花の盛りを過ぎるとも
部屋の中はいつ止まぬとも知れない、静かで単調な雨音で満たされていた。雨雲を透かして地上へと届く光は白く、屋敷の凝った幾何学模様の窓枠のシルエットを影絵のように引き立たせる。
屋敷の主は、そんな早朝の湿っぽい雨模様の、憂鬱で詩的な空気に感じ入ることなく、窓の外の雨雲を恨めしそうに睨み付け、いかにもつまらないといった顔をしてため息を付いた。
「雨、止まないな。」
出窓の傍に置かれた細長いエントランスチェアに座って頬杖をつき、外を眺めるJr.の口から、深く重たいため息と誰に聞かせるともない独り言が漏れた。
天気ばかりは超人でもままならないもの。でも、こんな時に降らなくたって良いのに、とブロッケンJr.は思う。
「あなた?Jr.さん、どちらにー・・・あら。」
軽やかで踊るようなリズムの靴音が、ふと玄関の前で止まる。
「こちらにいらしたのね。」
窓にかじりついて外を見る夫の、十分大きな大人の体格なのにどこか子供っぽい背中を見つけて、ティネケはふわりと軽い足取りで歩み寄った。ブロッケンJr.は振り返りこそしなかったが、腰を浮かせて少し左へと座り直す。そうしてできた右側の隙間と、此処に座れという夫の無言のメッセージに、ティネケはくすりと微笑んで素直に応える。
遠くを見つめるブロッケンjr.の横顔を見上げ、視線の先へと自分の目を滑らせてみれば、庭は白い霧と細い雨の縞模様に満たされていた。今日のベルリンは、街中であってもおそらくこの庭と同じ水彩画のように滲んだ景色なのだろうと思う。
「夕方頃止むそうですよ。夕飯はバルコニーでいただきません?」
今日のために買い込んだサンドイッチ用のパンや野菜、ハム、ヴルスト、チーズといったピクニック用の食材は、まだ包丁を入れることなく冷蔵庫やらパントリーやらに詰め込んである。今日食べてしまわなくてはならないものは無いが、気分だけでもピクニックを、と思って、ティネケは屋外での食事を提案したのだった。
けれど、ブロッケンJr.は下唇をぐいと突き出しへの字に曲げて、ぷいと顔を逸らせた。やはり無言だが、彼の答えがNoであることは確かだ。
ピクニックを予定していた日に雨が降ったから不機嫌になる・・・だなんて、まるで本当の子供のよう。ティネケはいとおしさに胸が一杯になる。
その気持ちのまま、これくらいは許されるかしら、と逞しい腕に頬を寄せて寄りかかると、その腕はするりとティネケの肩を抱いて、ぎゅうと胸へ抱き寄せられた。ティネケはなすがままに目を瞑り、その抱擁に身を任せる。ブロッケンjr.は腕の中に妻を隠すように抱き込んで頭を屈め、妻の肩に鼻先を押しつけて、挽き結んでいた唇をふっと緩ませた。
「桜が無いと意味ねーんだ。」
「お花見、ですものね。」
こくり、と頷く気配を肩で感じて、ティネケは広い背中に精一杯腕を伸ばし、ぽんぽんとあやすように叩く。すると、夫の背中はくすぐったそうにふるふると震え、固い抱擁が解かれた。
自然と視線が合い向き合った彼の表情は、見つけたときよりもずっと柔らかなものになっていて、ティネケも目を細めて笑顔を返す。ブロッケンJr.は自分が子供っぽく拗ねていたことに気付いたらしく、恥ずかしそうに頬を染めて咳払いをした。くすくす、と笑うティネケ。ブロッケンJr.は、笑うなと文句を言いつつ、いつしか堪えきれずに吹き出してしまって、暫くは夫婦二人でくすくす、けらけらと笑い合った。
改めて二人揃って窓の外を眺めると、存外、雨の庭の風景も悪いものではない。モノクロの色合いは変わらないのに、先程感じた重苦しい湿気は逆に、生命に潤いをもたらす瑞々しい空気だと感じられた。
霧で姿は見えないが、どこかで鳥が囀っている。服が濡れる心配の無い鳥や獣や虫ならば、気にせず花を眺めに行けたものを、と人の生活の窮屈さ、滑稽さを思って、ブロッケンJr.はふ、と口の中に溜まっていた鬱憤の詰まった空気のようなものを細く長く吐き出した。
「今日はピクニックには向かないが、読書日和だな。」
「おっしゃるとおりね。」
ブロッケンJr.は立ち上がり、振り返って妻に手を差し伸べた。その手を取って立ち上がるティネケ。二人は寄り添って書庫に続く廊下を歩き始めた。
書庫で本に埋もれながら読んでもよし、気に入った本をリビングや書斎に持ってきて読んでもよし。晴れた日ならバルコニーや庭でパラソルを広げて読んでも良いが、今日は少し無理そうだ。それでも、楽しみ方の選択肢は多すぎるほどある。
二人の歩調を合わせた足音が、静かで穏やかな霧と雨の空気に包まれていく。
◇ ◇
お花見ですものね。
そう、ティネケは言った。これには数日前の夫の、「桜が咲いているから、弁当を持って花見のピクニックをする」という宣言があったからだった。「桜」といっても、まだドイツでは日本でポピュラーなソメイヨシノやヤマザクラは中々見ることができない。今回見に行く予定だったのは、知り合いの農場のさくらんぼやりんごの花で、確かに可憐で美しいが、観賞用の花には少し見劣りするだろう。それでもなお頑なに見に行きたいとブロッケンJr.が言う理由がどこから来たかというと、これまた更に数日遡って、まだブロッケンJr.が日本での超人委員会主催の興業に勤しんでいる間での出来事に由来する。
季節は4月初め。東京は温暖な気候と良い天気に恵まれて、この国の象徴とも呼ぶべき桜の花が、3月末に満開を迎えたばかりだった。
今季の興業も連日満員御礼、慌ただしい毎日は一瞬で過ぎ、今日1日の休みを挟んで、残すところ土日に行う感謝デーと子供向けのふれあいイベントのみとなったこの日、委員長が「天気もいいし花見でもするか。」とぽつりと呟いたのだった。
その一言で花見の席を用意することになった委員会の事務方の苦労は計り知れないが、とはいえ、確かに花見にはおあつらえ向きな、のどかな日ではあったのだ。
そう、ブロッケンJr.は心の中で振り返りながら桜を見上げ、ビールを手酌する。つまみは、と思い辺りを見回すが、働き盛りの食欲旺盛な超人達が集まれば、食べ物は一瞬の内に掃除機のごとく吸い込まれ、オードブルが山積みになっていたはずの大皿も、周りに散らばった袋もすっからかんだった。今頃、ノックあたりが買い出しに奔っているのだろうか。
腹を満たすものは見つかりそうもなく、仕方ないな、と呟いてビールを胃に流し込む。ふと、隣に座っていたテリーマンと目が合った。二人は食いもんなくなっちまったな、と苦笑を交わす。
「そういえばあの記者・・・ナツコさん、だったか。あの人とテリーマンはいつ結婚するんだ?」
それは他愛もない、といっても少し前からずっと気になっていたことだった。
しかしテリーマンにとっては衝撃だったようで、彼は飲みかけていた酒で噎せて、その拍子に持っていたペラペラのプラスチックコップからビールが溢れ、ウォーズマンやジェロニモと何やら話し込んでいるキン肉マンの背中に掛かる。が、その場に居る誰もが気付かなかった。
テリーマンの反応から、何かマズいことでも聞いてしまったと、アルコールが回って働かない頭を総動員して考えようとするブロッケンJr.の肩を、テリーマンの大きな手ががっしりと掴む。
「ブロッケン、聞いてくれるか。」
「お、おう。何だ。」
これはかなり面倒な話になりそうだと思いつつ、鋭いが酔いのせいか焦点の合わない目を仕方なしに見返しながら、ブロッケンJr.は頷いた。
その後軽く10分は長々と苦労話をし始めたテリーマンだったが、彼の言いたかった事は要するに、相手の親が結婚を認めてくれないということらしい。テリーマンの相手、ナツコという娘自身は跳ねっ返りの自由奔放な人柄なのにもかかわらず、彼女の親は、プロレスラーといういつ引退に追い込まれてもおかしくない、明日をも知れない男の元に嫁がせたくないと言っているという。なんだか、その向こうに背中合わせに座っているロビンマスクにも、昔そんな話があったと風の噂で聞いたような気がする。
(そう言い訳してるだけで、本当は超人が怖いだけなんじゃないか?)
そんな言葉がふと頭の隅を過ぎったが、今は言うべきことではないだろうと無言で頷き
ブロッケンJr.は表情を悟られないよう、わざとコップを大胆に仰ぎ、ぐび、と残っていたビールを全部飲み干した。
「器用そうなお前なら、相手の親くらいさらっと上手く説得できちまいそうなのになぁ。意外だぜ。」
「そんなことは無いさ。今までは、腕っ節と金だけでなんでもかんでも解決しようとしてきたんだから。」
ナツコは親の事を打ち明けた時、明るく笑って、仕方ないから駆け落ちしましょうと言ったらしい。だが、テリーマンはあくまで親を説得する道を選んだという。この男らしい選択だ。キン肉マンに出会って変わった後のテリーマンしか知らないブロッケンJr.は、純粋にそう思った。
そんなブロッケンJr.の心の内などつゆ知らず、酒で舌が滑らかになっているテリーマンは、胡座を描いた膝の上に頬杖を突いて彼を指刺した。
「ユーが羨ましいよ。」
「え?」
唐突に思える言葉がテリーマンの口から出て、水を浴びせられたように目を丸くするブロッケンJr.。きょとんとした顔をする年下の後輩レスラーに見返され、テリーマンはふふっと口元を綻ばせた。
「結婚相手さ。親の公認だったんだろ?」
「公認というか・・・。」
「ああ、フィアンセか。最初はお高く止まった貴族達の、愛の無い血筋重視の下らない形式婚だとばかり思い込んでいたが、お前と夫人を見ていると、そんなに悪くないもんだと思えるよ。」
一気に言い切り、テリーマンはコップを煽る。すかさず傍にあったビール瓶を手に取り手酌するが、そこにはコップを満たすに十分な酒は入っておらず、振り返って、「おーい、ビール。」と誰ともなく声を掛ける。テリーマンの呼びかけに気付いたウルフマンが、近くの瓶を手に取り軽く振って中身があることを確かめたあと、彼へと投げ渡した。サンキュー、と受け取るテリーマン。
重い瓶が飛ぶ花見会場など、超人でなくては見られない光景だ。いつの間にか、ブルーシートの周りには瓶が山積みになっていた。周りの客の大部分は人間で、その異様な光景に、驚いたり、苦笑したり、見て見ぬ振りをしたりと、反応は人ぞれぞれだった。
「で、なんだっけ?」
一連のやりとりで、話の流れが途切れてしまった。ブロッケンJr.も、先程の話には返す言葉も無い。ただひたすら家督を継ぐことだけに己の全てを注ぎ込んで来て、当たり前のように幼い頃から妻となる女性が隣に居た自分には、テリーマンやロビンマスクら、超人界の外に居る人間達と家族になる苦悩は分からない。
けれど。
「おこがましい言い方だとは思うが、俺からすればお前らの恋いに燃えてる様子だって、俺には羨ましく見えるぜ。」
「お、なんだ~。規律第一がモットーのブロッケン一族のお坊ちゃんも、恋に興味がある男なんだな。」
「言ってろ、ばーか。」
硬派で朴訥なブロッケンJr.の口から「恋いに燃える」なんて言葉が出てくるのは意外で、テリーマンはにっと歯を見せて笑った。
分からなくもない。彼の人生は、言い方は悪いが親が敷いたレールの上、何もかもお膳立てされたものであっただろうし、恋くらいしたくなっても良いじゃないか。しかし思慮深いテリーマンは、いや、と心の中でかぶりを振る。羨ましいと口にしながら、この優しい男はその言葉を自分事として言っていないように思える。
「お前はそうでも、夫人はそこまで思ってないと思うけどなぁ。」
「それは、・・・周りに恋してるやつが居ないからだろ?」
ブロッケンJr.は寂しげに苦笑して、コップに口を付ける。
「最近、恋愛小説をよく読むようになったから・・・。」
「ユーが!?」
「今の話の流れでそれはねぇよ!ティネケだ、ティネケ。」
話の流れは理解しつつ、ふざけて大袈裟に驚くテリーマンと、これまた相手が分かってからかっていると知りつつ大声で否定するブロッケンJr.。
と、そのブロッケン夫人の名前を聞きつけて、テリーマンの後ろに居たロビンマスクやウォーズマンやジェロニモ、キン肉マンらが振り返り首を伸ばす。
「やいやい、なんの話してんの。ティネケちゃんがどうしたって?お前らついに離婚の危機か?」
「そ・・・!?んなんじゃねぇよ。」
「怪しいな、尋問タイムといこうか」
「ロビンマスクまで!」
「洗いざらいに吐くズラ」
「ジェロニモ!」
暫く、ブロッケンJr.は座の輪の中央に座らされ、質問責めの憂き目に会ったのだった。
ようやく落ち着いて輪の中から抜け出し、ブルーシートの隅で足をシートの外へ投げ出しブロッケンJr.は大きくため息を付く。喋らされたことが尾ひれはひれを付けないことを今は祈りつつ、とりあえず風にそよぐ木々と、その下ではしゃぎ騒ぐ人々の群れを眺めた。
隣には、いつの間にか、これまた静かな方が好きなウォーズマンが座っている。表情の読めない、アイカメラの部分だけがスリット状に切り出されたつるりとしたマスクだが、今の彼はほのぼのと和んでいるように見えた。この男、見かけと控えめな性格に似合わず、強い酒をがぶ飲みするうわばみである。そのことをいつぞやの飲み会の時に知ってから、ブロッケンJr.は無闇にウォーズマンに飲み比べを挑まないことにしている。風流な花見の席などもってのほかである。
「この興業が終われば、みんな一旦帰ることになるな。お前は・・・どうするんだ。」
ブロッケンJr.が話しかけると、ウォーズマンのアイカメラが、チカ、と瞬き、カチカチと小さな機械音が聞こえた。返答を計算しているのだろうか。
「俺は・・・。ロビンのところで少し静養してから、武者修行の旅にでも出ることにするよ。」
「お前まーた武者修行って、行く当てがないとすぐそれだなぁ。前もって言っておくけどよ、行方不明にだけはなるなよ。今回の興業だって、委員長がお前を捕まえるの苦労してたんだから。」
「とはいってもな・・・電波機器は国の奴らに傍受されんとも限らないし、一所には留まれないよ。身を寄せる場所を選ぶにも、慎重にならざるを得んさ。」
「なら、ロビンマスクの家だけじゃなくて、定期的に知り合いの家に立ち寄ればいいじゃないか。それこそ、俺ん家とか。部屋は空いてるぜ。日本なら、掘っ立て小屋だがキン肉ハウスがあるし、アメリカならテリーマン家がある。・・・あ、ラーメンマン家はあいつの古傷のことがあるから止めた方がいいかもだけどな。」
ブロッケンJr.の提案は、ウォーズマンにとって意外で、想像すらしていなかったことらしい。ウォーズマンはブロッケンJr.の方を向いて顔を覗き込んだまま動かず、アイカメラをチカチカと点滅させた。
「ありがとう、ブロッケン。・・・いつか、お前の言葉に甘えることがあるかもしれない。」
ウォーズマンは暫く何事か考えた後、小さく頷いた。
残念ながら彼の瞳から感情までは読み取れなかったが、言葉尻は柔らかく、少なくとも悪印象ではないような気がした。ブロッケンは、表情が乏しくとも愛情の深い友人に、分かってるぜと伝えるように、にっと笑って返した。
「そういうお前は?」
ウォーズマンはブロッケンJr.に尋ね返す。
「俺は当然家に帰るぞ。さっきお前も聞いてただろ。1ヶ月帰ってないんだ。どこか寄り道するには、家を空けてた時間が長すぎる。」
「家へ帰って・・・どうする?ドイツも春で、東京よりは寒いかもしれないが、良い季節だろう。夫人をどこかへ連れて行ってやるのか。」
「・・・あ。」
それは考えていなかった。ブロッケンJr.はウォーズマンの言葉に目を泳がせた。
「そうだな。こういうところに、あいつを連れて行ってやりたい、かな。」
その言葉を聞いて、ウォーズマンは大の男たちが酔いつぶれて転がっている様を見渡した。まだまともに座ってられているのは、ラーメンマンくらいかもしれない。肝心の主催である委員長まで千鳥足だ。誰が場を締めるのだろう。それは考えない方がいいだろう。
ふしゅー・・・と機械の排気音がひとつ。それはだらしない姿の師匠と友人らの姿に呆れた気持ちから漏れたため息のように見えた。
「俺もそういうのは疎い方だが、ブロッケンよ、それはいかがなものか・・・。」
「あ、いやそうじゃない!そうじゃないぞ。」
この酒盛りの場に、というつもりで言った訳ではなかったブロッケンjr.は、手を顔の前で振って否定した。
「そうじゃなくて、こっちさ。」
コップを傾けながら上を指刺すブロッケンJr.の指の先を目で追い、ウォーズマンは合点がいったと頷いた。
そこには、今にも雨あられのように降って落ちてきそうな、咲きこぼれんばかりに花盛りとなった桜の木があった。先の先まで花に埋もれた繊細な枝々が、春の暖かいそよ風にゆらゆらと揺れている。酒も入っているせいか、花の群れが揺れるたびに薄桃色の霞が滲んで、夢の中に居るようにさえ思う。
「そうだな。見事な花だ。」
口の短いウォーズマンの渾身の一言が、全てを表しているようだった。
◇ ◇
「それで、まともだとばかり思っていたラーメンマンが急に立ち上がってな、酔拳をしだして・・・。」
「まあ!」
「ラーメンマンも戦力のハズだったんだがなぁ~。気付かん内にかなり酔ってた。詳しくは知らんが、嬉しいことがあったらしくてさ、酒も手伝って愉快な気分になって、ついはしゃいじまったらしい。」
ティネケはいつも冷静で俯瞰的な物言いをするラーメンマンが、顔を赤くして楽しそうに酔拳に興じる様を思い描いてくすくすと笑う。つられて、そのときの騒ぎを思い出したブロッケンJr.がふふっと吹き出した。
「後は想像の通りだなぁ。ウォーズマンと俺が委員長を叩き起こして、委員会の奴らが動員されてすったもんだ、片付け終わる頃には日が暮れちまって。」
「あらあら、大変でしたのね。」
書庫の柔らかい革張りのソファが、二人が肩を揺らして笑うのに合わせ、きゅっきゅと愛らしい声で鳴く。
思い思いに広げた本を片手に、今読んでいる本の話や、そんな興業の思い出話まで、とりとめもなく、脈絡など考えず、話したいと思うままに話して聞き合う。いつもの夫婦の風景がそこにはあった。
「俺はいつも、お前に何か約束しても叶えられたことがねぇ。」
本に目を落としてページを捲りながら、ブロッケンJr.は、ぽつりと呟いた。
「まあ!そんな言い方をなさって。貴方が約束を破ったことなんて、あったかしら。」
ティネケは本のページを捲る手を止め、まじまじと夫の顔を覗き込んで、花の蕾がほころぶような、あどけなく、幸せそうに微笑んだ。
「確かにお花見はできませんでしたけれど、あなたは同じくらい幸せな時間を私にくださいましたよ。」
「幸せな時間?」
「あなたのお話を聞きながら、ご本を読む時間ですよ。」
「・・・そっか。」
いつもの、妻の優しい心配りの利いた合いの手に口元が緩む。幸せなのは俺の方だ。けれど、本当に彼女は言葉通りに幸せだろうか。嘘をつくような女ではないことは知っているけれど、同時に、どんな悲しみも微笑みに換えてしまう人だと、ブロッケンJr.は己の妻の人柄をそう認識していた。
ティネケの手元には、マノン・レスコーやトスカ、カヴァレリア・ルスティカーナが積んである。だがやはり、ブロッケンJr.は彼女に「恋愛に興味があるのか?」とは聞けなかった。聞きたい気持ちは大いにある。質問は、喉まで出かかっている。けれど、それを聞いたところで何になるだろう。自分が彼女に恋を与えてあげられるのだろうか。答えは否である。
しとしと、しとしと。静寂の空間に、雨音がひっそりと染み渡っていく。広い箱のような書庫が、いつか青い雨の音に満たされるような気がした。
◇ ◇
今日は、そんな昔のことを思い出すような不思議な日だった。
ジェイドを独り立ちさせ、弟子と共に世界を飛び回る日々が終り、ベルリンでの生活が落ち着いてきた頃、唐突にティネケが「桜を見に行きませんか」と言ったのだった。
長い・・・本当に長い時間下を向いて、弟子ができてからは前だけを見据えて生きてきたブロッケンJr.は気付いていなかったが、かつて祖国を東西に分けていた壁の跡地には、壁の崩壊を祝うために日本から来た桜・・・日本人が手ずから植えたものもあると聞く・・・が、30年ほどの月日を経て、美しく見事な公園を作っているとのことだ。
しかし、そう、いつだったか自分が花見をしたいと言い出した時と同じく、タイミング悪く長雨が降ってしまい、雨雲を見上げてため息をつく日々が続いていた。
そして今日やっと、降り続いていた気だるい雨は収まり、雲は晴れた。爽やかな春の風に、早くも初夏の陽気の気配がある。
バスケットの中にはバゲットにハムとチーズと野菜を挟んだサンドイッチと、スライスしただけのパンと、好きな組み合わせで塗るように用意した何種類かのジャムと、小分けに切ったバターを入れた硝子容器と、温かい紅茶を入れた水筒と・・・。
バスケットの蓋を開いて中を確認していたブロッケンJr.は、サンドイッチは手掴みで食べるにしろ、皿やカップ、バターナイフ、ジャム用のスプーンは瓶の数だけ必要だな、と思い、蓋を閉めて食器棚に手を伸ばす。ふと奥の洗面台の方を見ると、鏡の前で、いつになく前髪を入念にチェックするティネケの姿があった。特に茶化しなどはしないが、いくつになっても愛らしい姿を目に焼き付けておくために、暫く手を止め、妻の背中をじっと見つめる。
視線に気付いたティネケが振り返り、両手で顔を覆ってふるふるとかぶりを振った。
「恥ずかしいわ。取り繕っているところを、あまり見つめないでくださいな。」
はにかむような小さな声。小旅行という言葉すら大袈裟な、散歩より少し足を伸ばすだけの半日デートで未だにはしゃぐ愛らしい妻の姿にぎゅっと胸が締め付けられ、ブロッケンJr.はスプーンをテーブルに置いて洗面台の方へと歩いて行き、妻を抱きしめた。
「ほら、言い出しっぺが何をのんびりしてる。早く行くぞ。」
「ええ、分かっておりますとも!」
腕の中に収まる妻の語尾もふわふわと跳ねている。余程、楽しみなのだろう。
今日晴れたから決行しますと宣言したティネケを見て、妻に残念な思いをさせたくないブロッケンjr.は、もう散ってしまった桜を見に行くなんて淋しいだけじゃないかと言ったが、私のために来てほしい、と妻は譲らなかった。
出会った頃の妻はこんなに頑固だっただろうか?ブロッケンJr.は首を捻る。どこかで、夫婦は長く連れ添うとお互い似てくるという話を小耳に挟んだことがあった。俺の頑固が移ったか、とブロッケンJr.は苦笑いを零す。
準備が完了し、いざ出陣。玄関の扉を開けると肌寒い風がすっと脇を通り抜けるが、日差しは柔らかく暖かかった。ウールのケープをふわりと羽織るティネケ。ケープの裾を飾る銀糸の房が揺れ、しゃらしゃらと漣のように光を反射する。
ブロッケンJr.は古い車庫へと足を向け、久しぶりに手に取った鍵の感触を、手のひらを握ったり緩めたりしながら確かめていた。
公園に着くと、見事な桜の樹の群れが二人を出迎える。が、ブロッケンJr.が危惧した通り、花は長雨で粗方散ってしまって、どの木も梢の先には若芽が吹いていた。地面は散った花びらが敷き詰められ、淡い桃色の絨毯になっている。その上を、ティネケは子鹿のように嬉しそうに跳ね回った。
ブロッケンJr.はバスケットとビニールシートを抱え直し、公園をゆっくり眺め回す。平日の昼間の、静かで穏やかな空気が流れていた。
ここに、数年前まで分厚い壁と有刺鉄線がそびえ立っていたなど、にわかに信じられない。
「暖かくて良いピクニック日和です。」
いつの間にかブロッケンJr.の傍らに戻ってきていたティネケが、空を見上げてはしゃいだ声を上げた。そうだな、と返ってきた言葉が嬉しいらしく、ティネケはころころと笑い、ブロッケンJr.の腕にもたれ掛かって肩と頭をすり寄せる。その仕草が若い頃となんら変わらず、ブロッケンJr.は心の奥底をくすぐられたように感じた。
木々の間を歩きながら、梢の先の透けるように淡い緑色の若葉を眺め、ティネケは目を細めた。
「葉が芽吹いていますから、これから一杯日の光を浴びて、来年またいっそう美しく咲くのでしょうね」
「そうだな。」
「来年また、見に来ましょうね。」
「ああ、約束だ。」
二人は暫くのんびりと散歩して、頃合いを見計らってビニールシートを広げてバスケットを開いた。ひなたぼっこをしながら、用意してきた軽食をつまむ。
遠くで微かに、クロウタドリが美しい声で歌っているのが聞こえる。
空腹と他愛ない話が一段落ついた頃、ブロッケンjr.は桜の幹に背中を預けて本を開いた。横のティネケは、静かだと思ったら、此処が家のベッドかというように、すやすやと寝息を立てている。
“これから一杯日の光を浴びて、来年またいっそう美しく咲くのでしょうね”
妻の言葉に、ふと、笑みが溢れた。
若い頃は、桜は見事に咲きそろった盛りだけを見るものだとばかり思っていた。花の盛りを過ぎるとも、いや、花の季節を過ぎればまた芽吹き、来年咲くのだと言って笑い合える。来年見ようと約束できる。そのことに気付くまでに、人はなんと長い時間を費やすのだろうか。
ブロッケンJr.は、頭を己の膝の上に預けてあどけない少女の寝顔で眠る妻の頬を撫でて、そっと膝から彼女の頭を下ろし、寝転がって腕へと乗せる。そうして添い寝の姿勢になって大の字に四肢を広げて目を細めた。
陽の光がそよぐ若葉を透かして、光の雫になって降り注ぐ。瞼を閉じれば昨日の事のようにはっきりと思い出す、あの眩しい日々と変わらず、この世界は光に満ちている。
来年こそは花の盛りに、また二人で此処へ来よう。
屋敷の主は、そんな早朝の湿っぽい雨模様の、憂鬱で詩的な空気に感じ入ることなく、窓の外の雨雲を恨めしそうに睨み付け、いかにもつまらないといった顔をしてため息を付いた。
「雨、止まないな。」
出窓の傍に置かれた細長いエントランスチェアに座って頬杖をつき、外を眺めるJr.の口から、深く重たいため息と誰に聞かせるともない独り言が漏れた。
天気ばかりは超人でもままならないもの。でも、こんな時に降らなくたって良いのに、とブロッケンJr.は思う。
「あなた?Jr.さん、どちらにー・・・あら。」
軽やかで踊るようなリズムの靴音が、ふと玄関の前で止まる。
「こちらにいらしたのね。」
窓にかじりついて外を見る夫の、十分大きな大人の体格なのにどこか子供っぽい背中を見つけて、ティネケはふわりと軽い足取りで歩み寄った。ブロッケンJr.は振り返りこそしなかったが、腰を浮かせて少し左へと座り直す。そうしてできた右側の隙間と、此処に座れという夫の無言のメッセージに、ティネケはくすりと微笑んで素直に応える。
遠くを見つめるブロッケンjr.の横顔を見上げ、視線の先へと自分の目を滑らせてみれば、庭は白い霧と細い雨の縞模様に満たされていた。今日のベルリンは、街中であってもおそらくこの庭と同じ水彩画のように滲んだ景色なのだろうと思う。
「夕方頃止むそうですよ。夕飯はバルコニーでいただきません?」
今日のために買い込んだサンドイッチ用のパンや野菜、ハム、ヴルスト、チーズといったピクニック用の食材は、まだ包丁を入れることなく冷蔵庫やらパントリーやらに詰め込んである。今日食べてしまわなくてはならないものは無いが、気分だけでもピクニックを、と思って、ティネケは屋外での食事を提案したのだった。
けれど、ブロッケンJr.は下唇をぐいと突き出しへの字に曲げて、ぷいと顔を逸らせた。やはり無言だが、彼の答えがNoであることは確かだ。
ピクニックを予定していた日に雨が降ったから不機嫌になる・・・だなんて、まるで本当の子供のよう。ティネケはいとおしさに胸が一杯になる。
その気持ちのまま、これくらいは許されるかしら、と逞しい腕に頬を寄せて寄りかかると、その腕はするりとティネケの肩を抱いて、ぎゅうと胸へ抱き寄せられた。ティネケはなすがままに目を瞑り、その抱擁に身を任せる。ブロッケンjr.は腕の中に妻を隠すように抱き込んで頭を屈め、妻の肩に鼻先を押しつけて、挽き結んでいた唇をふっと緩ませた。
「桜が無いと意味ねーんだ。」
「お花見、ですものね。」
こくり、と頷く気配を肩で感じて、ティネケは広い背中に精一杯腕を伸ばし、ぽんぽんとあやすように叩く。すると、夫の背中はくすぐったそうにふるふると震え、固い抱擁が解かれた。
自然と視線が合い向き合った彼の表情は、見つけたときよりもずっと柔らかなものになっていて、ティネケも目を細めて笑顔を返す。ブロッケンJr.は自分が子供っぽく拗ねていたことに気付いたらしく、恥ずかしそうに頬を染めて咳払いをした。くすくす、と笑うティネケ。ブロッケンJr.は、笑うなと文句を言いつつ、いつしか堪えきれずに吹き出してしまって、暫くは夫婦二人でくすくす、けらけらと笑い合った。
改めて二人揃って窓の外を眺めると、存外、雨の庭の風景も悪いものではない。モノクロの色合いは変わらないのに、先程感じた重苦しい湿気は逆に、生命に潤いをもたらす瑞々しい空気だと感じられた。
霧で姿は見えないが、どこかで鳥が囀っている。服が濡れる心配の無い鳥や獣や虫ならば、気にせず花を眺めに行けたものを、と人の生活の窮屈さ、滑稽さを思って、ブロッケンJr.はふ、と口の中に溜まっていた鬱憤の詰まった空気のようなものを細く長く吐き出した。
「今日はピクニックには向かないが、読書日和だな。」
「おっしゃるとおりね。」
ブロッケンJr.は立ち上がり、振り返って妻に手を差し伸べた。その手を取って立ち上がるティネケ。二人は寄り添って書庫に続く廊下を歩き始めた。
書庫で本に埋もれながら読んでもよし、気に入った本をリビングや書斎に持ってきて読んでもよし。晴れた日ならバルコニーや庭でパラソルを広げて読んでも良いが、今日は少し無理そうだ。それでも、楽しみ方の選択肢は多すぎるほどある。
二人の歩調を合わせた足音が、静かで穏やかな霧と雨の空気に包まれていく。
◇ ◇
お花見ですものね。
そう、ティネケは言った。これには数日前の夫の、「桜が咲いているから、弁当を持って花見のピクニックをする」という宣言があったからだった。「桜」といっても、まだドイツでは日本でポピュラーなソメイヨシノやヤマザクラは中々見ることができない。今回見に行く予定だったのは、知り合いの農場のさくらんぼやりんごの花で、確かに可憐で美しいが、観賞用の花には少し見劣りするだろう。それでもなお頑なに見に行きたいとブロッケンJr.が言う理由がどこから来たかというと、これまた更に数日遡って、まだブロッケンJr.が日本での超人委員会主催の興業に勤しんでいる間での出来事に由来する。
季節は4月初め。東京は温暖な気候と良い天気に恵まれて、この国の象徴とも呼ぶべき桜の花が、3月末に満開を迎えたばかりだった。
今季の興業も連日満員御礼、慌ただしい毎日は一瞬で過ぎ、今日1日の休みを挟んで、残すところ土日に行う感謝デーと子供向けのふれあいイベントのみとなったこの日、委員長が「天気もいいし花見でもするか。」とぽつりと呟いたのだった。
その一言で花見の席を用意することになった委員会の事務方の苦労は計り知れないが、とはいえ、確かに花見にはおあつらえ向きな、のどかな日ではあったのだ。
そう、ブロッケンJr.は心の中で振り返りながら桜を見上げ、ビールを手酌する。つまみは、と思い辺りを見回すが、働き盛りの食欲旺盛な超人達が集まれば、食べ物は一瞬の内に掃除機のごとく吸い込まれ、オードブルが山積みになっていたはずの大皿も、周りに散らばった袋もすっからかんだった。今頃、ノックあたりが買い出しに奔っているのだろうか。
腹を満たすものは見つかりそうもなく、仕方ないな、と呟いてビールを胃に流し込む。ふと、隣に座っていたテリーマンと目が合った。二人は食いもんなくなっちまったな、と苦笑を交わす。
「そういえばあの記者・・・ナツコさん、だったか。あの人とテリーマンはいつ結婚するんだ?」
それは他愛もない、といっても少し前からずっと気になっていたことだった。
しかしテリーマンにとっては衝撃だったようで、彼は飲みかけていた酒で噎せて、その拍子に持っていたペラペラのプラスチックコップからビールが溢れ、ウォーズマンやジェロニモと何やら話し込んでいるキン肉マンの背中に掛かる。が、その場に居る誰もが気付かなかった。
テリーマンの反応から、何かマズいことでも聞いてしまったと、アルコールが回って働かない頭を総動員して考えようとするブロッケンJr.の肩を、テリーマンの大きな手ががっしりと掴む。
「ブロッケン、聞いてくれるか。」
「お、おう。何だ。」
これはかなり面倒な話になりそうだと思いつつ、鋭いが酔いのせいか焦点の合わない目を仕方なしに見返しながら、ブロッケンJr.は頷いた。
その後軽く10分は長々と苦労話をし始めたテリーマンだったが、彼の言いたかった事は要するに、相手の親が結婚を認めてくれないということらしい。テリーマンの相手、ナツコという娘自身は跳ねっ返りの自由奔放な人柄なのにもかかわらず、彼女の親は、プロレスラーといういつ引退に追い込まれてもおかしくない、明日をも知れない男の元に嫁がせたくないと言っているという。なんだか、その向こうに背中合わせに座っているロビンマスクにも、昔そんな話があったと風の噂で聞いたような気がする。
(そう言い訳してるだけで、本当は超人が怖いだけなんじゃないか?)
そんな言葉がふと頭の隅を過ぎったが、今は言うべきことではないだろうと無言で頷き
ブロッケンJr.は表情を悟られないよう、わざとコップを大胆に仰ぎ、ぐび、と残っていたビールを全部飲み干した。
「器用そうなお前なら、相手の親くらいさらっと上手く説得できちまいそうなのになぁ。意外だぜ。」
「そんなことは無いさ。今までは、腕っ節と金だけでなんでもかんでも解決しようとしてきたんだから。」
ナツコは親の事を打ち明けた時、明るく笑って、仕方ないから駆け落ちしましょうと言ったらしい。だが、テリーマンはあくまで親を説得する道を選んだという。この男らしい選択だ。キン肉マンに出会って変わった後のテリーマンしか知らないブロッケンJr.は、純粋にそう思った。
そんなブロッケンJr.の心の内などつゆ知らず、酒で舌が滑らかになっているテリーマンは、胡座を描いた膝の上に頬杖を突いて彼を指刺した。
「ユーが羨ましいよ。」
「え?」
唐突に思える言葉がテリーマンの口から出て、水を浴びせられたように目を丸くするブロッケンJr.。きょとんとした顔をする年下の後輩レスラーに見返され、テリーマンはふふっと口元を綻ばせた。
「結婚相手さ。親の公認だったんだろ?」
「公認というか・・・。」
「ああ、フィアンセか。最初はお高く止まった貴族達の、愛の無い血筋重視の下らない形式婚だとばかり思い込んでいたが、お前と夫人を見ていると、そんなに悪くないもんだと思えるよ。」
一気に言い切り、テリーマンはコップを煽る。すかさず傍にあったビール瓶を手に取り手酌するが、そこにはコップを満たすに十分な酒は入っておらず、振り返って、「おーい、ビール。」と誰ともなく声を掛ける。テリーマンの呼びかけに気付いたウルフマンが、近くの瓶を手に取り軽く振って中身があることを確かめたあと、彼へと投げ渡した。サンキュー、と受け取るテリーマン。
重い瓶が飛ぶ花見会場など、超人でなくては見られない光景だ。いつの間にか、ブルーシートの周りには瓶が山積みになっていた。周りの客の大部分は人間で、その異様な光景に、驚いたり、苦笑したり、見て見ぬ振りをしたりと、反応は人ぞれぞれだった。
「で、なんだっけ?」
一連のやりとりで、話の流れが途切れてしまった。ブロッケンJr.も、先程の話には返す言葉も無い。ただひたすら家督を継ぐことだけに己の全てを注ぎ込んで来て、当たり前のように幼い頃から妻となる女性が隣に居た自分には、テリーマンやロビンマスクら、超人界の外に居る人間達と家族になる苦悩は分からない。
けれど。
「おこがましい言い方だとは思うが、俺からすればお前らの恋いに燃えてる様子だって、俺には羨ましく見えるぜ。」
「お、なんだ~。規律第一がモットーのブロッケン一族のお坊ちゃんも、恋に興味がある男なんだな。」
「言ってろ、ばーか。」
硬派で朴訥なブロッケンJr.の口から「恋いに燃える」なんて言葉が出てくるのは意外で、テリーマンはにっと歯を見せて笑った。
分からなくもない。彼の人生は、言い方は悪いが親が敷いたレールの上、何もかもお膳立てされたものであっただろうし、恋くらいしたくなっても良いじゃないか。しかし思慮深いテリーマンは、いや、と心の中でかぶりを振る。羨ましいと口にしながら、この優しい男はその言葉を自分事として言っていないように思える。
「お前はそうでも、夫人はそこまで思ってないと思うけどなぁ。」
「それは、・・・周りに恋してるやつが居ないからだろ?」
ブロッケンJr.は寂しげに苦笑して、コップに口を付ける。
「最近、恋愛小説をよく読むようになったから・・・。」
「ユーが!?」
「今の話の流れでそれはねぇよ!ティネケだ、ティネケ。」
話の流れは理解しつつ、ふざけて大袈裟に驚くテリーマンと、これまた相手が分かってからかっていると知りつつ大声で否定するブロッケンJr.。
と、そのブロッケン夫人の名前を聞きつけて、テリーマンの後ろに居たロビンマスクやウォーズマンやジェロニモ、キン肉マンらが振り返り首を伸ばす。
「やいやい、なんの話してんの。ティネケちゃんがどうしたって?お前らついに離婚の危機か?」
「そ・・・!?んなんじゃねぇよ。」
「怪しいな、尋問タイムといこうか」
「ロビンマスクまで!」
「洗いざらいに吐くズラ」
「ジェロニモ!」
暫く、ブロッケンJr.は座の輪の中央に座らされ、質問責めの憂き目に会ったのだった。
ようやく落ち着いて輪の中から抜け出し、ブルーシートの隅で足をシートの外へ投げ出しブロッケンJr.は大きくため息を付く。喋らされたことが尾ひれはひれを付けないことを今は祈りつつ、とりあえず風にそよぐ木々と、その下ではしゃぎ騒ぐ人々の群れを眺めた。
隣には、いつの間にか、これまた静かな方が好きなウォーズマンが座っている。表情の読めない、アイカメラの部分だけがスリット状に切り出されたつるりとしたマスクだが、今の彼はほのぼのと和んでいるように見えた。この男、見かけと控えめな性格に似合わず、強い酒をがぶ飲みするうわばみである。そのことをいつぞやの飲み会の時に知ってから、ブロッケンJr.は無闇にウォーズマンに飲み比べを挑まないことにしている。風流な花見の席などもってのほかである。
「この興業が終われば、みんな一旦帰ることになるな。お前は・・・どうするんだ。」
ブロッケンJr.が話しかけると、ウォーズマンのアイカメラが、チカ、と瞬き、カチカチと小さな機械音が聞こえた。返答を計算しているのだろうか。
「俺は・・・。ロビンのところで少し静養してから、武者修行の旅にでも出ることにするよ。」
「お前まーた武者修行って、行く当てがないとすぐそれだなぁ。前もって言っておくけどよ、行方不明にだけはなるなよ。今回の興業だって、委員長がお前を捕まえるの苦労してたんだから。」
「とはいってもな・・・電波機器は国の奴らに傍受されんとも限らないし、一所には留まれないよ。身を寄せる場所を選ぶにも、慎重にならざるを得んさ。」
「なら、ロビンマスクの家だけじゃなくて、定期的に知り合いの家に立ち寄ればいいじゃないか。それこそ、俺ん家とか。部屋は空いてるぜ。日本なら、掘っ立て小屋だがキン肉ハウスがあるし、アメリカならテリーマン家がある。・・・あ、ラーメンマン家はあいつの古傷のことがあるから止めた方がいいかもだけどな。」
ブロッケンJr.の提案は、ウォーズマンにとって意外で、想像すらしていなかったことらしい。ウォーズマンはブロッケンJr.の方を向いて顔を覗き込んだまま動かず、アイカメラをチカチカと点滅させた。
「ありがとう、ブロッケン。・・・いつか、お前の言葉に甘えることがあるかもしれない。」
ウォーズマンは暫く何事か考えた後、小さく頷いた。
残念ながら彼の瞳から感情までは読み取れなかったが、言葉尻は柔らかく、少なくとも悪印象ではないような気がした。ブロッケンは、表情が乏しくとも愛情の深い友人に、分かってるぜと伝えるように、にっと笑って返した。
「そういうお前は?」
ウォーズマンはブロッケンJr.に尋ね返す。
「俺は当然家に帰るぞ。さっきお前も聞いてただろ。1ヶ月帰ってないんだ。どこか寄り道するには、家を空けてた時間が長すぎる。」
「家へ帰って・・・どうする?ドイツも春で、東京よりは寒いかもしれないが、良い季節だろう。夫人をどこかへ連れて行ってやるのか。」
「・・・あ。」
それは考えていなかった。ブロッケンJr.はウォーズマンの言葉に目を泳がせた。
「そうだな。こういうところに、あいつを連れて行ってやりたい、かな。」
その言葉を聞いて、ウォーズマンは大の男たちが酔いつぶれて転がっている様を見渡した。まだまともに座ってられているのは、ラーメンマンくらいかもしれない。肝心の主催である委員長まで千鳥足だ。誰が場を締めるのだろう。それは考えない方がいいだろう。
ふしゅー・・・と機械の排気音がひとつ。それはだらしない姿の師匠と友人らの姿に呆れた気持ちから漏れたため息のように見えた。
「俺もそういうのは疎い方だが、ブロッケンよ、それはいかがなものか・・・。」
「あ、いやそうじゃない!そうじゃないぞ。」
この酒盛りの場に、というつもりで言った訳ではなかったブロッケンjr.は、手を顔の前で振って否定した。
「そうじゃなくて、こっちさ。」
コップを傾けながら上を指刺すブロッケンJr.の指の先を目で追い、ウォーズマンは合点がいったと頷いた。
そこには、今にも雨あられのように降って落ちてきそうな、咲きこぼれんばかりに花盛りとなった桜の木があった。先の先まで花に埋もれた繊細な枝々が、春の暖かいそよ風にゆらゆらと揺れている。酒も入っているせいか、花の群れが揺れるたびに薄桃色の霞が滲んで、夢の中に居るようにさえ思う。
「そうだな。見事な花だ。」
口の短いウォーズマンの渾身の一言が、全てを表しているようだった。
◇ ◇
「それで、まともだとばかり思っていたラーメンマンが急に立ち上がってな、酔拳をしだして・・・。」
「まあ!」
「ラーメンマンも戦力のハズだったんだがなぁ~。気付かん内にかなり酔ってた。詳しくは知らんが、嬉しいことがあったらしくてさ、酒も手伝って愉快な気分になって、ついはしゃいじまったらしい。」
ティネケはいつも冷静で俯瞰的な物言いをするラーメンマンが、顔を赤くして楽しそうに酔拳に興じる様を思い描いてくすくすと笑う。つられて、そのときの騒ぎを思い出したブロッケンJr.がふふっと吹き出した。
「後は想像の通りだなぁ。ウォーズマンと俺が委員長を叩き起こして、委員会の奴らが動員されてすったもんだ、片付け終わる頃には日が暮れちまって。」
「あらあら、大変でしたのね。」
書庫の柔らかい革張りのソファが、二人が肩を揺らして笑うのに合わせ、きゅっきゅと愛らしい声で鳴く。
思い思いに広げた本を片手に、今読んでいる本の話や、そんな興業の思い出話まで、とりとめもなく、脈絡など考えず、話したいと思うままに話して聞き合う。いつもの夫婦の風景がそこにはあった。
「俺はいつも、お前に何か約束しても叶えられたことがねぇ。」
本に目を落としてページを捲りながら、ブロッケンJr.は、ぽつりと呟いた。
「まあ!そんな言い方をなさって。貴方が約束を破ったことなんて、あったかしら。」
ティネケは本のページを捲る手を止め、まじまじと夫の顔を覗き込んで、花の蕾がほころぶような、あどけなく、幸せそうに微笑んだ。
「確かにお花見はできませんでしたけれど、あなたは同じくらい幸せな時間を私にくださいましたよ。」
「幸せな時間?」
「あなたのお話を聞きながら、ご本を読む時間ですよ。」
「・・・そっか。」
いつもの、妻の優しい心配りの利いた合いの手に口元が緩む。幸せなのは俺の方だ。けれど、本当に彼女は言葉通りに幸せだろうか。嘘をつくような女ではないことは知っているけれど、同時に、どんな悲しみも微笑みに換えてしまう人だと、ブロッケンJr.は己の妻の人柄をそう認識していた。
ティネケの手元には、マノン・レスコーやトスカ、カヴァレリア・ルスティカーナが積んである。だがやはり、ブロッケンJr.は彼女に「恋愛に興味があるのか?」とは聞けなかった。聞きたい気持ちは大いにある。質問は、喉まで出かかっている。けれど、それを聞いたところで何になるだろう。自分が彼女に恋を与えてあげられるのだろうか。答えは否である。
しとしと、しとしと。静寂の空間に、雨音がひっそりと染み渡っていく。広い箱のような書庫が、いつか青い雨の音に満たされるような気がした。
◇ ◇
今日は、そんな昔のことを思い出すような不思議な日だった。
ジェイドを独り立ちさせ、弟子と共に世界を飛び回る日々が終り、ベルリンでの生活が落ち着いてきた頃、唐突にティネケが「桜を見に行きませんか」と言ったのだった。
長い・・・本当に長い時間下を向いて、弟子ができてからは前だけを見据えて生きてきたブロッケンJr.は気付いていなかったが、かつて祖国を東西に分けていた壁の跡地には、壁の崩壊を祝うために日本から来た桜・・・日本人が手ずから植えたものもあると聞く・・・が、30年ほどの月日を経て、美しく見事な公園を作っているとのことだ。
しかし、そう、いつだったか自分が花見をしたいと言い出した時と同じく、タイミング悪く長雨が降ってしまい、雨雲を見上げてため息をつく日々が続いていた。
そして今日やっと、降り続いていた気だるい雨は収まり、雲は晴れた。爽やかな春の風に、早くも初夏の陽気の気配がある。
バスケットの中にはバゲットにハムとチーズと野菜を挟んだサンドイッチと、スライスしただけのパンと、好きな組み合わせで塗るように用意した何種類かのジャムと、小分けに切ったバターを入れた硝子容器と、温かい紅茶を入れた水筒と・・・。
バスケットの蓋を開いて中を確認していたブロッケンJr.は、サンドイッチは手掴みで食べるにしろ、皿やカップ、バターナイフ、ジャム用のスプーンは瓶の数だけ必要だな、と思い、蓋を閉めて食器棚に手を伸ばす。ふと奥の洗面台の方を見ると、鏡の前で、いつになく前髪を入念にチェックするティネケの姿があった。特に茶化しなどはしないが、いくつになっても愛らしい姿を目に焼き付けておくために、暫く手を止め、妻の背中をじっと見つめる。
視線に気付いたティネケが振り返り、両手で顔を覆ってふるふるとかぶりを振った。
「恥ずかしいわ。取り繕っているところを、あまり見つめないでくださいな。」
はにかむような小さな声。小旅行という言葉すら大袈裟な、散歩より少し足を伸ばすだけの半日デートで未だにはしゃぐ愛らしい妻の姿にぎゅっと胸が締め付けられ、ブロッケンJr.はスプーンをテーブルに置いて洗面台の方へと歩いて行き、妻を抱きしめた。
「ほら、言い出しっぺが何をのんびりしてる。早く行くぞ。」
「ええ、分かっておりますとも!」
腕の中に収まる妻の語尾もふわふわと跳ねている。余程、楽しみなのだろう。
今日晴れたから決行しますと宣言したティネケを見て、妻に残念な思いをさせたくないブロッケンjr.は、もう散ってしまった桜を見に行くなんて淋しいだけじゃないかと言ったが、私のために来てほしい、と妻は譲らなかった。
出会った頃の妻はこんなに頑固だっただろうか?ブロッケンJr.は首を捻る。どこかで、夫婦は長く連れ添うとお互い似てくるという話を小耳に挟んだことがあった。俺の頑固が移ったか、とブロッケンJr.は苦笑いを零す。
準備が完了し、いざ出陣。玄関の扉を開けると肌寒い風がすっと脇を通り抜けるが、日差しは柔らかく暖かかった。ウールのケープをふわりと羽織るティネケ。ケープの裾を飾る銀糸の房が揺れ、しゃらしゃらと漣のように光を反射する。
ブロッケンJr.は古い車庫へと足を向け、久しぶりに手に取った鍵の感触を、手のひらを握ったり緩めたりしながら確かめていた。
公園に着くと、見事な桜の樹の群れが二人を出迎える。が、ブロッケンJr.が危惧した通り、花は長雨で粗方散ってしまって、どの木も梢の先には若芽が吹いていた。地面は散った花びらが敷き詰められ、淡い桃色の絨毯になっている。その上を、ティネケは子鹿のように嬉しそうに跳ね回った。
ブロッケンJr.はバスケットとビニールシートを抱え直し、公園をゆっくり眺め回す。平日の昼間の、静かで穏やかな空気が流れていた。
ここに、数年前まで分厚い壁と有刺鉄線がそびえ立っていたなど、にわかに信じられない。
「暖かくて良いピクニック日和です。」
いつの間にかブロッケンJr.の傍らに戻ってきていたティネケが、空を見上げてはしゃいだ声を上げた。そうだな、と返ってきた言葉が嬉しいらしく、ティネケはころころと笑い、ブロッケンJr.の腕にもたれ掛かって肩と頭をすり寄せる。その仕草が若い頃となんら変わらず、ブロッケンJr.は心の奥底をくすぐられたように感じた。
木々の間を歩きながら、梢の先の透けるように淡い緑色の若葉を眺め、ティネケは目を細めた。
「葉が芽吹いていますから、これから一杯日の光を浴びて、来年またいっそう美しく咲くのでしょうね」
「そうだな。」
「来年また、見に来ましょうね。」
「ああ、約束だ。」
二人は暫くのんびりと散歩して、頃合いを見計らってビニールシートを広げてバスケットを開いた。ひなたぼっこをしながら、用意してきた軽食をつまむ。
遠くで微かに、クロウタドリが美しい声で歌っているのが聞こえる。
空腹と他愛ない話が一段落ついた頃、ブロッケンjr.は桜の幹に背中を預けて本を開いた。横のティネケは、静かだと思ったら、此処が家のベッドかというように、すやすやと寝息を立てている。
“これから一杯日の光を浴びて、来年またいっそう美しく咲くのでしょうね”
妻の言葉に、ふと、笑みが溢れた。
若い頃は、桜は見事に咲きそろった盛りだけを見るものだとばかり思っていた。花の盛りを過ぎるとも、いや、花の季節を過ぎればまた芽吹き、来年咲くのだと言って笑い合える。来年見ようと約束できる。そのことに気付くまでに、人はなんと長い時間を費やすのだろうか。
ブロッケンJr.は、頭を己の膝の上に預けてあどけない少女の寝顔で眠る妻の頬を撫でて、そっと膝から彼女の頭を下ろし、寝転がって腕へと乗せる。そうして添い寝の姿勢になって大の字に四肢を広げて目を細めた。
陽の光がそよぐ若葉を透かして、光の雫になって降り注ぐ。瞼を閉じれば昨日の事のようにはっきりと思い出す、あの眩しい日々と変わらず、この世界は光に満ちている。
来年こそは花の盛りに、また二人で此処へ来よう。