朱璃 SS 1


 山深い森に建てられた屋敷には、竹林に囲まれた日本庭園がある。
 その中は広大で、池はもちろん東屋や枯れ山水、田舎風の茶室もあり、道の代わりに置かれた飛び石には常に打ち水がされ、心地よく凉が愉しめるように心配りがされてある。そこの茶室へと続く道にある待合に、袴を着た男性が座っていた。
彼は茶碗を片手に、正面にある森を眺めては気持ちよさそうに目を細めている。

 綺麗に整えられた短髪と、凛々しいが穏やかな顔立ち。落ち着いた物静かさは、まるで一輪の菖蒲ように洗練されていた。

「次期の茶道家元だと噂される男が、そんな所で茶とは、流儀もなにもあったものではないな。孝太郎(コウタロウ)?」

 優しげに笑う声に孝太郎が顔を上げると、目の前には鮮やかな朱色の着物を着た男性が立っていた。腰まである長い髪は艶やかに風に揺れ、とげのない柔和な顔立ちは女性的な美しさがあり、まるで牡丹のように淑やかである。

 音もなく現れた彼の頭には金色の狐耳がついており、尻尾も生えていた。
 浮世離れしたその容姿にも、孝太郎は顔色一つ変えない。

「やあ、朱璃(シュリ)。たまには型に嵌まらず飲むのもいいものだぞ」

 微笑みかける孝太郎に、朱璃は笑顔を返しながらゆっくりと隣に腰掛けた。
 漆塗りの腰掛けは全体が朱色で端が黒く塗られている。その色使いが鳥居によく似ており、朱璃はここが好きだった。

 まだ朝も早く、遠くでは蜩が高く鳴いており、時折鳥の囀りも聞こえる。
 しばらくそれを堪能した後、朱璃が静かに口を開いた。

「……何かあったのか?」
「いいや。何もないさ」
「昨夜は随分と喧嘩をしていたようだが? お前の父親の声が山奥まで響いていたぞ」
「はは……。お前には敵わないな」

 孝太郎が茶碗に視線を落とす。
 中の抹茶はとっくになくなっており、渇いた跡が緑の線を描いていた。

 穏やかに口元を上げるだけで何も言わない彼に、朱璃が少し俯き加減になる。

「また、縁談を断ったのだろう?」
「ああ。結婚などしないと前々から言っているのだが、納得してくれなくてな」
「当たり前だ。お前は由緒ある五月乙女(ソウトメ)家の一人息子なのだぞ。親も後継ぎが欲しいのだろう」
「心配しなくても私にはお前しか見えていない」
「ふふふ。そんなに獣の私がいいのか?」
「ああ。お前は私に気を遣って人に化けているが、随分と疲れるのだろう?」
「そうだな。人に化けるのは難しい」
「お前が狐であることに誇りを持っている事は知っているし、姿がどうであれ朱璃であることに変わりはない。だから、私は狐のままでも構わないと思っている」
「……ふふ。お前がそう言ってくれるから私は人に化けるのだ」

 僅かに頬を染めた朱璃が、微笑みながら彼の手へと視線を移す。
 逞しい指先には所々に裂けたような古い傷跡があった。
 それを慈しむように見つめながら、追憶へと胸を焦がす。

「幼かった孝太郎に、今の落ち着き払った態度を見せてやりたいものだ。あの時のお前は泣きじゃくるばかりで……」
「それを言わないでくれ。あの時は必死だったのだ」
「からかっているわけではない。トラバサミにかかった狐を助けるために、お前は鋸歯がついた歯を掴んで無理矢理こじ開けた。血だらけになった自分の手はお構いなしに、狐のことばかり心配していたな……」

 朱璃がそっと手を重ね、指先だけでその傷をなぞる。
 労るように繰り返し、指を絡めた。

「この腕に抱かれるためならば、人に化けることなど大したことではない」

 真摯に向けられた瞳に、孝太郎も頬を染めながら、物静かに微笑んだ。

「そうだな。それに人の姿なら、お前の笑顔も見ることが出来る」

 孝太郎がその手をきつく握ると、応えるように握り返される。
 きつく結ばれた手の温かさが、互いの胸の奥深くまでを満たしていく。

 木漏れ日の中、二人は手を握り合い、差し込む光をいつまでも見上げていた。