昔書いたやつの再掲
雪が暖かな春の日差しに溶かされ始めた。まだ肌寒いがいずれ陽気な空気に包まれることが簡単に予想できるような季節になった。まだ庭の桜は咲かない。
肌寒いとはいえ陽だまりにじっとしているとじんわりと心地よい暖かさに包まれる。縁側に腰かけて春のうららかな日差しを感じていると廊下の軋む音が近づいてきた。なんとなくそれが誰だか最近わかるようになった。
「主殿、茶はいかがですか。鶯丸が淹れてくれたものです」
お盆にお茶を乗せてやってきたのはやはり蜻蛉切であった。湯飲みを見ると、抹茶ではなく意外にもティーパックの緑茶で少しびっくりした。
「ありがとう、頂きます。…鶯丸も、ティーパックのやつ、飲むんですね…」
「これは手軽に飲めて便利だなと言っておりました」
「そうですね、お手軽…うん、確かに」
会話の流れのまま、自然に彼はすっと隣に腰かけお茶を手渡してくれる。縁側の踏み石には、いつも最低二つはつっかけのような気軽に履けるものを準備しているので彼もそれに足を入れて座った。私にはかなり大きいサンダルだが彼の足にはやや窮屈そうだなと思った。今日のお茶請けは短刀たちが先日大はしゃぎで作っていたクッキーである。
「もう春でございますな」
「そうですね、まだ少し寒いけど。でも、もうすぐ」
「あの桜が咲くのが待ち遠しいですな」
「わかります、毎年綺麗ですから」
他愛無い会話をする私たちの間にふわっと初春の冷たい風が吹いた。お茶が暖かいのと、蜻蛉切がぴったりと身を寄せるように座るので半身だけ涼しいと感じた。冬の匂いから春の匂いに変わったなと思って、やっぱり春はすぐそこまで来ているんだなと改めて感じた。
あの冬の日から数か月経ったのだが、思っていたような事態にはならなかった。まず、想像以上に私の恋情が本丸中に既に知られていたこと、それに対して私の考えていたより気分を害した刀がいなかったこと、そして、話に聞いていたように所謂「繋がった」後に隠される…ということは起こらずこうして茶をすすっていること。気持ちが知られていたのは驚いたし大変恥ずかしいと思った。それでも別にないがしろにされたわけでもなし、仕事に身が入らないというわけでもなし、およそこのような理由で見逃されていたらしい。
その日の朝に赤飯が出たときにはこれは激しい怒りからくる皮肉で、私も遂に切腹か何か責任を取らなければならないのだろうか…と覚悟を決めた。シンプルにお祝いの意味だとわかったときには二重の意味で涙が出た。
隠す隠さないはこれは完全な私の予想なのだが、意志の問題なのだと思っている。私が望むなら、とあの時彼は答えたが、裏を返せば彼はいつでも私を隠そうと思えば隠せるのだという意の返事だった。私の意志に委ねられているようであって実際は彼の気持ちひとつなのだ。まな板の上の鯉ってこんな気分なのかしら、でもこんな呑気に日向ぼっこできる魚類もいるまいと一人でつっこんだ。
売り物と違って一個一個形に個性のあるクッキーを口に運ぶと小麦粉が焼けて出来た固形物が口の中で小気味よく砕けた。しかし粉の状態には戻れずもったりと溶けてそのまま私に飲み込まれた。優しい甘さの菓子はあと小皿の上に二つ残っている。
私が隠されてしまうまであとどれくらい時間が残っているのだろうと思った。どこか海外のお話にあったように、このクッキーが無くなったとき、わたしもいなくなっちゃうのね。随分食い意地の張りそうな主人公だな。つまらない話はお茶と一緒に腹の中に流し込んだ。
お茶を飲む手を降ろすと自然と膝の上に来て、床の上に置くなりしても良かったのだがそのまま膝の上に腕ごと乗っけていた。彼はきちんとお盆の上に湯飲みを戻したらしく、暫くは私が飲まないと踏んだのか私の手から湯飲みをお盆へ拉致していった。拉致から帰ってきた手はそのまま私の指に絡んでくっついた。
冷え性の私と違って暖かい手で、槍を振るうために必要なタコがところどころにあってゴツゴツしていて、厚みや大きさも全く違う手で、私にとってとても好ましい手。そういえば先ほどから会話が止まっている。だからといって無理に話すのも何だか無粋なので彼の手を強めに握り返したり両手で包んだりして遊んでみると、少し指に力が入ったり掌が開いたり反応が返ってくるのがちょっぴり面白かった。早くお茶を飲まないと折角鶯丸が淹れてくれたお茶が冷めてしまうなと思ったけど、色恋に現を抜かす主なのでやめられなかった。
「主殿、茶が冷えてしまいます」
「…あ、ごめんなさい、その」
「いえ、自分は大丈夫ですので。どうぞ」
気にしていませんよと微笑みで返事してくれた彼の差し出すお茶を受け取る。今の自分はかなり浮かれているなと認識した。気持ちが通って、まるで付き合いたてのティーンエイジャーのような、成人してからは「イタイ」と感ぜられても仕方ないような、そういった類の浮かれ方。ある程度冷めてしまったお茶は、速やかに飲み干したいという今の状況にちょうど良かった。いつまで私は女子会に参加できるのか、その線引きを考えるときと同じ頭で、落ち着かなければと思った。今の私は決して諸手を挙げて交際を応援されている訳ではないと思うべきだ。
あくまで「審神者」としての責任をきちんと――いや、ある程度?――果たせていると思われているから見逃してもらっているだけ。
空っぽの湯飲みを眺める。湯飲みが湯飲み足りえるのはこの空洞に液体を入れてこぼさずにいられるからであって、もしヒビや欠けにより液体を空洞の中に湛えておけなくなったらそれは湯飲みではない。少なくとも、それまでの「湯飲み」としての機能を持ったものと認識されない。
私はまだ今までの主として認識されていたい。もう、それが変わってしまっている可能性もあるけど、少なくとも、「審神者」として存在したい。人間は強欲なので変化を恐れる。例えそれが自己責任だったとしても、心の中で恐れるのは自由だと。
「焼き菓子はどうなされますか、茶は飲み切ってしまわれたようですが…」
「あぁ、大丈夫ですよ、食べます」
「そういうことでしたら、一度器を下げて参ります」
「いつもありがとうございます、お願いしてしまってごめんなさい」
「自分が好きでやっていることですので、主殿のお役に立てて光栄です」
ではまた、と言って立ち去る背を見送って、縁側からクッキーの乗った小皿を持って部屋に戻った。彼は槍三振りで一棟のうち、一部屋を自室にしているが、あの日以降出陣などがない日は私の部屋で過ごすようになった。明日は遠征なので恐らく共寝になるだろう。それとなく近侍になる機会も増え先月からはずっと近侍を任せている。ローテーションを組んでいたのだが無しにしたのか、壊れてしまったのか、刀たちから特に言われることがなかったのでそのまま聞けないでいる。クッキーを口に運ぶ。残りあと一つ。最後の一つを食べる。もう皿の上には何もない。歪で可愛らしい形をした小麦食品、また作る機会はあるだろうか、今度は自分も作ってみようか。
クッキーを運んでいた自分の手を見つめる。さっきまで想い人の手で遊んでいた手。あの日から爪を切ったことは何回あっただろう。髪の伸びるのも明らかに遅くなっている。肌荒れは本丸に来てから荒れる頻度が減っていたが、今は常に美容液までしっかりと塗りこんだような美しい肌をしている。そういえば、無駄毛の処理も最近していない。それなのに産毛のようなものしか見当たらない。冬になると乾燥してリップクリームが手放せなかったのに、リップクリームもハンドクリームも今年使っただろうか?爪は何もしていないのにまるでサロンに行った帰りのように桜色に艶めいていた。
確実に、少しずつ、私は人ではなくなっていると思う。
わかっていて、それでもお茶に誘われたらあのように応えるし、共寝を求められたらし応えるし、それ以上の求めにも応えるし、自分からそれらを求めることもあるし、そういう女なので、救えないなあと思う。胎の中に出された分だけ変化が進んでいるような気はしていたのに。
実はもう神隠しは終わっているんじゃないかと馬鹿なことを考えたりもする。言葉から、私はどこか知らない異世界へ連れていかれるものだとばかり思っていたけど、実は変わるのは住環境ではなく自分自身であり、かつての生活、人間の送る普遍的な一般的な生活に戻れなくなることが神隠しなのではないかと。なるほど、男性はわからないが、女性であればこの美しさを失うことは怖かろう。棚ボタ的に受け取った美しさであっても、一度自分のものになったものが失われる恐怖は想像に難くない。
私も怖くないではないが、それ以上に彼を失うことの方が恐ろしいと思う。人を愛していたら、いつか死に別れることは確定事項で、それが私と相手どっちが先かというだけの話だった。しかし彼は、蜻蛉切はどうだろう。彼の死とは本体が折れぬ限り訪れないのではと考えれば、私さえきちんと采配を振るえば死なぬのではないか。存在のアポトーシスの訪れない生物など人の理の中に存在しない。その輪を私は今緩やかに飛び越そうとしている。
彼が死なないのなら、もし私も不死に近づけるのであれば、不遜なことと存じてはおりますがあなたと添い遂げたいと思うのです。
不老不死、人類が追い求め続けてきた夢。それが達成されるかもしれないことに胸が歓喜で震えてもいいものだが、むしろ胸中は静まり返っていて、まるで心臓が止まったかと錯覚するほどの静けさだった。結局のところ不老不死も永遠の美しさも二の次で、私は愚かなので彼と一緒にいる時間の長さが保証されたことのみがきちんと喜びとして捉えられる限界のラインなのだ。そのためなら何を失ったって構わないなどと今時の歌手も歌わなそうなことさえ夢想する。いけない、浮かれてはいけないと何度自戒してもふと思ってしまうので本当に救えない。
畳の上にごろんと寝ころべば、捨て損じた書類を見つけた。毎年来る任意の健康診断書の紙だ。ごく普通の内容なのだが、実は審神者の神隠しの危険度も測ってくれているらしいという噂があって、それで危険だと判断されると政府の方で保護してくれるという話がまことしやかに囁かれている。一体何から測られどういった数値にそれが表されるのか全く分からないし、実際にそれを体感したという話も聞かないので真実のほどは分からない。そのお誘いの紙をもう一度念入りに丸めてしっかりとくず入れに放り込む。蜘蛛の糸は自分から切ってしまった。
そうして、そのまま横になって、廊下の床板の音が徐々に近づいてくるのを黙って聞いていた。むくりと身を起こして、障子が開くのをぼんやりと待った。入って来るはずの日差しが彼の体でほとんど遮られて、私の体はその影にすっかり覆われてしまった。障子はとん、と静かな音を立てて閉められた。鍵をかけられたわけでもないのに、何だかもう出られないような気がして、いつかの夜のことを思い出した。
空になった湯飲みなどを厨に下げながら、途中会う刀との挨拶も忘れず、洗って片付け、また主殿の部屋に戻る。
洗いながら考える。主殿は何を恐れているのだろうかと。
真面目な方なので、きっと自分のような刀とこのような関係になったことによる本丸への影響など考えておられるのだろうと思うが、それは全くの杞憂である。
我々は戦うためにここに呼ばれることを是とし、そのように動いている。そのことについて努力を怠らないのであれば、他に何を誹りを受けることがあるだろうか。彼女はよく戦法を学び、戦について詳しい刀からの話をよく聞き、かつての武将に劣るともそれでも真摯に戦場に向き合っている。我々にとって不足はない。赤飯はそういった意味で炊いたのだが、あまり効果がないと見える。貴女の寝首を掻こうなどと考える者はおりませぬ、
もう仕える主人を失わなくて済むというのに、何故貴女を恨んだり怒ったりするものがおりましょうか。
主殿は自分の体に徐々に起こっていることに気付いておられるだろう。気付いていて、何も知らないふりをしている。それが大変いじらしく可哀想で愛らしいと思う。
自分は、有難いことに周りからの信頼をある程度は得られているという自負がある。それは主殿も勿論そうであり、だからこそあの日行動に移しても必要以上の揉め事にならなかったのだと思っている。自分含め皆の者が常に行動で主殿への忠義を示すように、主殿もいつも我々に対して誠実に相対する、この等価交換に不平を漏らすことがあるだろうか。
この戦いが終わるまでは、と思っていた。しかし、あの夜から歯止めが利かなくなってしまった。口の中で、心の中で、静かに名前を呼ぶ。審神者としての職務に使う名ではなく、彼女が親から授かった名の方を。共寝するようになって思いがけず知ってしまったものだが、主殿の許可なく使うことは絶対にしないと固く決めている。使うのは、本当に隠すときだけだ。
それはこの本丸に背を向けることを意味する。皆の信頼を得て今があるのに、と思うと申し訳ない気持ちもあるが、ではそれで止められるかというと否である。
自分は知ってしまった。
槍として振るわれ、臣下として仕えるだけであったときには知らなかった感情を覚えてしまった。
「この方を自分だけのものにしたい」という感情、独占したいという欲。
恐らく本丸にこの気持ちを知るものはおるまい。いればその刀に斬り捨てられてもおかしくないが、今のところそのような動きはなく、また仮にそうなったとしても黙ってやられる気もない。自分で言うのも可笑しい話だが、忠義心の裏にうまく隠して誤魔化すことが出来ている。唯一気付いているとすれば、主殿ご自身か。村正ももしかすれば気付いているかもしれん、しかしあやつも自分を理解しているのでおいそれと明かすことはないと踏んでいる。
洗い終わって主殿の部屋に向かいながら、ふと大広間を通ろうと思った。特に用があるわけではないが見たくなった。足を運べば非番のものが思い思いに過ごしていて、穏やかな時間が流れていた。少し目が合ったものと話などしてその場を離れた。
そうして、自分が主殿から奪おうとしているのはこの暖かな団らんなのだと強く心に刻んだ。
今であっても徐々に奪っているのだ。それとなく皆が譲った近侍により、普段から自分とばかり過ごしておられる。今の茶だって、鶯丸が淹れたのであれば本人が持っていくところを譲ってもらったのだ。ひとえに、主殿を人ではないものにするために。
神気を注げば段々人ではなくなる。その方法は直に繋がって注ぐというのももちろんあるが、例えば手を握るだとか、隣に寄り添うだとか、食事を共に摂るだとか、そういった日常の些細なことで微々たる変化を起こしていくのは可能であり、体に負担がかからない。主殿は抱かれることを少し躊躇っておられる節があるのは、単純に恥じらっていることに加えてこのこともあるのだろうと思う。しかし、自分と過ごすことそのものを拒否しない限り、侵食は止まらない。
いずれ、髪や目の色に変化が訪れるだろう。文字通り自分色に染まる彼女を想像すると少し胸がざわついた。どの程度色が出るだろうか、目の色は黒が濃いのであまり見えぬかもしれないが、髪の色はそこまででもないので臙脂色がはっきりと出るのではないか。それを見た主殿はどのような反応をするのだろうか……それを見た仲間はどう思うのだろうか。
部屋の前の障子の前に立ち、失礼しますと一声かけて手をかける。開けると、床にぺたんと座布団もなくそのまま座っていた。自分の体で出来た影にすっぽりと収まって、どことなく不安そうな眼差しと目が合った。静かに、外の世界とこの部屋を分断するように、隙間なく障子を閉めて、自分と比べて小さな彼女を胡坐の中に閉じ込めた。棒読みの悲鳴と泣き言を言いながらそっと背中に回される手が温くて心地よかった。自分も腕を回して抱きしめると、すっかり身動きがとれなさそうになった。この檻の中から逃がして差し上げる気持ちが全く無いことを心の中で詫びて、絹のような髪に顔を埋めた。
桜はまだ咲かない。蕾は赤く膨らみ始めている。天気のいい日が続けばじきに咲くであろう。
