昔書いたやつの再掲



主には好いている刀がいると思う。
しかし、俺は主の好いている刀を知らない。



爪紅を見ながらぼんやりと考えた。あ、剥げちゃったところ見っけ、塗り直したいな。
今日は俺の部隊の出陣が無くて、内番も振り当てられていない、遠征も無い。暇だから、こんなことを考えてしまうんだろうな。
考えたって俺のことじゃないからどうにもならないんだけど。

この間の宴会で、俺は早めに寝た。そうしたら、珍しく夜中に主の大声で叩き起こされた。主が大声出すことそのものが滅多にないことだし、大広間から俺の部屋まで聞えたってことは言霊使ったんだと思う。本当に珍しかった。
審神者は皆俺たち刀剣に対して「言霊」で命令することができる。基本的に自分の刀限定にしか使えないけど、政府には契約していない他人の刀にも「言霊」を及ぼすことができる人もいるらしい。まあ主も噂だって言ってたし、俺もその又聞きになるからそれ以上のことは知らない。主はあまり得意じゃない方だって言ってた。使うと、筋肉痛?みたいになるんだって、効力はそんなに弱い方じゃないけどできれば使わないでいたいって。
だからすごく驚いた。何事なのかと思ったし、思わず刀も持っちゃった。内番や寝るときの着物に刀だけ持ったから結構不格好だった気がする。
それで大広間に入ってみれば、みーんな主をぐるっと前のめりで取り囲んでるし、主は自分の手に歯立ててるし、その表情がすごく苦しそうだった。
そりゃあそうだよ、主、噛んじゃだめだよ、痛いよ。俺たち刀と違って切ったり切られたりするための体じゃない。人の子は脆い。
それでもやめてくれなくてすごく困った。机に書いてくれた内容を見てやっと状況を把握した。

俺たちのいる本丸、主の作ってくれた本丸には全刀剣がいる訳じゃない。戦況が進むうちにどんどん新しい刀が見つかったけど、俺の主はその全部を手に入れることができなかった。言霊もそうだけど、主はあまり鍛刀も得意じゃない。霊力がごっそり持っていかれる感覚があるらしい。それに加えてそもそもあまり積極的に手に入れようとしなかったこともある。のんびり屋さんなんだよね。将としては少し闘争心が薄いところがあるのはちょっと弱点。今現在、本丸を始めてから新たに発見された刀でうちにいるのは小狐丸、長曾祢虎徹、後藤藤四郎の三振りぐらいだ。
でも、主は俺たちを大切に扱ってくれる。戦いに出して怪我したら手当てしてくれるのは当たり前だけど、日常の本当に小さい怪我や不調でも手入れする。
俺たちは人の肉の身を持ってるけど、本質的には人じゃない。もし深爪しちゃったら、手入れされるまで元の長さには戻らないし、髪を切られても勝手に伸びてはくれない。ま、ほとんど支障はないし、第一日常生活で怪我するような体でもないんだけどね。でも主の髪は勝手に伸びるし爪も伸びる。擦り傷は自然に治る。人は脆いけど、脆いからそういう力を身に着けたんだと思う。俺たちは人から作ってもらったから、人に愛されなきゃ直らない。主は俺たち以上に俺たちに敏感で、些細なことでもすぐに直してくれる。
主の霊力は特別多いわけでも優れて徳が高いわけでもない。審神者たちの会議に護衛として付いていってそう感じた。
でも、やさしい力だと思うんだ。手入れされてると特に強く感じて、温泉に使ってるみたいにほわっと暖かい。夏のように熱い人や雪や氷かと思うような人や、皆それぞれ個性的な霊力を纏う人の中で、ちょっと存在感が薄い、でも傍にいてとても心地いい霊力のひと。
こんな主、逆に嫌いな刀なんかいるかな?まあ確かにちょっと大将としては頼りないところもあるけど、それは俺たちで補って支えられるし、俺たちで補えない…刀の母?ってでも言えばいいのかな、そういうところが一二〇点満点なんだもん、俺は主のこと大好き。

俺の「好き」と誰かの「好き」は意味が違うこともある。
俺は主に人として死んでほしい。人として産まれてきたんだから、その輪の中に居てほしい。
確かに大好きだ、でもだからといってこちら側に引き込みたいかと言われたら断固反対だ。
もし主が、本当の本当に主が望むなら、俺たちの側に来たっていいと思ってる。
もしそれを選んだなら、俺はそれを守りたい。選ばないのなら、望まないのなら、それも守りたい。
主には好いている刀がいる。
どの刀かはよくわからない。主は主として振る舞う責任があるから、誰か特定の刀に対して態度を変えない。
俺たちは主を好いている。
俺の「好き」と同じやつもいるし、俺とは違う「好き」のやつもいる。
主をぐるりと取り囲んだ刀の中には、俺と違う「好き」を持っている刀が多かった。
『じはくざい』、自白剤、酒。
あぁ、と思った。嗚呼。
主も刀も可哀想な空間だった。誰もが心の底から求めて、でも決して求めたものは手に入らないということもまた自覚していた。

神隠し。
政府から何度も注意喚起されることが最も多い事例。
刀剣男子として呼ばれて身体を得たら、一番気を付けなくちゃいけないこと。…きっと一番気を付けているのは主本人だけど。
あの時は、危なかった。
意識的か無意識的か、酒の勢いということで済ませていいものかどうか、あの時主の「魂」を握ろうとした質問も出ていたようだ。
それがだめだということは知識でわかる。でも同時にそれを否定しなかった自分もいたことを肯定しよう。
刀と人は違う。その垣根を越えたいと、越えられぬのなら「超えさせたい」と、そう思った同胞をどうして否定できようか。
俺はしない、酒に酔っても、主が目の前でそのような類の薬を煽ったとしても。だからといって、あの時の彼らを責めることはどうしたってできなかった。愛されたいと欲した心に罪はない。

未婚でなければいけない。尚且つ処女が望ましい。
政府から、「審神者」という職に就くにあたって女の身に求められる条件。
もし男と一緒になりたいのなら、その職を解くと。ただし刀剣男子はそれを除外すると。
もし男性と関係を持ったのなら――命の保証はできないと。その死は刀剣男子からもたらされるかもしれない、もしくは、もっと高位の神の怒りかもしれない、それに関わる一切の事象に政府は関与しないと。そしてそれは刀剣男子であっても同様であると。
これは恐らく他の刀は知らない。主と、俺と、初めて鍛刀でやってきた前田、この一人と二振りだけの秘密。最初に本丸に立ったときにこんのすけが伝えた秘密。
俺が神隠しや魂に他の刀ほど興味が無いのはこれも大きい。きっと前田も同じだ。
このあまりにも弱い存在を守らなければと思った。

でも、何度でも繰り返そう、主は誰かに懸想してしまった。
人間の男なら、そいつを切り捨ててもいい。それで主の死が遠ざかるなら。
でも刀ならそうはいかない。そも、政府も人と刀の恋の行方を把握しきれていないとみえる。触らぬ神になんとやら、で全然調査とかしてないってこんのすけから聞いたからね。


「はぁーっ」
爪紅に手を伸ばす。
ふたを開けて、独特の匂いのする赤いどろどろを塗り広げる。
めんどくさい色々は置いといて、究極、主が幸せならそれでいい。
どの刀なんだろうか。主を幸せにしてくれるなら、俺は喜んでその事実を迎えよう。だって主は俺を愛してくれるから、主が愛する者は俺も愛してあげるんだ。
ふうっと爪に息を吹きかける。
綺麗に塗れた。可愛いって言ってもらえるかな。

**


主には好いている刀がいる。
そして、俺は主の好いている刀を知っている。



部屋で丸窓から庭を眺めながら、思い出すのは先日の宴会だ。
あの後は大変だった。加州による取り調べは明け方まで続いて、特に俺はこってりと絞られた。今はしばらく私室で謹慎を命じられている。
そりゃあそうだ、命に係わるようなものではないが主に一服盛ったのだ。
思わずため息が漏れる。私室に籠りきりでは退屈で死んでしまいそうだ、まあ俺が悪いので自業自得なんだがな!



――俺は主を好いている。

俺は本丸にそう早く来た刀ではない、でもそんなに遅くもなく、第一部隊の隊員か第二部隊の隊長を務められる程度の練度。
俺より長くいる刀の方が俺より主の色んな姿を見たことだろう。その事実を考えるといつも胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感じがして、頭に血が上った感覚に少しまっすぐ立てなくなって、まるで人のようだと思った。この身体の血肉は鉄からできている造り物なのに、と思うと滑稽だった。

主はいつも気張っている。主であらねばならないという義務感でがんじがらめになって、常に気丈に振る舞っている。
その健気さがかわいいと感じたのが最初だった。おなごが戦場で指揮を執るのはさぞ大変な努力が必要なのだろう、それでいつも肩ひじ張っているのかと思うと、哀れで可愛くて見つめていた。
見つめているうちに一つ気付いたことがある。主は皆から女だし戦馴れしていないからとあれやこれや心配されているが、皆が思うほどひ弱な女ではないし、内に秘めたる激情は誰よりも激しいということ。

近侍を務めるまで、鍛刀は苦手だと言っていたし、そんなに後々発見された刀も増えなかったから、あまり刀を欲しがらない性分なのだと思っていた。
ところがどうだ、その新刀剣が出ると政府から伝えられた地図を眺める主の目の燃えていること!ちらりと炎が見えたのは一瞬だけで、その一瞬が俺の勘違いかと思うほどに気付けば平生の穏やかな目をしていた。
「なあきみ、意外と負けず嫌いだったりするかい?」
そう問うと、驚いた顔をしていた。驚いて、それから少し恥ずかしそうに微笑んで頷いた。「秘密ね」と言った。なんだか意地汚いと思われるのが嫌だからと付け加えて、「やっぱり勝ちたいじゃない。そのために審神者はいるんだから」。その目は再び燃えていて、やはり見間違いではなかった。

俺を墓から掘り出した人間もそんな目をしていたのだろうか、あの欲深い人間と、同じ目なのだろうか。
嫌だと普通思うはずだ、だって俺の安寧を奪った者と同じ目を、俺が赦すはずがなかった。だってそうだろう、誰が考えたってそうなるはずだ。
いや同じではない。断じて同じなどではない。
あれは物欲に濡れた目ではない。欲は欲でも、あれは勝利を欲する目だ。勝ちたくて勝ちたくて、貪欲に勝ちを求める目だ。
勝つために今いる出来る限りの刀を丁寧に扱い、粘り強く育てる人間だ。彼女は優しさだけで俺たちに細やかに接しているわけではなかったんだと独り合点した。勝つため、という一つの目的。物欲が隠し切れぬ程度の人間であれば俺や三日月、鶯丸などといった世間では「レア太刀」と呼ばれている刀を前線に送り出さないだろう。戦いに出せば少なからず傷がつく。失えばなかなか手に入らぬという刀をそういう人間はしまい込むだろう、――かつての左文字がそうされたように。それは刀の本懐ではない。短刀も池田屋という新しい戦場が解放される前からずっと強化していた。どんな刀であっても、この戦に勝つために無駄な戦力など一振りも存在しないから。
新しい刀を求めろと政府が命じるのは、戦力を増強するためだ。勝つために必要だと、可能であれば手に入れろという命令だ。

…正直言ってぞくぞくした。俺は鍛刀でやってきた刀だが、一瞬でもあの目を向けてくれただろうか。勝ちたいという、刀にとって最も求められたいその願いを、俺にも燃やしてくれたのかい。
一週間で近侍は変わる。そこからの数日間は、それはそれは食い入るように彼女の顔を見つめていた。その炎が燃えた瞬間を見逃してたまるかと、それをまだ俺しか見ていないという優越感にも浸りながら、一応近侍を努めきって次の刀に交代した。
近侍を降りてからというもの、隙あらば主のことを思わず目で追ってしまっていたものだから、俺が主に何か想っていることに気付いたやつは気付いただろう。主にばれさえしなければいいと思っていたので気にしていなかった。元々主に懸想していた刀がいることもわかっていて、それでも俺は違うと思っていた。あくまで人に造られた刀が、幾年も鉄であった身で、恋がまだわからなかった。できるものならしてみたい、知らないことは知りたいだろう?
そうして眺めてどのくらい経っただろう。数年もそうしていたような気がしたが、そんなに長くはない。恐らく実際には数か月かそこらだ。

きっかけは検非違使による初めての敗北だった。
俺が第一部隊で出陣したときに、初めての検非違使に対してなすすべもなく負けた。すごすごと本丸に敗走してきた俺たちを迎えた主の顔は悲愴に満ちていて、手入れ中もずっと謝っていた。涙こそ見せなかったが、声が震えていた。かの日の炎を垣間見ることは叶わなく、やはり哀れで可愛い人の子だと思って打ち粉を黙ってはたかれていた。
手入れ部屋を出たら夜で、ぼんやりと月を見上げたことを覚えている。あと数日で満月になりそうなそれを眺めていたら、庭を見て回ろうという考えがふと浮かんだ。主の執務部屋の前の、雅な橋がかかったりしているあの庭である。なぜか無性にそこの庭が見たくなったのだ。
外から、夜中なのであまり足音を立てないように外から庭に回り込んでいくと、橋のあたりに人影が見えて驚いた。こんな時間に、いったい誰が、思わず息を潜めた。変な話だ。この本丸内に立っているのなら皆仲間であり、別に立ち話でもなんでもすればいいのに、そのとき俺は気配を消すことを選んだ。
橋のたもとにいたのは主だった。いびつな月の明かりに照らされて、橋に隠れるようにしゃがみ込んで、彼女は泣いていた。息を潜めて、誰にもみつからないように。
離れが主の寝泊まりする部屋なのは知っていた。そこからわざわざ夜風に体を冷やしながら、膝口を握りしめてほろほろと泣いていた。
声をかけてやればよいものを、俺は黙って見ているだけだった。声が出てこなかった。心の臓がどくどくと音を立てて、今日検非違使の槍に刺されたときもこれに近しい様子で血が流れ出たな、と今この場に関係ないことを考えてしまった。
どのくらいそうしていたか、やがて彼女は立ち上がった。頬に涙の痕が見えて、やはり槍に刺されたときのように体躯が痛んだ。大太刀に斬られたときの痛みだったかもしれない。それでも俺は動かず、そのまま気配を消していて、自分に驚いたし面白みさえ感じ始めた。なにを恐れているのか、この体の痛みは、胸の鼓動は、人間の先輩であるきみならわかるのか。
立ち上がった彼女のかんばせは、もう哀れな人の子ではなかった。目にはあの炎が戻っていて、ぎらぎらと光を反射して燃えていた。
さっきまで震えて膝口を握っていた拳で勇ましくぬぐえば、もうそこに残るのは俺の好きな瞳だけだった。

これが恋というものか。あの炎にずっと焦がれていた。

早鐘を打つ胸の答えはそういうことだろう。

やはり棒のごとく突っ立ったままの俺に気付くことなく、彼女は離れに戻っていった。体が動かない分、感情がとめどなくぐるぐると回って、目の前がくらくらした。
人の子は弱い、首などすぐ飛ばせるしそれで死んでしまう。でも、ただの刀だった頃には知らなかった。人の身を得て感情を覚えて、恋を覚えて、初めて身体の自由がままならぬほどの激情に翻弄されるとは。ふらふらとしながらなんとか部屋に帰って、布団には入ったが全く眠れなかった。いつまでも心臓は体中に血を送り続けていた。

次の日から彼女を目で追うことは減った、と思う。皆の前であの感情に体を支配されて常の自分を守っていられる自信がなかった。
泣いていたことはもちろん、あの日庭にいたことすら誰にも言わなかった。聞かれたら庭にいたことぐらいは白状してもいいとは思っていたが、誰にも聞かれなかったのでそのまま黙っている。主は優しく少し気弱ないつもどおりの主だった。
恋というものを理解してから、目の色からなんとなくわかるようになった。好きにも種類があって、それらを観察しては、ほうと関心するのだ。ただの鍛えられた玉鋼であった俺たちが、なんと人間らしくなったのだろうかと。
そのうち、この感情との付き合い方にも慣れてきた。最初人の身を得たときに眠り方や空腹がわからなかったが時間と共に慣れたように、恋情を誤魔化して振る舞うことを覚えた。
なぜ誤魔化し隠さねばならないのだろう。他の刀もそうだが、無意識に恋情を隠してしまうのはなぜなのだろう。俺は消えるのが恐ろしいからだと思っている、少なくとも俺はそれが怖い。恋は斬られたときのように心臓が跳ね、体の自由が利かなくなったりする。それが表に出てしまえば、それを認めてしまえば、それは「体の欠陥」として表れてしまう。欠陥があるのなら、不調があるのなら、「手入れ」されたら消えてなくなってしまうと思う、それが怖い。
主へ、戦の大将へ、我らを顕現した刀の母へ、恋慕するというのは立派な欠陥だ。でも俺はそれが叶うなら、許されるならずっと抱えていたい。きみがゆるしてくれるなら、おれを墓までつれていっておくれ。

いつもどおり出陣を終えた部隊が帰ってきて、遠征部隊も帰ってきて、飯を食べ風呂をもらって寝る。いつもの日常の流れ。
あれから度々俺はあの庭を夜に見に行く。あれ以来彼女が来ることはなかったが、なんとなく無性にあの橋を夜に眺めたくなった。俺は俺自身の産まれ出でるところは見られなかったが、初めて得たあの感情の生まれたところはこうしてみることができるので、こうしてあの赤い小さな橋を眺めるのだ。
その日は月が少し細っていた夜だった。それまでは薄暗い庭を眺めているだけだったが、しばらく彼女が姿を見せなかったことと、月の光があの日よりかすかだったことが俺を大胆にさせて、眺めるだけでなく橋の上に気付けば立っていた。離れを見やれば薄明かりが障子越しに見えて、腕の血の道がうっすらと透ける彼女の柔い腕を思い出した。斬ることは刀の喜びだが、きみを斬ることだけは折れても御免被りたい。背を向けて本丸を見れば、明かりがついている部屋ついていない部屋それぞれが見えて、でもだからといってそれ以上の感情は浮かばなかった。もう寝た刀もいればまだ起きている刀もいるんだな、くらいのものだった。
それだのにそのまま眺めていた。橋の下の造られた川の水音がさらさらと心地よく、この場を離れる理由も一緒に流されてしまった。
どうしようかと本丸を眺めていたら、後ろから主の気配を感じた。どくりと心臓が跳ねた。草を踏みしめてこちらに歩いてくる足音に、思わず背筋に力が入った。
声をかけられる前に振り返ったら、やはり主であった。寝間着姿の彼女を見ると少し胸がざわついたが、それはおくびにも出さずに「きみも散歩かい」なんて白々しいことを言った記憶がある。
とことこと横まで歩いてきて「そんなところ」と返したきみは、俺と同じく本丸を見やった。濡羽色の髪が御簾のごとく横顔を隠して、瞳を見ることは叶わなかった。わざわざのぞき込むわけにもいかないので、俺もならってやはり本丸を見た。
さらさら、さらさら、造り物の川は流れる。
ふと視線を感じた気がした。どうしかしたか、と問おうとして視線を本丸から彼女に移して、そして視線がかち合った。
同じ目をしていた。誰かに恋い焦がれる目、主に懸想する刀たちの目、きっと俺がきみをそっと盗み見るときの目。
そのまま何とか問いかけたが、声はかすれてしまったような気がする。
一瞬焦がれたように見えたきみの目は、なんでもないという言葉と共に逸らされてまた御簾の向こう側に隠れた。

なあ、自惚れちゃいけないか。

流し目でそっと彼女を見た。本丸をそんなに眺めて、散歩に来たのではなかったのか。本当に散歩のためにわざわざ夜半にこんな橋に来たのか。
風が吹いて俺の前髪が翻って、彼女の髪も風に踊った。本丸を見ていたはずの彼女は、俺を見ていた。またぶつかった視線に、一瞬目を見開いて、しばらく彷徨わせて、また本丸に目線は帰っていった。

少し歩くか、それとももう寝るかい、それなら離れまで送っていこう。

気付かないふりをして言葉をかければ、いつもどおり微笑んで、少し庭を回ってから寝ようかな、と返された。
春になれば桜が舞い、夏には深緑が美しく、秋は紅葉が鮮やかに、冬の真白の雪を愛でる、その庭は今は初夏で、青々とした庭を黙って並んで歩いた。きみはいつも刀に気をまわしてあれこれと会話するのに、珍しく沈黙を守っていた。
そのまま離れまで送っていったときに、寝屋であろう部屋の障子が開けっぱなしで、行燈がぽつんと布団の横においてあるところまで見えた。障子を閉める余裕もなく飛び出してきたのか。そういえば、まだ肌寒いというのに何も寝間着に羽織ってはいなかった。散歩のために出てきたと言った割には、もう色々が破綻していた。

部屋に戻って、やはり眠れなかった。布団にも入らず、部屋にあつらえてある丸い窓から星を見ていた。そういえば月の他にも空にはこんなものも浮かんでいたんだなと妙に冷静な気持ちになった。星はちらちらと瞬いて、夜空中に広がっていて、少し目が疲れて眠気をもたらした。

それから朝が来て、夜が来て、それらを繰り返した。
また俺は出陣で怪我をした。そこまで大きい怪我でもなかったので、近侍と部隊長と主が話し合った結果、手入れをさっと挟んでそのままもう一度出陣することになった。
手入れ部屋で俺の本体にぽんぽんと打ち粉をはたく主の手をじっと見ていた。とても刀など持てそうにない手だと思った。あの手の肉が朽ちて骨が顕わになる様子を一瞬想像して、それよりもやはり生きて動く姿の方がふさわしいと思った。
刀の手入れが終わって、俺の体にも打ち粉がはたかれ始めた。背中に絹の感触を感じながら、気付けば俺は振り返ってきみの手を握りこんでいた。
彼女の正座する膝の横に空いた手をついて、顔をぐっとのぞき込んでいた。驚きに見開かれた眼は、いつもより光が目に入ってちらちらと輝いてこの間の星のようだと思った。でも星とは違っていつまでも見ていられそうな輝きだとも感じた。
どうしたの鶴丸、と問いかけられて困った。俺もどうしたものかわからない。そのまま瞳をのぞき込んでいたら、顔ごと伏せられて見えなくなってしまったが、それでもそのまま俺は動けなかった、動かなかった。
握った手の華奢さを感じながら、つむじと睨めっこしていて、耳たぶが赤く染まっているのが見えた。彼女がこんなにしおらしく、女性らしくあることを隠さず振る舞っているところは、そういえば今まで見たことがなかった。
つと上げられた顔は思ったより赤くはなかったが、隠しきれない耳の赤みが可愛らしく、平静を装った表情と不釣り合いでそれもまた愛いと思った。離してと言った声が震えていた。刀たちが相当な酷い怪我を負って帰って来なければ震えない声が、川の流れの音のごとく快く耳を揺らした。背中が薄く粟立ったのは決して悪寒からではない。
すまんと謝って再び背中を向けて、そのまま手入れは何事もなく終わり、俺と主は何事もなかったかのように部屋を出て、またいつもの日常が帰ってきた。

自惚れであってもかまわない。そうであれば手入れで俺のこの欠陥は綺麗さっぱり直されるだけだ。
俺は主を好いている。主もそうであればいいのにとも思っている。
夜の散歩と手入れ部屋でのことから俺は期待してしまった。
主も同じ気持ちであればいいのにと。
刀でありながら人の真似事に溺れてしまった俺はさぞや滑稽だろう。
きみのほんとうのきもちも、胸を斬り開けば入っているのだろうか。

また近侍が回ってきた。近侍の仕事をしている間、必然的に傍仕えすることになるのだが、この間のことなんてまるで何もなかったかのように主は振る舞った。それでもあれらの瞳の色が嘘だったとはとても思えなかった。
近侍の仕事の中には買い出しの手伝いもある。何十振りもいる本丸の足りないものを買いに行くわけで、現代の技術で城下街から距離の離れた本丸に物を輸送できる仕組みがあるらしく、全部の荷物を持つ必要はないのだが、ある程度主は手に持って帰ることを好むし、俺もそれらのいくつかを代わりに持った。買い物をしたっていう感覚が大事なのだという。
正午ごろから二人で足りないものを買いに城下街へ降りた。本丸に必要なものを買ったり、個人的に欲しいものを手に取ったり、それなりに感情を抑えつつも楽しそうにころころ変わる表情を眺めているのは飽きない。
それが、その手に取ったかんざしではなく俺によってもたらされるものであればいいのに。俺だってきみの髪に挿すことは叶わないがその帯に佩いてもらえればそれなりに映えると思うんだが。
俺らしくない、俺らしくない考え方だ。こんな驚きは求めていなかった。
自分は恋などしていないと思っていた時期のことを思い返せば、そのとき主に想いを寄せる刀たちは揃って楽しそうだと思って見ていた。水面に反射する陽光のような、煌めきの眩しく美しい感情だと勝手に解釈していた。だが思っていたよりも重く苦しく、美しさなど微塵もない、泥臭い感情だな。これでも外から見たらやはり水晶のようにみえるのだろうか。
主の歩く日なたが少し目に刺さって痛かったので、薄暗い路地に一瞬目をやった。見た路地にたまたま行李を背負った行商人がいた。
あとはもう、ご存知の通り。



あんな薬に頼るのも、俺らしいからしくないかでいったら、らしくないなと思う。
薬を飲んで驚く主を見る…なるほどそういう意味で飲ませたのであれば驚きを好む俺らしい。

ただ、そんな気持ちで飲ませたわけではないから、やはり俺らしくないとそう思うのだ。

びぃどろの器を持ち上げてやるふりをして薬を仕込んで、何も知らずにそのまま煽ったきみを眺めながら、おれは、きみがおれに懸想していると、もしかしたら白状するんじゃないかと思って見ていた。
敢えて二人きりの時間もある近侍のときではなく、かつ全刀剣がいるときでもなく、この夜も深まった時間の宴会を選んだのは、皆が酒に酔っていて無礼講の場なら言い訳が多くていいだろうと思ったからだ。
周りの刀たちが素直にきみに色々と問いただすのを引いて見ていたのは、その状況を楽しんでいたからじゃない。その喧騒の中で、もしかしたら俺の推察の答えを、その欠片でもいい、くれるんではないかと見ていた。

もし俺の推察が合っていたなら、この「欠陥」が手入れで直されてしまってもいいとさえ思った。一瞬でも、この情念が互いの心に通い合ったなら、その一瞬のために全てを失ってもいい。
あの目の炎を見たときから、刀のときにはなかった体躯の中央で心の臓がずっと焼かれているんだ。その苦しみがきみも同じならとてもしあわせなことだと思う。
すべて俺のせいにしてくれて構わないから、答え合わせをさせてくれ。

でもきみは何も語らなかった。最初こそ動揺して何事か口走っていたが、それっきり口をしっかと押えて何も語らなかった。手に歯を立て始めたときは驚いた、違う、そんな驚きは求めていない、違うんだ。俺の制止も加州の制止もどちらも等しく拒絶して、結局口を割らぬまま寝屋に帰り、おれはこうして謹慎の身だ。



畳にごろりと寝転がる。

大広間を去る前、俺は思わず彼女を呼び止めて本題を――腹の底から求めてやまない真実に触れる問を、口にした。
おおかた自分だろうと、愚かにも期待して。
もし他の刀の名が出たら、俺はどうしていたんだろうか。そこまで考えずに、本当に、心の底から、思わず言葉が零れて止まらなくなった。そういう薬を飲んだのは彼女の方で、その彼女は口を割らなかったのに、飲んでもいない俺がうっかり口を滑らせるとは。
その問いに足を止めて振り返ったとき、主が本丸の休日を決めるときに頼ったとかなんとか言っていた異国の神の存在を信じてやってもいいと思った。

歯が肉を裂いて血が出ていた。ああ、そんなに噛むから、君の虫も殺せぬような手に傷がついてしまった、と悲しく感じる反面、きみの血の匂いに思わず気が昂った。月のものとは違う、きみが自分自身の手で害した結果生まれた血。やはり人の真似事をしても人ではないのだ。そんな俺に懸想されるきみが少し哀れだったが、もうどうにもできなかった。好きという気持ちの殺し方は戦いの中で学べなかった。

唇からうっすらと血を滴らせながら、君は微笑んだ。目にあの炎を浮かべながら、その目でまっすぐ俺を射抜きながら、でも口元はいつもの優しい穏やかな主のままに。
声は聞こえず口元の動きだけが見えた。

目元に手をやって深く呼吸する。駄目だ、思い出すと。
血の匂いと瞳とその言葉。

あれが答えか、なあ、そう取ってもいいのか。
言ったことに気付いていたかどうかも定かではなかった。
なあきみ、ちゃんと言わないと、俺はいいようにとってしまうぞ。


部屋のふすまに近づく足音に耳を澄ます。
寝ころんだまま黙ってその主が通り過ぎるのか、ふすまに手をかけるのか、顔だけ向けて見守る。




果たしてふすまは開かれた。
この本丸唯一の紬を纏える体が鶴丸の部屋の畳に座る。
そういえばもう夜だったな、と体を起こしながら考えた。

今日は望月だった。






「せきにんとってよね」



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