ベルリン・ブルー

「バッカもーん!」

穏やかな午後の陽気に不釣り合いな怒号は、屋敷の長い廊下の隅々にまで響きそうな音量で響き渡った。
受話器越しに口が飛び出してきそうな大声に、Jr.は厳つい背を震わせる。が、怯んだわけではないと自分に言い聞かせ、すぐに歯をむき出して吠え返した。

「だから俺はまだ若いんだっ!そんなもん必要ねーよ!」
「だーっ!融通が利かん馬鹿だとは分かっとったが、ここまでとは思わなんだ。これは超人委員会の議決を経て決定した命令だ。お前に拒否権はない!」
「人権侵害もいい加減にしろよ!この石頭ジジイ!」
「石頭ジジイだと!こんの世間知らずの若造が!」

そしてまた、本日何度目かの「バカモン」に、電話のある廊下が見える位置のソファで静観に徹していたティネケは、あらまあと苦笑を零し、背を向けている夫に苦笑の気配を悟らせまいと、手元のティーカップを口元に寄せて傾ける。
頑固者同士の譲らぬ火花が散るのをよそに、四角い委員長の顔が真っ赤になっている様子を思い浮かべれば、その横でおろおろと宥めるノック氏の青い顔も自然とセットで付いてくるというもの。
本当にお疲れ様です。そんな届かぬ言葉を心の中で述べ、ふわりと立ち上がり、黒電話を鷲掴む夫の左手に手を添えた。このままでは受話器だけではなく電話本体まで握りつぶされてしまいそう。そうしたら、正義超人ブロッケンJr.に宛てた国やベルリン市行政からの要請の電話が入らなくなってしまい、夫の仕事に支障が出る。
はっとしたように振り返るJr.と目を合わせ、ティネケは微笑む。受話器の向こうでは委員長の長い長いお説教が続いているが、Jr.は口を閉じてティネケへと、捜し物が見つからず困ったような、あるいは追っていた蝶を見失って拗ねたような顔を向けた。

「おい、聞いているのか。ブロッケン。」

さすがに、長い沈黙には気付いたらしい。委員長は一旦言葉を切って、Jr.に問う。Jr.は無言を通したが、見かねたティネケが「あなた。」と、受話器を求めるような仕草をしたのを見て、眉間に皺を寄せ、これはやらんと顎を跳ね上げ顔を逸らし、一言答えた。

「分かったよ。」

ほ?とか、は?とか、電話の向こうで岩のように意見を曲げなかった青年の手のひら返しに動揺を隠せない委員長の声。それに畳みかけるようにして、Jr.は一気にまくし立てる。

「うるせぇ!俺の意見なんて聞く気が無いなら最初っから電話なんて掛けてよこすな!で、そのメディカル・・・なんとかってマシンが届くのは、いつなんだ。とっとと送ってこい。ばーーーーか!!」

がしゃん。受話器を勢いよく置く音。幸運にも受話器が真っ二つに折れることはなかった。本体にもヒビなどの損傷は無し。王位継承戦の際には陶器の置物やら椅子やらが粉々に砕け散ったが、それを考えると、夫は随分自分の怒りを御せるようになったものだと思う。
最後の大層余分な一言は・・・別に勝負をしていた訳では無いけれど・・・単なる負け惜しみであって、今後超人委員会の会合などで会った際にはお小言どころではないのだろうが、ティネケは夫のそんなところが何よりも愛らしいと思って頬を緩ませた。
受話器に指先を置いたまま何事か思案しているJr.より一足先、ティネケはリビングへと再び戻る。

「お茶が冷めてしまいましたから、煎れ直しますわ。」

妻の労りの込められた声色にJr.は俯いていた顔を上げ、言葉に手を引かれるまま、リビングへと足を進めた。
革張りのふっくらとしたソファにどっかりと腰掛け、頭を厚手のマチに預ける。自然と漏れ出たうんざりするような深く鬱屈したため息に気付き、唇をぎゅっと引き結ぶ。

「あなた。」
「あ?」

ティネケの、極力何気なくといった雰囲気を意識した言葉にも、思わず少しだけ棘のあるトーンで返してしまう。わりぃ、とJr.は首を横に振って謝った。
ティネケはダイニングテーブルに温めたカップを置き、紅茶を注ぐ。とぽとぽと優しい水音が明るいセピア色の液体と共に純白の陶器に注がれ、注がれる内から柔らかい湯気が上がる。

「超人医療の最先端の機械だとお聞きしました。」
「そりゃまあ、そうなんだろ。じゃなきゃ押しつけてきやしねぇよ。あいつらも興業の儲けを一シーズン丸々諦めてんだから。だがな・・・。」
「先日、委員会から送られてきた資料を拝見しましたけれど、理(り)にかなったつくりをしています。」

だから、そこまで邪険にすることもない、とティネケは言う。
夫が他者に身を任せるのを嫌う男だということは、よく知っている。機械であれば尚更。そしてそれが一定期間、ある程度長い時間拘束するものだということであれば、不満はもちろんあるだろう。しかし・・・。

「あなたの身体が深く傷ついているのは、事実でしょう?」
「・・・。」

そう、それは残念ながら、誤魔化しの利かない事実だった。
今すぐ癒やさねばならない傷や重い病という訳ではないが、かなり短いスパンで度重なる重傷を負ったJr.の体の中には、癒やしきれない傷が粘つく泥か澱となって溜まっていっている。最近は突然の目眩や修行中の節々の痛みなど、身体からのSOSサインがはっきりと感じられるようになっていた。
だが、いや、だからこそとJr.は思う。

「俺は早く強くならなきゃならねぇんだ。」

Jr.はティネケに言うと同時に、自分にも言い聞かせるようにしてぽつぽつと話す。

「血盟軍の皆と闘った時、結局、俺は力不足で皆を守れなかった。・・・死なせちまった。参謀だの副将だの、形ばかりのお飾りさ。そんな俺に、休んでいる時間なんて・・・。」
「そんなことはありません。」

ティネケが目の前に置いたカップから、ふわりとミントの爽やかな香りがする。カップのハンドルから離された繊細な指が、流れるように頬へと触れ、優しく撫でた。Jr.は顔を上げて腕を伸ばし、妻の小さな身体を絡め取ってソファへと沈ませる。応えるように伸ばされた華奢な手。頬には優しい指先の次に、もっと柔らかい唇の感触。1回、2回。ティネケはほっと息を吐き、そっと、彼の逞しい二の腕に頭を預け、大丈夫と言うように頬ずりした。

「そんなことはなくてよ。あなたは懸命に立ち向かい、精一杯闘われました。」

ティネケは意見を変えない。Jr.も、お前に超人格闘技の何が分かる、とは言わない。

「もしも、お許しいただけるのでしたら、いつでも私は構いませんが。」

ティネケはJr.の手のひらに自分の手を重ねてなぞるように撫でる。その意味を知るJr.は、甘い痺れを振り払うようにティーカップに手を伸ばし、目を覚まさせるために熱い紅茶を一気に胃に流し込んだ。
ティネケは逃げた夫の手を追うように身を乗り出して、顔を覗き込む。今すぐにでも、という意志が伝わる強い視線を散らすよう、Jr.は首を横に振る。

「さすがに・・・ばれるだろ。」
「私は構いません。」
「俺は構う。ダメだ。」

屹然と言い切る妻をたしなめる。
肉体を癒やす妻の家系の秘術の恩恵に縋ったことは1度や2度ばかりではないが、今回はタイミングが悪すぎる。委員会は大きな組織だ。他の超人達や、ましてや人間達などに妻の持つ力のことなど知られてしまえば、おちおち遠征など行っていられない。一族の人間は己以外、全員人間だ。妻のみならず、ブロッケン邸勤めの部下の命も危ういだろう。
妻は、身体に花の咲いているだけの不思議な女、くらいがちょうどいいのだ。寂しい話だが、地球レベルの災厄が去ったとしても、個人の平和が守られると保証された訳ではない。気の抜けない生活は変わらなかった。

こんなことなら、修行にかまけていないで、一度しっかりと妻の施術を受けておいた方が良かったか、とも思うが、後悔するには遅すぎだ。妻からの提案は今までも何回かあり、そのたびに断ってきたのは己の責任。何しろその施術には交合が伴うので、修行に集中したいと思えばそれ一本になってしまうJr.は、大きな怪我をしている訳でもない今は必要ない、と断り続けてきたのだった。
自分の愚かさを思いながら記憶を紐解くにつれ、その先に、脳の奥深く鮮やかに刻まれた施術の快楽が引き出され、首から上が熱くなる。記憶の世界から意識を引き戻し覚めるよう、既に注がれていた二杯目の茶を飲み干すと、夫が何を思いだしたか知ってか知らずか、妻から「そんなに一気に飲むものではありませんよ」と、くすくす笑いながら投げかけられる。

Jr.はそこで初めて、緊張を解き、手で顔を隠しながらも苦笑した。
心の中の焦りが消えた訳ではなかったが、幾分、肩は軽くなった気がした。

超人委員会上層部の思い通りになるのは未だに気にくわないが、先程、メディカル・サスペンションを受け入れると回答してしまったことだし、と諦める心地で腹をくくり、心配しながら見守ってくれていた妻を抱き寄せる。
薄い耳たぶに唇を触れ、声を潜めて囁く。

「でも、お前はいいのかよ。その・・・。」

キス、とかできなくなるぞ。
夫の精一杯の冗談に、まあ、と目を輝かせて、ティネケは促されるまま肩に腕を回した。腰を抱き寄せられ、唇が重なる。

「施術は無理でも、機械が届くまでの間、ベッドでずっとこうしていましょうか。もちろん・・・裸で。」
「馬鹿言うな。んなことしようもんなら、機械が届いたって気付きやしねぇよ。」

額同士をくっつけて、破顔。
お互いの頬に、耳に、顎に、首に、唇に、春の雨のような優しく暖かなキスが、互い違いに何度も落ちる。

何が今一番大切か。若くして荒波に揉まれる宿命を背負ったJr.は、常にその選択を迫られてきた。
平和が訪れたとはいえ、いつ何時、どこから侵略者が現われるか分からないこの世界で、自分は常に最高のコンディションで居なければいけない。この身はとうに、自分一人のものではないのだから。
そのためには、時に愛しい人と触れあう時間を諦めなくてはならないし、強くなりたいと焦る心にも、ブレーキを掛けて押しとどめなくてはならない。

「ティネケ。」
「はい。」
「ありがとうな。」
「とんでもありません。お礼を言うのは私の方です。」

夫は妻に、己の心を、身体を、心配してくれてありがとうという気持ちを。妻は、焦りを押し殺し、己の身体を大切にしてくれて嬉しいという気持ちを込めて。なお一層、抱きしめる腕に力を込める。
ティネケは知っている。この人の深くて強い悲しみを、怒りを、使命感を、そして同時に、身を粉にして他者のために働く、とても優しい人であるということも。己の内から溢れる愛しさは止めどなく、注がれる愛もまた。

それは、散れば散った数以上の花を付ける、薔薇の樹のごとく。


◇◇


薄暗く照明を落とした部屋に、規則正しい計測機器の音が断続的に響いている。何か温かなものの気配を、愛しさに満ちた視線を感じたJr.は、メディカル・サスペンションのドームの中で、ゆっくりと目を開いた。冬眠する動物のように、長い眠りと僅かな覚醒を単調に繰り返し、時間感覚はとうに薄れている。

(今は・・・。)

妻に頼んで置いて貰った時計の針は、昼下がりの午後2時頃を指しているが、口と鼻を覆うマスクから吸わされている安定剤のせいで視覚のピントがうまく合わず、正しい時刻は視認できない。重い瞼が下がろうとしたときに、正面の硝子ドームの壁に小さな手がぺたりと付くのが見えた。
自分が纏うのと同じ深い緑色の軍服・・・に似せた妻お手製の服を着た銀髪の幼子が、小さい身体を精一杯伸ばして、自分を見ていた。妻と同じ菫色の瞳が、じいっと己の顔を穴が開くほど覗き込んでいる。
すっと晴れていく意識。意識レベルが上がったことを感知した機器が小さくビープ音を鳴らすが、それに構わずJr.は幼子に微笑んで見せた。それに返すように、目の前の幼子もにこりと顔を笑顔でほころばせる。
と、ころんと転がる小さな身体。つま先だけで身体を支えていた足は、まだ歩き初めていくばくも経っておらず、覚束ない。直ぐにバランスを崩してしまう。固い床に倒れた息子を見て、Jr.は泣いてしまうだろうかと思ったが、エルンストは痛みを忘れたようにすぐ立ち上がって、父親の顔を再び眺めだした。

幼子の小さな手が、自分に向かって必死に伸ばされている。Jr.はその小さな手を見ていると、どうにも胸が苦しくなるのだった。

そのとき、細く開いていた部屋のドアが開き、光の向こうから妻がぱたぱたと足音を立てて駆け寄ってくる。

「此処に居たのですね。探しましたよ。」

不思議そうに見上げるエルンストの目線へと合わせるように膝を床に付け、ふんわりと笑って、ティネケは息子の小さな身体を抱き上げる。
エルンストは母の安心できる温もりとほのかな薔薇の香りに絆されそうになったが、やはり父が気になるようで、母の腕の中から手を伸ばし始めた。

「エルンスト、あなたのお父さん(ファーター)は今、お休み中ですから。母と一緒に遊びましょうね。」

ファーターは、ねんねです、ねんね。そうティネケは言い直す。
エルンストは母の優しい目をきょとんとした表情で眺めていたが、伸ばしていた手を仕舞い、母のエプロンをぎゅっと握ると、父の方へと向き直って、にこりと微笑んだ。Jr.は幼子の無垢な笑顔に自然と微笑み返す。すると、頬が持ち上がった拍子につと一筋涙が伝った。そのとき初めて、自分が泣いているのだとJr.は悟った。

「俺が、父(ファーター)か。」

ため息のような呟きが零れる。それを聞いて、ティネケはうとうとし始めたエルンストを硝子ドームへと近づけた。

「はい。あなたと私の子ですよ。」

子が生まれたとき、残念ながら遠征の最中でお産に立ち会うことも、暫くは会うことすらできなかった。それでも息子は本能的に知るものがあるのか、母親のティネケに対するのと同じくらい、Jr.によく懐いた。
ふくふくとした薔薇色の頬、ふわふわの銀髪、小さな小さな手のひら。いずれ自分顔負けの体躯へと成長するであろう、けれどまだほんの小さく、あどけない子供の姿に、ただひたすら温かな愛しさだけが込み上げる。

覚醒時間が規定値を超えたのか、無機的な薬品の匂いがマスクの中に充満する。とろみのあるスープのような眠りの世界へと引き込まれていく身体と心。
早く此処から出て、愛しい者達に触れ、その存在を全身で感じたい。Jr.はそう思いながら、再び意識を手放した。


◇◇

冷たい銀の光沢を放つ肘掛けの上で血が滲むほど握り込まれる拳。手錠のように手首を拘束する金属の輪が、本能的に外そうとする手とぶつかり、がちゃりと不満げな声を上げる。焦りに掻き立てられるJr.は、淡々と駆動する機械に未だ押さえ付けられながら、マスクの中で歯をむき出し吠えそうな形相となっていた。

(まだか。・・・まだか。まだなのか!)

俺は他の奴よりも若いはずだ。力不足の若人の特権なんて、回復の速さくらいしかない。それなのに。マシンは淡々とJr.の状態を計測し、治療が未了であるとの表示を吐き出し続けている。

(まだ、終わらないのか!)

がちりと奥歯同士がぶつかり合う鈍い音。もがく、いや、もがこうとするも、手足にはめられた鋼鉄の枷に阻まれる。超人の力に耐えられるよう設計されたマシンは、Jr.がどのように手足に力を込めようとも、びくともしなかった。
しずしずと布の擦れる音。自分を刺激しないよう極めて慎重に近づいてきた妻の気配に、マスクの中でふっと息を吐き出して、少しでも冷静さを取り戻そうとする。
ティネケは熱くなった夫の頭の中を察して、穏やかな声色で話しかけた。

「中々・・・治療が完了しないようですね」
「・・・。」

マスクの中の唇は、ぎゅっと引き結ばれ、僅かに震えている。ああ、似ている。いや、同じだ。いつもの、中々思い通りという訳にはいかなくて、転がり苦しみ、涙を浮かべて、歯を食いしばって・・・そして、その事実から決して逃げ出さずに雄々しく吠えて立ち向かう。いつもの、あなただ。
ティネケは、先程自室でひとしきり泣いた涙がまた目頭に浮かぶのを感じて、目を瞑り、ぱちぱちと瞬きをし、雫を瞼の裏へと隠した。

jr.は緩慢な動きで顎を上げ、分厚い硝子越しに静かに佇む妻の姿を見上げた。
妻の手には見慣れない紺色の軍服が、恭しく持ち上げられていた。真四角に折りたたまれたそれは、皺一つないことはもちろん、緊張感を持ってぴんと張りつめている。
対照的に、妻は静謐な中にも愛情の温度のある、清廉な微笑みを浮かべていた。Jr.の心の波は、そんな妻の表情を見上げるにつれ、徐々に平静を取り戻していく。

「それは。」
「新しい服のご用意が整いましたので、お持ちしました。これでいつでも出立できますわ。」

出立。その言葉に、Jr.は唾を飲み込んだ。また再び、戦場へと赴く。
そのために心駆り立てられていたはずだが、改めて妻の口からその言葉を聞くと、心が使命感で燃え立ち始める。その炎は先程感じていた焦燥とはまた別の熱だった。地から伝って腹の底から湧くような、活力を伴う熱だ。

「あなたの、新しい戦装束です。」

ティネケは己の言葉に同じ意味の言葉を重ねる。
リングコスチュームを兼ねる軍服を、硝子ドームの前へとずいと差し出す。ワッペンや胸ポケットのボタンが、計器のほのかな光を集めて、ぎらりと獰猛な金色に光る。
Jr.はその細くも鋭い光に目を細めた。

「・・・世話を掛ける。ありがとう。」
「だってあなたったら、治療が終わって装置から解放されたら、服も着ないまま子供みたいに飛び出してしまいそうなんですもの。」
「そんなこと・・・。」

Jr.は最後まで言い終わる前に言葉を失う。

「・・・・。ティネケ・・・。」

涙が残っていなくても分かる、泣きはらした後の赤く充血し潤んだ目。さっきまで泣いていたのか。と、問うと、ティネケは応えず、困ったように眉の端を下げて首を傾げた。まるで、何をおっしゃっているのというように。Jr.はそれ以上追究できず、視線を下へと逸らす。
ティネケは愛しげに、我が子を抱くのと同じように大事に、夫の戦装束を抱きしめ、震えも掠れも感じさせないしっかりとした声で話し始める。

「待っている間に、少しお話でもいかがでしょうか。」
「ああ。」

マスクに覆われた口ではうまく喋れないが、それでもJr.は首を縦に振った。妻の声は耳に心地よい。心を落ち着かせてくれる。彼女がどんな些細な言葉を発しても、それは長い信頼関係に裏打ちされて、Jr.にとっては疑いようのない響きとして伝わり、自信を与えてくれるものだった。
ティネケは片手で優しく紺色の軍服を撫でながら言う。

「あなたはこの色の名前をご存じ?」
「青・・・だろう?」
「もちろん、青は青ですけれど。」
「・・・紺青(プルシアン・ブルー)?」
「ええ、そうです。」

正解、と。悪戯っぽい響き。

「この青色は、1700年初頭に、この街、ベルリンで偶然生まれたとされておりますわ。錬金術師の弟子が神秘の薬を作ろうとして失敗したものが、鮮やかな濃紺色をしていたと。」

その話なら、Jr.もどこかで耳にしたことがあった。何百年も前の半ばおとぎ話のような言い伝えだが、その頃から実際ベルリンは職人の街であったというし、完全な空想という訳ではない。今自分達が立っているこの街と時間軸の上で地続きの出来事であろうと思う。
だが、その染料の色が、一体どうしたというのだろう。Jr.は再び妻と視線を合わせて言葉の続きを待った。

「もちろん、今は違いますのよ。けれど。」

ティネケはやんわりと前置きして言葉を繋ぐ。

ー この色は、血と、灰とからできています。

Jr.は僅かに目を見開く。
その言葉は、Jr.の胸の芯まで沈み込み、奥底で静かに広がっていった。

深い深い水を湛え生命を擁する海原のような、あるいは雲一つ無い満月を頂く夜空のような青。それはただ一握りの、灰の無色と、命の終りを見送った血の赤から生まれたというのだろうか。
いかなる運命の悪戯か、生と死の宿痾を象徴するような青は、この街で、人の手によって生まれた。

「この色が遠い昔に海を渡り、たった今、あなたのご友人が懸命に闘われている舞台、日本という国に辿り着いたとき、日本の方々はこの色をこのようにお呼びになったそうです。」

ー ベルリン・ブルー

「そうか。」
「この街には、誇るべき『赤』の他にも、誇るべき『青』があります。おわかりになりまして。」
「ああ。」

妻の言わんとすることを心の奥で受け取り、Jr.は深く頷いた。

「この青が海を渡り東の果てに辿り着いてなお失われなかった、ベルリンという街の名のように、あなたが例え何処へ赴き何者と対峙しようと、あなた自身が誇り高い一族の長であることは変わりないのです。」

あるいは、遠く海を渡ったからこそ刻みつけられたということもあるのではなかろうか。

「しっかりと、お役目を果たしていらっしゃいませ。」

Jr.は再びリングコスチュームへと視線を移す。妻の言葉を聞いた後に見るそれは、先程初めて見た時よりもより鮮やかに、そして、重厚な色に見えてきたのだった。
自然と手に力が籠もり、下がっていた視線が前へ向く。焦りは鎮まり、今はただ腹に力を込めていつ解放されても足踏みなどしないよう、マシンの駆動音と微かな振動に神経を集中させている。

「リングに上がればそんなこと気にしていられないのですし、今だけはしっかりご覧になってくださいね。」
「うん。」

Jr.の心は今や静かな海原のように凪ぎ、荒い白波は立っていない。決意と、正義超人としての使命感だけが漲っている。
ティネケはそんな夫の様子を見て、笑顔を崩さず小さく頷いた。

(どうか、この方が存分にお役目を果たせますよう。)

そして願わくば・・・。
いいえ、それは私の我儘。心の中でティネケは首を振り、開き掛けた唇を閉ざす。
超人レスラーを父に持つティネケは、リング上の闘いで肉親が死に得ることを身に染みて知っている。この人のお荷物にだけはなりたくない。
それでも・・・と今この時、心の中でだけ、己にロザリオを握ることを許している。

(お待ち申し上げております。あなたの、ご無事の帰還を心から・・・。)

言葉を飲み込んで口元に微笑みを作ろうと短く息を一つ。
その時、高らかな電子音が鳴り響き、重々しい音を立ててJr.の手足を拘束していた手錠と足枷が外れた。

新たな闘いが始まる。
ティネケの心臓が心音を早くする。
大丈夫、そう己に言い聞かせながらも、緩慢な動きで開く硝子ドームの中から立ち上がる夫の、背筋のぴんと伸びた精悍な立ち姿と、凜々しい横顔を目に焼き付けるように、瞬きを堪えて見つめたのだった。
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