朱璃 SS 2


 
「孝太郎! 孝太郎はどこへ行ったのだ!」

 屋敷内に響き渡る低い声に、座敷で縫い物をしていた女性が立ち上がる。
 やれやれと微笑みながら障子を開けると、ちょうど声の主である男性と出くわした。彼は眉間にシワを寄せ、妻であるその女性を睨みつけた。

「孝太郎を知らぬか?」
「あら、またお茶のお稽古から逃げだしたのですか?」
「そうだ。少し叱っただけで泣きながら茶室を飛び出したのだ」
「あなたが厳しすぎるのです。あの子はまだ十一歳で遊びたい盛りですよ。お友達とコマや鬼ごっこがしたいでしょうに、沢山のお稽古事をさせて……」
「あの子には立派な茶道家になってもらわなければならないからな。お前の所にいないのなら、裏の神社に行ったのだろう。今すぐ連れて帰る」
「心配しなくてもしばらくすれば反省して帰ってきますよ。いつもそうでしょう?」

 彼女がクスクスと微笑みながら空を見上げた。
 まだ日は高く、眩しいくらいに地面を照らす。

 木々から漏れる光が森をいっそう豊かな緑色に染める中、目を真っ赤に腫らした少年が鼻を啜りながら山道を歩いていた。
 何度も涙を拭ったのか、灰青紫をした無地着物の袖の一部が濃くなっている。

「ぐすっ……。お父様なんか大嫌いだ。もう茶道なんかやりたくないよ……」

 独り言を呟きながら、朱い鳥居をくぐり、社の前にしゃがみ込む。泣きべそをかきながらしばらくそこに座っていると、不意に視線を感じて顔を上げた。しかし、そこに見えるのは鬱蒼と茂る木々ばかり。耳を澄ましても、涼しい風が葉を揺らす音しか聞こえない。

 気のせいだろうかと思った瞬間、視界の隅に朱い着物が映り、思わず振り返る。

 社の裏へ走って行く影が一瞬だけ見え、孝太郎は恐る恐るそちらへ向かった。

 裏手へ回っても景色は相変わらず緑豊かな森である。しかしそこにある一本の木から自分を覗いている子供がいた。

 肩まである長い髪と柔和で美しい顔立ち、着ている着物は鮮やかな朱色をしており、一見すると女の子のようである。しかしそれよりも目立っていたのは頭についた狐耳と、後ろからちらちらと見える尻尾だった。
 彼は怯えたような不安げな様子で孝太郎を見ており、耳もぺたんと伏せている。
 一歩でも近づくと逃げてしまいそうな雰囲気をしていた。
 しかし孝太郎は躊躇するどころか満面の笑みを見せた。

「あ! お前はあの時の狐ではないか?」

 その言葉に、狐耳の少年は驚いたように目を見開いて、怖ず怖ずと木から姿を現した。

「……なぜ分かる」
「見れば分かる。どう見てもあの時の狐だ。屋敷からいなくなってからずっと心配していたのだぞ。元気になったのだな!」
「……」

 狐耳の少年が自分の姿を確認するように自分を見る。
 その間にも孝太郎はどんどんと距離を縮めていく。

「でも驚いた。人間に化けることができるのか」
「……お前と話すために練習したのだ」
「私と?」
「そうだ。お前に……礼を言いたいのだ……」

 恥ずかしげに頬を染めた少年が孝太郎の前に立つ。
 そして精一杯の勇気を振り絞り、彼の手を握った。

「あ、ありがとう」

 孝太郎の指には至る所に裂けたような傷跡があった。
 その手をぎゅうっと握る少年に、孝太郎は優しく笑いながらその手を握り返した。

「お前の名はなんと言うのだ」
「……しゅ……朱璃だ」
「そうか。いい名前だ」
「お、お前の名はなんと言うのだ」
「孝太郎。五月乙女孝太郎だ」
「……孝太郎……また……会ってもいいか?」
「もちろんだ!」

 力強い手の温もりに、朱璃は照れたように、そして嬉しそうに笑った。


「何がそんなにおかしいのだ?」

 先程から自分の隣で微笑う孝太郎に、朱璃は少し怪訝な様子で片目を開いた。

 いつもの待合で、いつものように二人並んで静かに凉を愉しんでいただけなのにと不思議がる朱璃を、孝太郎が穏やかに見つめた。

「いや、昔の事を思い出してな」
「昔の事?」
「ああ。お前は随分と私を好いていたなと思ってな」
「なんだ、自惚れているのか?」
「そうかもな」
「ふふふ、まあ認めてやらなくもない」
「今は私のほうがお前に惚れているがな」
「それは認めてやらない。今も昔も……、だ」

 朱璃が照れたように柔らかく微笑む。あの時と変わらず嬉しそうに笑う彼に、孝太郎の胸が陽光を浴びたように暖かくなる。

 過ぎた日々は幸せで、これから先もきっと幸せなのだろうと、二人は見つめ合うだけでそう確信した。