「長月さん、だっけ？　夜ちゃんでいい？」
「あ……はい……」
「あはは、そんな緊張しないでよ。ほら、食べ物も飲み物もいっぱいあるから、遠慮しないで？」
　大学に入学して、一週間。私は今、とあるサークルの新入生歓迎会に来ている。
　新入生ガイダンスのために大学に来たとき、上級生の男の人に「新歓の連絡したいから、連絡先教えてよ」と言われ、断りきれずに教えてしまった。そしてお誘いの連絡が来て、それも断りきれずに新歓会場である居酒屋に来てしまい、今に至る、というわけだ。
　私は高校時代、弓道部に所属していて。そこで出会った先輩と、大学に入ったら弓道部に入って、また一緒に弓道をしようと約束していた。だから、このサークルに入るわけにはいかない。だけど……このまま断りきれず、流されて結局入ることになってしまいそう。ああ、どうしよう……。
「夜ちゃん、お酒飲む？　……美味しいの、あるよ？」
「いっ、いえっ、私はまだ、未成年なので……」
　私の隣でニコニコしている男の先輩は、ちょっと頬が赤くなっていた。きっと、酔っているのだろう。
「ええ～？　夜ちゃん、真面目～！　そんなん、ここじゃ誰も気にしてないって」
　周りを見渡すと、私と同じ一年生――とは言っても、私とは違って、キラキラして可愛い子ばかりだけど――も、先輩達に勧められ、お酒を口にしているように見える。
「俺も二年で、未成年だけどさ。全然怒られたこととかないし、大丈夫だって。ね？」
「あっ、その……私は、お酒飲むと、親が心配すると思うので……遠慮しておき、ます」
　勇気を出してそう言うと、先輩はちょっとだけ不機嫌そうな顔をした。ドキッとしたけど、先輩はすぐに笑顔に戻って、またお酒のグラスを煽った。
　……ううう、怖い。早く帰りたい。そう思いつつ、面倒な絡まれ方をしないよう、形式だけでも参加している体を装おうと、近くにあった唐揚げを取り、口に運んだ。お料理は、美味しい……。
　料理が一通りなくなって、この会が終わりに近付いているような雰囲気を感じる。そのことに少しホッとしてそろそろ帰れるかな、なんて思っていると、またさっきの男の先輩が、私に近寄ってきた。
「ねぇ、夜ちゃん」
　……明らかに間合いがおかしい。後退りしようと思ったら、私はその先輩に……押し倒された。
「俺と気持ちいいことしない？」
「ぇ……」
　お酒臭い息が、顔にかかる。本能が彼を拒絶しているのを感じるのに、私は何もすることができない。……恐怖のあまり、体が動かないのだ。
　嫌……誰か助けて……そう思っても、周りは助けてくれるどころか、囃し立てるばかりで。俺らもしよーぜ！　なんて、女の子の体に腕を回している人すらいる。
「大丈夫。……夜ちゃんも、きっと気持ち良くなれるから」
「や……やだっ……！」
　全然、大丈夫じゃない。今すぐにでも逃げ出したいと思うのに、やっぱり体は動かない。おまけに、大きな身体が私に覆いかぶさっていて、身動きを取ることさえ難しい。
　嫌……嫌だ……助けて……。
「はづき……せんぱい……」
　無意識に、大好きな人の名前を呼んでいた。葉月先輩は、いつも困っている私を助けてくれるから。……こんな時間に、こんなところにまで来てくれるわけないって、分かってはいるのだけれど。
　顔が近づいてくる。ああ、もうだめだ。私はこの人にされるがままになるしかないんだ。そう思って、覚悟を決める意味も込めてきゅっと目を閉じる。
　次の瞬間、ものすごい音がしたと思ったら、上から感じていた気配が急になくなった。恐る恐る目を開けると、そこにはさっきまで私に覆いかぶさっていた先輩が、ぶつかった衝撃で机から落下した食器と共に床に転がっている姿があって。
「え……」
　視線を動かすと、そこには……私が無意識に助けを求めた人がいた。
「お楽しみのとこごめんな？　……俺の大事な彼女に手出されたら、流石に黙ってらんねーからさ」
　葉月先輩は私と目が合うなり、にこっと笑いかけてくれた。……大好きな人の優しい笑顔を見ると、こんな状況なのに、ちょっとだけ安心してしまう。
　腰が抜けて動けない私を、葉月先輩が起こしてくれて。先輩はなんとか立ち上がった私を守るように、肩を抱き寄せてくれた。
「夜は絶対弓道部入るって、ずっと前から約束してんの。お前らにはやんねーよ」
　葉月先輩はそう捨て台詞を吐いて、そのまま私を店の外に連れ出してくれた。
「大丈夫？」
　居酒屋から少し歩いたところにある公園のベンチに座るなり、葉月先輩がそう訊いてくれて。彼を心配させたくないから「大丈夫」と答えたかったけれど、さっきのことを思い出すとどうしようもない恐怖が込み上げてきて……私は言葉を発することもなく、ただ泣くことしかできなかった。
「……怖かったな。大丈夫、俺がそばにいるから」
　葉月先輩に胸を貸してもらって、そこでしばらく泣いていた。先輩は何も言わずにただ頭をぽんぽんと撫で続けてくれていて。その手つきの優しさが、私の心を落ち着かせてくれた。
「……葉月先輩、なんで来てくれたんですか？　私、新歓に行くなんて言ってなかったのに」
「……隼から『夜が危ない目にあってるかもしれないよ？』ってメッセが来てさ。あいつが言うんだし、一応……って思って来てみたら、夜が襲われそうになってたってわけ」
　間に合ってよかった。先輩はそう言って、また私を抱きしめてくれる。
「さっきの奴らみたいに、ヤることしか考えてねーやつとかもいるから、ほんと気をつけろよ？」
　葉月先輩のその言葉に「はい」と答えると、彼は安心したように笑って、また私の頭を優しく撫でてくれたのだった。

×××

　翌日。月野学園から私達の大学へ遊びに来たしろちゃんは、葉月先輩から私が襲われそうになったという話を聞くなり、目を吊り上げ、怒りの表情を浮かべた。
「しろちゃん、私より怒ってる。ふふっ」
「夜を泣かせる奴は、許せないもんな～？」
　先輩が言うと、しろちゃんは表情を変えずにこくりと頷く。しろちゃんはぐるぐると短い手を回し、ふんっと鼻を鳴らした。……あの先輩に、やり返すつもり、なのかな？
「……そういうのは俺がやるから、お前はそんな荒っぽいことしなくていーの。それよりも夜のそばで、心を落ち着かせる手伝いでもしてやって？」
　先輩がそう言うと、しろちゃんは素直に頷いて。あの先輩に攻撃するために構えていたのであろう手を大きく広げると、そのまま私にぎゅっと抱きついてきてくれた。……ふわふわで、あったかい。
　足に抱きついていたしろちゃんに目線を合わせるようにしゃがんで、今度は私からふわふわの身体にぎゅっと抱きついた。しろちゃんはよしよし、とでも言うかのように、私の脇腹のあたりをぽんぽんと撫でてくれた。
「えへへ、ありがとう、しろちゃん。元気出た」
　しばらくしろちゃんをぎゅーっと抱きしめたあと、そう言ってふわふわの体から手を離す。しろちゃんはよかった、とでも言いたげににこにこ笑ってくれて。そんな可愛らしい表情を見ていると、また元気が湧いてくるのだった。
　しろちゃんが月野学園へ帰って行った後、私と葉月先輩は二人きりになった。なんとなく先輩からの視線を感じて先輩の方に目をやってみると、先輩は何も言わずに私に近付いてきて。どうしたのかな、なんて思っていると、彼は私の立っている場所のすぐ後ろにあった壁を、手のひらで力強く叩いた。
「昨日あんなことがあったばっかなのに、無防備すぎ。俺だって男だよ。……ちょっとは警戒したら？」
　少しびっくりしたけど、葉月先輩に昨日みたいな嫌なことをされる、とは思わなかった。
「……先輩は、あの人たちみたいにひどいことしないって、知ってますから」
　そう返すと、先輩ははー、と息を吐いて、私をぎゅっと抱きしめてくる。
「大好きな人の前でくらい、無防備になってもいいじゃないですか」
「……他の奴の前でも、無防備なくせに」
「それは……」
　言い返そうとして言葉に詰まったところで、私を抱きしめていた先輩が「ごめん」と呟く。
「俺さ……昨日夜がああいうことされてたの、すげー気に食わなくてさ。ちょっと八つ当たりした。夜は悪くないのにな。ほんと、ごめん」
　葉月先輩がぐりぐりと私の肩に頭を押し付けてきた。ちょっと余裕のない様子の先輩がなんだか愛おしくて、私は彼の頭をぽんぽんと撫でてみる。
「俺さ、夜のこと、本当に好きなんだ。だから、誰にも盗られたくない……」
「葉月先輩……」
　私だって先輩が大好きだし、先輩以外の人のものにはなりたくない。そう言おうと思ったら、どこからか見られている気配を感じて。気になって顔を上げたら、そこにはにこにこ笑顔で口元を押さえているしろちゃんがいた。
「お前、帰ったんじゃなかったのかよ」
　帰ろうとしたらすごい音――多分先輩が壁を叩いた音だろう――が聞こえてきたから、気になって戻ってきたのだそうだ。私が襲われそうになったばかりだから、心配してくれたらしい。
「……いたなら言えよな」
　先輩は一連の流れをしろちゃんに見られていたのが恥ずかしかったみたいだ。ふふっ、可愛い！
　あとはお二人でごゆっくり、と手を振って帰っていったしろちゃんを見送って、私達はまた二人きりになる。
　さっき言いそびれた言葉を先輩に投げかけたら、彼は何も言わずにまた私をぎゅっと抱きしめてくれたのだった。