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ひとりよがりもの

どうぞ勝手をしてください。



 全身が痛い。危機感。瞼をこじ開けた。身をもたげ、ここはどこだ、と見渡した。覚めたばかりの頭が、状況がわからないままに焦りを募らせている。
 何も見えない。
 何も。手をつき、起きあがろうとして思いとどまる。頭上のものを確かめるよう、手を伸ばす。利き手の反対、左を。恐る恐る伸ばした先には何もない。
 それでようやく起き上がる。体の、服の、地面に接していた面が少し湿っている。分厚いコートにまとわりつく、泥の重み。立膝で座し、息をつく。そうして、また周囲を見る。
 視界は黒塗り。
 きん、と耳鳴り。
 空気は揺れない。
 ただ地面と、自らの体の感覚がある。
(俺は)
「死んだのか、エス?」
 エスは声を出した。小さく。名前は思い出せるようだった。耳鳴りの中を探せば、自分の鼓動も鳴っていた。痛みも、あった。打ち身のようだった。そう、何もないわけではないのだ。
 どうやら、
「生きてる!」
 女の声。
 ぱんと緊張が膨れ上がり、エスは感覚を尖らせる。けれど闇はやっぱり闇で、ただ、ほんの少し空気の震えがあった。気配が。音がある。この場に、他者がいる。
「生きてる人間! エス、エスね? 怪我はない?」
 エスは黙って一歩下がる。腰のベルトに提げた筈の、ナイフを探る。柄の感触。次いで、ランプを提げた金具を指先で辿る。しかし、グローブ越しにも鋭利な感触があった。割れた硝子。
 灯りは壊れている。
「怖がらないで。わたしたち、一緒だよ。一緒に落ちてきたみたい」
 微かな音。彼女の、ゆっくりと慎重な足取り。
 少なくとも二本足。
「エス、どこにいる?」
 また、呼びかけ。足音が止まる。
 エスは両手を前に、ゆっくりと歩み出す。闇の中から、闇の中へと進んでゆく。障害物はない。ただ足元はでこぼことした岩場で、不安定だ。少し湿ってもいる。躓かないよう、滑らないよう、一歩一歩、ゆっくりと。
 その声の方へ。
 たぶん彼女も今こうして、両手を前に、一歩一歩、歩いている。
「エス?」
 不安げな声だ、とエスは思った。そうして、口を開いた。
「こっちだ」
 嬉しげに、息を呑む音。「私はこっち!」と、前方から声が返る。一歩、一歩。近づく。近づいてくる。足音が早まって、きっともう目の前にいる。
 手が冷たいものに触れる。
 肌。
 額。
 髪!
 ひゃあ、と驚いた声。構わず軽く触り、形を確かめる。濡れた、それは確かに髪の感触だ。その下の、丸い額も感ぜられる、少し下へ。頬骨から首筋へと辿り降り、両肩に手を乗せた。
「わあ、エスの手だね? 大きい、っていうか、腕長いね? ずるいよ、私まだ届いてないよ」
 呑気な台詞とエスは思ったが、彼女は先ほどまでこの暗闇にひとりだったようなのだ。ようやく現れた、他者の存在に安堵しているのだろう。そしてそれを確かめたくて仕方がないのだ。ぺたぺたと腕、肘の上を探られる感触がある。その感触を辿って手首に触れ、自分の肩へ導く。届きそうにないと気づく。身長差がある。一歩、近づく。すると両肩の上に、小さな手と手が乗る感触があった。
「肩がここ? 背が高いんだねえ、エス」
 驚いたような声がした。
「……まあな」
 こうして近づくと、頭ひとつ分よりさらに下から声がしているようだった。
「いい加減聞きてえんだけど。俺も。名前」
 状況の確認もせずに、先にこんなことを聞く自分も呑気だろうかとエスは思う。この場には二人しかいないのだから、名など、不要ですらあるというのに。
「じゃあ、エヌ!」
「ぜってえ、嘘だろ」
 エスは笑った。呆れてだ。名など、どうせ不要ではあるのだが。
「じゃあエヌ。お前、どうしてここに。落ちてきた、つったな」
 エスは次いで聞いた。お前も、とは言わなかった。名前を誤魔化すような相手に、あまり自分のことを話したくない。これが不要な警戒心であることは、自覚してもいた。落ちてきた以外に、こんなところに居る理由もそうそうない。誤魔化しても意味がない。
 ただ。エスは、この女に、安心したくなかった。
 相手の方は、そんな意図に思い至りもしないようであったが。
「そうなの。探検してたの。そんなに、深入りはしてなかったんだけど。でも」
 肩の上の手のひらに、力がこもる。緊張。
「でも、崩れた、みたい」
 崩れた。崩落した。
 洞窟が、崩落した。浅層に居て、崩落が起き、下層に落ちた。命だけは助かった。そういった事情は、エスと同じらしかった。名前を誤魔化した彼女を、信じるのであれば。しかし、探検。言い訳に使うには、これまた呑気すぎる。
「探検家か?」
「ううん」
 違うだろうな、と思う。素直な疑問を口にする。
「なんでまた、こんなとこに」
「エスこそ!」
 声はむっとしたようだった。面倒だ、とエスは思った。なんでもない疑問を非難と受け取るのはやましい気持ちの表れだ。
「俺は……、仕事」
「エス、探検家?」
「そんなとこ」
 頭の下から、感心したような、ほうという声がした。エスは「探窟は専門じゃない」と付け加えた。
「でもおまえよりは分かってることもある。例えば」
 肩の上の両の手を、手首を、おのれの両手にそれぞれ握る。ゆっくり、降ろす。
「地の底には、怪物もいる。迷い込む人を待ち構えている。人の声やことばを真似て、人を惑わし、誘い込む」
「さ、誘い込んで、どうするの」
 そう尋ねたエヌの声は急に怯えてか細い。掴んだ手首も。
「食われる、で済めば……良い方じゃねえの」
 女の返事がない。どういう沈黙だろうか、とエスは闇に目を凝らす。何も見えない。会話中の沈黙では、言葉以外が物語るものだ。表情、仕草、視線。こんな暗闇の中でさえなければ。
 黙り込む時間がやけに長いように、エスには思われた。しかし、わからない。視覚は今、時を伝えない。一体どれほどの時間が経ったのか、あるいは数秒なのか。永遠にも思われるようなそれが、図星の意味でだけはあってほしくない。捕食の予備動作とか、そんなものがあるかはわからないけれど、それも違っていてほしい。
 何か動きはないか。
 エスは掴んだ手首に注意を凝らす。そして、それが脈打っていることに気がついた。
 それを数えることができるということにも。
 トクトクと早い鼓動を数える。永遠にも思われたそれは、しかしたった十数秒の沈黙だった。エスはそれを破る。
「俺がそれだったかもしれないってこったよ。違うけどな。運がよかったな。おまえ」
「……そうでも、ないかも」
 運が良かったと、そう、思いたかった。が。ようやく口を開いたエヌの声は暗い。
「私、たぶん、それに遭ってる」
「そう、か」
 不吉な言葉が、なのにエスに安堵をもたらしていた。彼女がなにか言うたびに、時間の経過を感ぜられたからだ。そして安堵と共に、腹の底には震えがあった。
 怪物を想像してでは、なかった。この闇に独り過ごす時間を経験せずに済んだことが、それだけで幸運だったと気がついたからだった。たといそれが、崩落に巻き込まれたもう一人の、目が覚めるまでの短い間としても。いや。
「どのくらい……経った?」
「え?」
「洞窟が崩れて、怪物に遭って、逃げたんだろ。それから、俺に会うまで」
 また沈黙。たぶん、思案。エスは耳を澄ました。もし、万が一。怪物に遭ったのがついさっきだとでも言うのならば、たった今それの呼び声が聞こえたっておかしくはない。
「……わからない」
 聞こえたのは、目の前の女の声だ。エスは頷く。頷いてどうするのだ、と薄ら思う。見えないのに。
「だろう、な」
「時間の感覚が、もう、ないの。結構経った気は、するけど」
「この暗闇なら、分からなくて当然だ。……なんで、『結構経った』と思った?」
 困ったように、少し恥ずかしげに、彼女は答える。
「……さっきよりもお腹がすいたから、だよ」
 む、とエスは唸った。
(少なくとも、俺で腹を満たす気はなさそうだが)
 エスは背中の背嚢を揺する。重みが返る。けれどそれは湿ったような感触で、たぶん殆どを水と泥が占めていた。
 そもそも、エスの滞在はごく短時間の予定だった。それでも、食料は余裕を持って用意していた、が。もう一人のことは、全く想定していない。
 ずっとここに居る訳には、いかない。ここには、飲み水も、食べ物もない。光もない。或いは、空気すらも。
 地上への道を、探さねばならない。
 
 火種は湿ってしまっただろう、とエスは予想していた。しかしそうではなかった。丈夫な背嚢はそれでも一部が破けていて、いくつかの道具はなくなり、代わりに岩やら泥が詰め込まれていた。そして、なくなったもののひとつが、火口箱だった。
 むしろ幸運だった、とエスは思う。もし背と腹が逆だったら、などと想像するのは難しいことではない。腹の中身を失くさずに済んだのだ。
「灯りになるようなものは、落ちた拍子になくなったみてえだ。そっちは」
「わっ、私も……だめそう」
「そうか」
 エスは、肘で相手の体のどこかに触れた。まだ、そこにいる。
「利き手どっちだ」
「み、右だよ」
「俺もだ。悪いがそっちが右を出してくれ。一旦俺が利き手を開ける」
「え、うん、わかった」
「両手を使うときになったら、帯か何かで身体をつなげる。服を掴むんでもいいが。とにかく、はぐれるのを避ける」
「なんで」
 問答無用で手を繋ぐ。反対のグローブは口を使って脱いだ。地下の冷気が、あっという間に指先を冷やす。その指の一本を、エスは咥える。
「ん、……なんでって、次もうまく声だけで合流できるとは限らねえ。幸いここは、入り組んでなかった、……が……」
「そうじゃ……そうじゃなくてね、」
「すまん、ちょっと黙ってくれ」
 唾液のついた指を掲げる。エヌは大人しく黙っている。エスは、目をつむった。視界は全くと言っていいほど変わり映えしなかった。そして聴覚にも、ほとんど何も届かない。その中で集中する。皮膚感覚だけを拾う。
 爪の甲、小指側だった。冷たい空気のなか、一際ひんやりとした感覚。エスはほうと息をついた。
「風だ。空気の通り道がある。出口があるかもしれねえ。ここも、思ったより浅いのかもな」
「本当に!」
「ああ、本当だ」
 女の声が上擦った。エスはグローブを嵌めなおした。
「よかった、エスが来てくれて、ほんとうによかった。すごい。わかるんだね、そんなこと」
「指にツバつけるだけだぞ」
「へえ!」ちゅ、と指を吸う音。
「その指を立てて、ひんやりする方を探るんだ」
「やってみるね、」少しの間。「あんまりわかんない、かも」
「慣れと……高さかもな」
 なるほどぉ、と少し残念そうな声がした。
「……納得行ったら、行くぞ」
「ま、待って。もうひとつ」
 エスは進みだしかけた足を止める。
「……なんで、一緒に行こうとしてくれるの? それも、当然のことみたいに」
「能天気なひとだと思ってたら、案外気にするのか、エヌ」
「の、能天気って」
 私なりに真面目なんだとか、焦っているんだとかエヌが言うのを聞き流しながら、エスは考える。別に、自分の答えは簡単だ。だが、彼女がそう問うに至った理由が読めない。
 どうでもいいことでは、あるが。
「あー、そういや確認とってなかった。お前こそ、いいのか? エヌ。俺と来てくれるのか」
 なんとも言えない、息の漏れるような、変な声がした。エヌの声だ。ややあって返事が返る。
「……それは、もちろんなんだけど」
「よかった、助かる。一緒に、地上に出るぞ」
 返事を待たず、エスは繋いだ手を軽く引く。右手に、右手を。勝手に握手をする。小さなその手は、どうやら少し緊張しているようだった。
「……よろしくね」
「よろしく」
 手と手を繋ぎ直せば、もう強張ってはいなかった。しっかり握り返してくれていた。
「俺が何故、お前と一緒に行きたいか、だが……」
 エスは、鞘ごとのナイフをベルトから外した。金具で留めてあるから、勝手には落ちず、けれど片手でも外せる。使い込んだそれの刃先がどこにあるか、感覚だけで分かる。文字通り、手の延長として機能する。
「一人じゃ気が狂いそうだからだ。単純に」
「……そう、だね」
 延長した感覚でもって、手探りに進む。不安定な足元の一歩先に、奈落がありはしないか。鋭い岩の切先がこちらを向いてはいないか。靴から伝わる感覚と、まだ空気を撫ぜるだけの刃先。
「いま、手探りで進んでるが」
「うん」
「足元の感覚くらいしか入ってくるものがねえ」
「……うん」
「相槌打ってくれるだけで、助かってる。おかげで正気でいられる感じだ」
「わた……私も」
 そこにあることを確かめるように、手が手をきゅっと握る。
「おかしくなりそうだった。エスに会うまで。怖かった。一体どれだけ時間が経ったのかも、わからなくて……」
「……そうだな」
「あの、……怪物も、怖かった……」
「怖い思いをしたな。よく逃げ延びた」
 エスは迷った。それを掘り返すべきなのか。
「……怪物について、聞いても?」
「それは、もちろん」
 返る声は意外にもしっかりとしたものだ。
「情報共有、しないと。思い出したくないとか言ってられない」
「思い出したくはないのな」
「……そりゃあね」苦笑。
「が、話せる範囲でとも言ってられねえ。分かることは全部言え」
「うん、わかってる」
「どういう風に遭遇した」
 すう、と彼女の呼吸音。落ち着けと、自らに言い聞かせるかのように。
「たすけて、たすけて、って……繰り返し言ってた」
「知ってる声だったか」
「ううん」
「喋る内容はそれだけだったか」
「『だれかー』とか、……『いたいよー』、みたい、な……」
「助けを求めるばかりで、具体的に遭難場所を言わない。あと、長い文章ではない」
「そ、そういう感じ」
「そりゃアレだな。オウム」
「おうむ」
 文字通りのおうむ返し。
「オウム。鳥の」
「で、でも、大きかったよ」
 例えだよ、とエスは笑いそうになって、しかし黙り込んだ。足が止まる。背に、エヌの体が軽くぶつかる。あいたっ、と小さな声。エスはそれには応えない。
「大きい、だって? 大きさが分かるほど近づいたのか。この暗闇で」
「え、あ、うん」
「声を聞いて離れたとかじゃなく、そばに寄ったのか。おまえ」
「……た、助けを呼んでるって、思ったから。動ける私が、行かなくちゃって、」
「責めてない」
 焦るエヌの声を遮る。
「責めてないから、落ち着いてくれ。でも、相当近寄ったはずだ。どうやってそこから逃げられたのか、知りたいんだ」
「……私は……」
 エヌは考え込んだようだった。エスは手探りの歩みを再開した。軽く、彼女の手を引いて促す。ゆっくりとついて歩きながら、エヌはまだ考えている。
「思い出せ、ない……」
「……分かる範囲でいい」
「大きいことは、覚えてる、でもなんで大きいと思ったのか……どうやって逃げ延びたのか……」
 記憶に潜り込んでいくように、エヌの足取りが怪しい。繋いだ手からそれが伝わる。
「そもそも、なんで、私……危ないって、気づいたの?」
 とうとう、エヌが立ち止まった。知らず知らずだろう、手にはきつく力が入っていて、エスの手を握りしめていた。エスには少し痛かった。細い指が食い込むのだ。けれど、それを口にはしなかった。
「先に進むぞ」
 とだけ言う。
「別に、今じゃなくていいんだ。もし思い出したら、教えてくれ」
「……うん」
 歩き出す合図の代わりに、軽く手を引く。もう何度目かのやりとりに、エヌは素直に従った。
「それと」とエスは口を開く。
「自己紹介しようぜ」
「へ?」
「別に大したことは聞かねえよ。本名は? とかな」
 少しずつ、エヌの沈黙の意味がとれるようになる。なんとなく、手の緊張とかから。これはきっと、気まずく思っている。エスは何気ない調子で続ける。
「エヌの目の色は?」
「目の、色?」
「や、だって見えねえから」
 たしかに、と。なんだか感心したような声は、もう元の調子に戻っている。
「変な感じ。普段目の色の話なんてしないから」
「見えてりゃ、そりゃな。で、何色?」
「ええっと、ブラウンだよ。うすめ。少しミルク垂らしたお茶くらい」
「そいつは少しの基準によるな」
 そうだね、と軽く笑い声。
「エスは?」
「緑がかった、や、青味がかった緑……。逆かね? わからん」
「この辺じゃ珍しい色だね。だから、訊かれても、私はもっと分かんないよ」
 エヌが、こんどははっきりと笑う。
「ふふ、どんなだっけ、青……緑。なんだか、思い浮かべようとしても、ぼんやりしてる。ずっと暗闇ばっかり見てるから」
「にしたって忘れっぽすぎね?」
「うーん、反論できないね」
 くすくす、とエヌが笑う。
「地上で、答え合わせだね」
「……そうだな」
 エスもほほえんだ。
「ねぇ、肌の色は?」
 楽しくなったようで、エヌが続けて問う。
「あー、白い方だな」
「へえ。日焼けしない方? 私は、今は結構日に焼けちゃってるんだ」
「へえ。茶に例えるとどんくらい」
 そう返してから、エスは違和感を憶えた。
 日焼け?
 見えなくとも、間違えようがない。自分は今、分厚く重いコートを纏っている。首元までボタンを全て閉めて、それでも地下の冷気が忍び寄る。
 今は冬だ。そのはずだ。北部森林地帯の、長く暗く、厳しい冬。日がな一日外にいたとしても、日焼けなどしようもない。
「んー。少しミルクたらしたお茶くらい?」
 そして能天気に答える彼女は、探検とやらでこの洞窟に来たと言う。こんな冬に。
 冬物の厚いグローブ越し、繋いだ手が素手だと、エスは今更に気がついた。
「寒くないか」
「じゃあ髪は」
 二人の言葉が重なる。
「さ、寒くないよ? 急だね?」
「……ならいい。あと、茶髪」
「あ、私も!」
「見えねえと、こんくらいかね」
「そうだね。エスの顔、想像しようにも材料が足りないかなあ」
「……そうだな……」
 明るく話す声にも、寒がる様子はない。違和感で上の空になりかける。意識を引き戻す。岩場、がたついた足元へと。一歩先が段差でも、平坦な道でも、あるいは崖だとしても。その違いを伝える視覚は、今はないのだ。
 からん。
 その足元から、異質な音が鳴った。今までの岩場とは明らかに違う、軽く硬い音。何かつま先で蹴ったらしかった。彼女にもその異質さは伝わったようだった。
「な、なんの音かな」
「屈むぞ」
「うん」
 声をかけ、エスはかがみ込む。手を繋いだままのエヌも、合わせてかがんだ気配がする。エスはナイフの鞘の先で、それを探った。軽い土が上にかかっているのをのける。かろり、からり。軽いそれが、転がされて音を立てる。
 その音にエスは覚えがある。
「生き物じゃなさそうだ。手に取ってみる」
「だ、大丈夫かな」
「確かめたいことがある」
 ナイフをベルトに差し、手でそれを引き寄せた。軽さの割に、大きさがある。長い。硬い。乾いている。感触だけで形を探る。先端はごつごつとした歪な球状で、そこから真っ直ぐに円柱状に伸びている、これは。
「……骨だ」
「ほね」
「大型の生き物。音からして他にもある。他の部位も確認したい」
「ひえ」
「両手使いたい。服掴んどけ」
「はひ」
 驚きのあまり、だろうか。簡単なことしか喋らなくなったエヌの右手を引いて、自分の上着を掴むよう促す。膝をつき、両手で、手探りで、骨を探す。探り当てては、引き寄せ、形を探る。
「頭蓋骨のかたち……歯も……。人骨、だと思う」
「ほ、ほんとに?」
「手探りだから自信はねえ。自分で触ってみるか?」
 彼女はそうした。背中越し、手を伸ばす気配。エヌが怖がりだとばかり思っていたエスは、骨を手渡しつつ驚いていた。
「りょ、両手、使うから……服、掴んどいて、ね」
 返事の代わりに、エスは彼女の服の裾を探り当てて掴む。
 薄いシャツ一枚。
「他にもありそう?」
「少し待て」
 エスはまた手探りに骨をかき集める。埋まっていれば掘り出し、手渡して、待つ。エヌは慎重に骨をたしかめている様子でいる。
「人じゃ、ない、と思う」
 やがてエヌはそう言った。迷いながらも、確証を得た、芯のある声だった。
「……なぜ」
「頭蓋骨しか、ひとに似てない」
 む、とエスは唸った。
「判別つくのか」
「つ、つくよ。ちなみに、頭蓋骨もよくよく触ると結構違うよ。顎周りはなんだか似てるけど」
「やけに自信がある」
「あの、……将来は、動物のお医者さんになりたくて。まだ、勉強中だけど」
 小さな声でエヌが言う。
「……そいつは、すごい」
「う、うん。手探りだし、骨もバラバラだから、断言はできないんだけど。この骨格は、鳥っぽい……と、思う。完全に鳥類でもない感じだから、魔獣とかかも。おそらく、くちばしは壊れてて……残ってる根本が、ヒトの前歯にちょっと似てる、かな」
「コレが鳥とすると、相当デカいぜ。人と同じくらいの頭の大きさってことになる。魔物とすれば不思議はないが」
「そ、そうなの。かなり大きい。……あと、これだけ頭骨が……顎周りが人に似てると……これは、思いつきなんだけど……」
 その、と彼女は自信なさげに言葉を濁した。
「言うだけ言ってみろ」
「……おっきいオウムかも」
 エスは身じろぎした。足元の骨がからりと鳴る。
「ひとの声を真似る……大型の。ひょっとすると、肉食の生き物?」
「……うん」
 今さっき間違えた判断をしたように、エスはけして骨について詳しくはない。
 だが。この閉ざされた環境で、白骨化にかかる年月はけして短くない。何年、あるいは何十年。そのくらいは、想像できていた。
「さっきから、ここには生き物の気配が全くない。……こんな大型の生き物が、こんなに餌の貧相な場所で世代を重ねると思うか?」
「た、たぶん、それはないと思う。ここには、迷い込んだんじゃないかな」
「俺もそう思ってる」
 さっきエヌを襲ったという怪物と同種、かもしれないもの。それが今、目の前で骨になって転がっている。
 とんだ偶然もあったものだ。
 エスは、女がまだ隣にいることを確認した。掴んだシャツは薄すぎて、分厚いグローブを嵌めた手ではすり抜けてしまいそうだった。
「そろそろ行こう。手を繋ぐぞ」
「……うん」
 小さな手でも、素手でも、手を繋いでいる方が、まだましだった。
「大型の生き物が迷い込めるくらいには、ここは地上に近いのかもしれねえ。何せ俺もお前も生きてるしな」
「生きてるし?」
「めちゃめちゃな距離を落ちてきたわけじゃないはずだ」
「たしかにっ。うん、たしかに!」
 明るい声。少し力を取り戻したような彼女の手を、エスははじめて、しっかりと握り返した。立ち上がる。どちらともなく。
「腹は減ってないか」
「大丈夫、不思議とね」
「あー、興奮状態かもな。なんかの拍子に、調子が落ちるかもしれねえ。ガクッって行くぞそういう時は。こいつだけ口に入れとけ」
 コートのポケットの中、飴入れは無事だ。それを後ろのひとに押し付ける。そしてまた、ナイフを片手に慎重に進んでいく。エスは、かろかろと飴玉を舐める音を聞いた。
「ありがと。おいし。なんか、甘いの、すごく久しぶりな気がする。ねえ、これ何味?」
「わかんねえの?」
「わかる?」
 繋いだ手から、肘へ肩へ、首筋から口許へ。エヌの手が体を辿る。唇を探り当てた指先には、飴玉がひとつ。エスは何かひとつ小言でも言うべきだろうかと思い、しかし何も言わずに口で受け取った。受け取ってからでも遅くはない。
「手探りに遠慮がなくなってきたな」
「へ? あ! ご、ごめん」
「別に、こういう時だから。飴、確かにわかんねえ、何味だろな。何種類かは入ってたはずだが」
「で、でしょ。色、分かんないからかな」
「かもな。舐め終わるまでに地上に出られたら、答え合わせできるかね。急ぐか」
「え! 間に合うかな」
 冗談に本気で返されたようで、エスはふは、と息を漏らして笑った。
「そりゃ安全第一だ。急ぎゃしねえよ。もしほんとに間に合うんなら万々歳だけどよ……、段差ある、気をつけろ」
「ありがと。あ、待って、これあげる」
「食いもん?」
「食べられなくはないんじゃない?」
 また肘から体を辿り、エヌの手が何かを差し出す。受け取る。軽く、軽いわりに長く、覚えのある感触の、
「骨じゃねえか! さっきの!」
「これだけ長ければ杖代わりに使えない?」
「確かに手探りよりいいけどよ。食わねえよ。犬かよ」
 エスは顔が見えないのをいいことに口をへの字にした。このエヌという女が、臆病なんだか大胆なんだかいよいよ分からない。
 しかし確かに、手探りよりはずっとよかった。ナイフはベルトに引っかけ直し、骨の杖を使う。これで少なくとも、前方の崖になら気がつくことができる。段差を杖で辿り、乗り越え、少なくとも摺り足よりは早く歩ける。
 ブーツが伝える感触は、ほんの少し上り坂になっている。
「登りだな。このまま地上に繋がったりしてな」
「だといいな。きっとそうだよ」
 エスはもう一度指を舐めた。風はまだ通っている。足場はじわりと上向きになってゆく。きっと、このまま、地上へ。そうであってほしいと祈る。
 
 歩くペースは、摺り足の時よりはずっと速く、けれどただ歩むのよりはゆっくりとしたものだ。じりじりとした上り坂も、けして体力をひどく奪うほどのものではない。ただエスは、握った手が緩む感じや、少し荒くなってゆく呼吸音を感じていた。
「腹、減ってないか」
「そ、」ヒュウ、と呼吸音。「そんなに」
「喉は」
「……ちょっと、はあ、かわいた」
「休憩にするか」
「で、でもぉ」
 骨の杖と手探りで、壁を探り当てる。「ここ背もたれになりそうだぞ」。エヌを無理やり引っ張って座らせる。エスはその隣、膝の先を触れさせて座り、久々に手と手をほどいた。
「でも、ちょっとでも歩いたほうが……」
 エヌが身を起こす気配が伝わる。だから膝を触れさせておいたのだ。その先、たぶん太ももに手をやって、軽く押さえつける。
「きゃあ」
「失敬。でも大人しく休んでくれよ」
「わ、わかったよ」
「頼むぜ」
 エスは手を離し、背嚢をさぐった。水筒が無事なのは、本当に幸運だった。ごく少量の水を口に含み、口内を湿し、ゆっくりと飲み込む。
「持ってるか? 水筒」
「ん、あるよ」
 がさがさと音がして、彼女も自分の水筒を取り出したようだ。コクリと喉を鳴らす音が聞こえた。
「少し休んだら、行こう。仮眠とってもいいぜ。起こすから」
「ん、いや、寝れる気がしないかな……」
「まあ、だろうな」
 二人して足を投げ出している。左手と右手、左足と右足。それぞれ軽く触れている。
「顔も知らない人と、こんなふうにずっと話してるの、不思議だね」
 ぼんやりとエヌが言う。
「だな。本名も知らねえし。お互い」
「……え、エスは?」
「エスっつのはあだ名みたいなもんだな。普段こっちで通してるから、偽名って訳でもないが」
「そうなんだ……」
 そのエヌの声色がなんだか拗ねているような寂しがるような感じで、エスは少し笑ってしまう。
「そう不満気に言うなよ。お互い様だろ」
「……それは、まあ、そうだけど」
「確かに顔も名前も知らねえな。でも声と手はよく知るようになった。性格も、まあ、まだ、なんとなくだけど」
 エスはほほえむ。
「ホント、なんか、楽観的なとこがすごくいいよ。おまえ。ほんとうに、あそこでおまえに会えてよかったんだよ」
 彼女の、短い沈黙。虚を衝かれたような。
「エス、けっこう、私のこと警戒してたでしょ。……そんなこと言うの、意外」
「なんなら今も警戒してるぜ。おまえ変なとこ多いし」
「ひ、ひどいよ」
「でも、おまえが何者でもいいんだ。構わない。少なくとも、あの場で一人で目覚めるよりかは、ずうっといい」
「……そっか」
「その上、能天気」
「わあ、やっぱりひどいよ」
 ふは、とエスは笑い声を吐き出した。
「私もね、……よかった。この先ずっと、何年も、何十年も、ここに居るんだって思ってた。落ちた時から、ずっと」
「……何年も?」
「つまり、骨になって。あのオウムさんみたいに」
 彼女はそっと息をついた。
「本気でそう思って諦めてたの。エスが私の手を引くまで。私はどっちに進んだらいいかも分からないのに、あなたはあっさり方向を決めて、迷わずに進み出すから……そのとき、ようやく思えたんだ。そうはならないのかも、って」
 『まだ分からないけどな』。少しひねくれたエスは、普段ならそう言っている。普段なら。今は、彼女の希望の話を、黙って聞いている。
「地上に出たら、私の名前を教えるね」
「……名前以外の隠し事は?」
「け、検討します」
「じっくり検討してくれ。うっかり言って後悔でもされたら、俺が傷つく」
「あはは。うん……地上に出る頃には決めとく」
「案外早く着くかもしれないぜ。決める前にな」
「そのときは全部言っちゃお」
「おう、後悔すんなよ」
 立ち上がり、手を繋ぐ。合図はなく、自然と歩き出す。上へ、上へ。
 
 長い坂だった。
「いまね、八百歩め」
「そもそも数え出しがいつだよ」
「てきとう」
「参考にならねえ」
「しかも何度か途中で分かんなくなっちゃった」
「参考に、ならねえ〜」
 だらだらと続く坂に、なんとなく会話の内容も、進む歩みもだらだらとしている。
「……お」
 しかし、エスの手の中、骨の杖に突然の変化がある。上り坂が終わる。平坦な道。
「……平坦な……道、だな?」
「……だね。なんか、ちゃんと、均された道だ」
「驚いた。ひょっとするとどっかの隧道に出たぞ。この辺、あの洞窟の近くだと……?」
 エスは地図を思い浮かべようとする。近くに隧道はなかった、ように思う。
「……多分、旅人さんは知らないような、生活道路みたいな隧道だと思う」
「多いのか、この辺」
「何箇所かだけ、ひっそり使われてるって聞いたことある」
 相変わらず視界は真っ暗だ。しかし、足元は踏み均された路だった。人の生活の、文明の気配がする。そして。
「……風だな」
「……うん」
 頬を、風が撫でていた。
「走るか?」
「な、何も見えないんだよ? 最後こそ慎重に行こうよ」
「そんな長い隧道じゃねえだろ」
「そんな大規模ではないと思うけど、そういう問題じゃないって」
「わかった、抑える」
 歩く。抑えると言っておいて、止めておいて、期待に足が早まっている。二人揃って、知らず知らずに。口数が減る。手と手はかたく握り合っている。新鮮な空気を吸い込めば、へとへとの足を持ち上げられる。
 が。がくん、と。
 エヌがつんのめる。離れかけた手を、腕を、エスは掴んで支えた。
「いっ、たい……」エヌがうめく。
「ここに来て転ぶかよ、慎重に行くんじゃなかったのか」
「ご、ごめん」
「謝んな。俺も足、速めちまったし」
「ううん、ごめん。……足も、くじいちゃったみたいで、痛くて」
「そりゃ不幸中の幸いだ」
 エスは手を伸ばした。
「くじいたのが、最初の方じゃなくてよかった。運んでやるよ。今からならなんとか頑張ってやれる」
「……ごめん」
「いいさ。悩んどきな、俺に何なら教えてもいいかをさ。今のうちにな」
 骨の杖を捨て、エスは両腕に彼女を抱え上げた。やはりシャツ一枚の姿だ。真夏みたいに。
「……エヌ」
「……なに、エス」
 摺り足で進む。じりじりと。
「寒くねえか」
「大丈夫。エスこそ、厚着で暑そう」
「……そうか」
 吹き込む風は、乾いて冷たい。
 隧道もやはり長いように、エスには思われた。そう大規模なものではないとわかってもだ。歩き慣れたエスの体も、いいかげんに苦情を言い出している。苦情であれば良い方で、脚の方はけたたましい悲鳴だったりもする。エスはそれを噛み殺している。腕の中、エヌもそれを察していないわけではないらしくて、無駄口を叩かなくなった。
 手を繋ぐ代わり、コートの生地をかたく握っていた。
 エスは下がってしまう顎を無理に上げて歩いた。だから、それをもろに浴びた。
 光。
 目が眩む。
「……まぶしいな」
「……まぶしいね」
 どちらにしろ見えないのであれば、要領は変わらない。エスは、ゆっくりと進んだ。
「光だね。そとだ」
 エヌが、なんだか呆けたような声で言う。
「……あれ。ねえ、エス、あんなだっけ? 青って」
 真っ白な視界の中、風がどうと吹いた。腕の中のものを吹き飛ばされまいと、エスはかがんでそれらを抱きしめた。
 
 からりかろりと、ひとつ、こぼれ落ちたものがあった。エスはぱっと手を伸ばした。拾う。拾える。手探りでなくとも、その目を使って、いとも簡単に見つけ出すことができる。小さく白いそれを抱え直す。
 そして顔を上げる。曇天だった。雪をもたらす雲が、重く低く垂れ込める。あんなに眩しく感じたのに、目が慣れるとずいぶん暗かった。真昼ではあるようで、この高台から見下ろせる集落の、家々からは炊事の煙が上がっている。
 真っ黒の雲の中に消えてゆく。
 青では全然ない。
「青じゃねえよ、全然。俺の目を見てくれた方が、近い色ではあったんだがな」
 当然返事はない。ひとつ、ため息。どちらかといえば、くだらない独り言を言う自分自身への呆れ。
 腕の中のそれらを、一旦道の脇に下ろす。から、からりと、軽さの割に硬い音。
 骨。
 人骨。
 完全な白骨。
 一体、何年、何十年、地の底に居たのか。
 損傷は激しく、粉々だ。抱え歩くには小さすぎて、たぶん道中でいくらか落としてもいるだろう。道標のパンよろしく。頭骨はかろうじて頭骨とわかる形をしていて、エスはその眼窩を覗き込んで「分かるか?」と話しかけた。
「分かるか? これが……青だか緑だか、みたいな色だよ。俺の眼」
 意味のない独り言。
 ずっとそうして歩きながら喋っていたから、弾みがついて今更黙れない。
「結局名前もその他も全然教えてくれてねえし」
 がんを垂れるように、眼窩と目を合わす。
「俺の顔も確認してねえし。お前の顔も見せてくれねえし」
 はあ、とため息。
「埋葬してやろうにも、埋め直すのも忍びないぜ。全く……」
 苛立っているような台詞も自分に向けたものだ。
 自分のその後など、死者には知りようもない。そのはずだ。どう埋葬しようと、しなかろうと、生きているものの勝手だ。自己満足だ。エスにとっては、そうだ。
 背嚢を下ろす。これが破けたのは幻覚ではなかったらしい。まだ入っていた小石やらをはじき出す。落とした道具は買い直さねば。しかしそれまでは、背嚢の容積に余裕がある。
 骨を両手で掬い、ざらざらとそこに入れていく。
「……俺の故郷では、死者を土に埋めない」
 ざらざら、ざらざら。
「人が死んだら、山の上で、風葬にする。やがて骨になったら、谷底に落とす」
 頭骨を両手で掬い上げる。また、眼窩と目を合わす。
「お前がどう思うかは知らねえ。俺の気分の問題だ。また土の中に埋め直す気にも、ここに野晒しにする気にもなれなくてさ」
 それも背嚢の中へ。蓋を閉める。
「付き合ってもらうぜ、南方山脈。南のが、断然、夏が長い。青がきれいな日が、ずっと続くんだ」
 それは生きるものの勝手だ。
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