二人の邪魔をするなんて、野暮だねぇ」
「なっ……、僕は別に、そういうつもりじゃ……!」
 歌仙は耳の先まで赤くなって本を拾い集める。薬研と乱も慌ててそれを手伝い、歌仙は礼を言うと咳払いして、小声で付け加えた。
「その……、そういうことをするのが悪いことだとは言わないが、せめて他人の目に付かないところでだな」
「そういうことって、どういうことかな? 言ってごらんよ」
 茶化すように青江が歌仙の耳に息を吹きかけ、刀があれば即座に叩っ切ってやるとばかりに歌仙に追い回されて退場する。
 その場に残された薬研と乱は、顔を見合わせると、どちらからともなく笑い声を上げた。
「歌仙さんに勘違いされちゃったね」
 可笑しそうに笑う乱に、薬研も一緒になって笑いながら呟いた。
「あながち勘違いでもないだろ」
 乱が声を上げるより早く、その白い頬に薬研が口付けていた。
「……はやく虫歯治せよ」
 にっと笑う薬研に、今度は乱の頬が真っ赤になる。
 何かと勘違いの多い一日だったが、乱の顔から読み取れる心情に間違いは無いだろう。そう確信して、薬研は乱の頬にもう一度口付けた。
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