SS(最終更新:「手紙」2024.06.23)

-手紙-

彼女からの手紙には、いつも薔薇の花弁が同封されていた。

封筒に鋏を入れ、開いた口を下に向けて手のひらを受け皿に、とんとんと指で叩けば、数枚の花弁が溢れ出る。
書庫の分厚い本に挟まれて、紙よりもまだ薄く伸ばされたのだろう押し花の花弁は、長い空の旅を経て既にその生きていた頃の香りを失っていたけれど、その内の一枚をつまみ上げ、指の間で滑らかな肌触りを感じれば、その花弁がもう少し重くしっとりと水を含んでいたことや、押し花にするため本に綴じ込むその瞬間に、爽やかな芳香が胸を通り過ぎていったこと、数日の後に本を開いて、鮮やかな色がどれだけ残ったか心ときめかせながらガーゼを解く心持ちなど、たった一枚の花弁にまつわる様々な記憶を、克明に思い出すことができた。

思い出すといっても、自分の記憶ではない。
手紙の送り主の記憶。自分の帰りを待つ、いとおしい人の記憶である。

この手紙に何か特別な仕掛けがある訳でも、自分に特殊な能力がある訳でもなかったが、それでも、脳裏に佇むかの人の手が封筒に花弁を忍ばせる様子など、まるで実際隣で見ていたかのように自然に想起される。
ブロッケンJr.は、金糸の紙を指で梳くような心持ちで、エアメール封筒の青と赤のストライプ模様をなぞり、口元を緩ませた。

時を、少し前に巻き戻す。
つかの間の平和といっても、人気絶頂の正義超人の使命、いや、宿痾と言った方が正しいか、興業に興業が続き、その隙間には人間達との関係を強固にするためのイベントなどがねじ込まれ、息を付く暇も無く世界各地を仲間達と巡っていた。今は・・・そう、数日前から日本の首都、東京に居る。
この日も夜遅くまで仕事が続き、ホテルに着いたのは日付が変わる頃だった。今日は暦の上では休日だからだろうか、広々としたロビーには、食事か飲み会の帰りらしい客がちらほら居て、寛いだ様子でソファに座っている。外から映り込んだ街の夜景とロビーの天井から吊るされたシャンデリアの光が、石造りの床や柱のつるりとした表面の中で、柔らかに混ざり合っていた。

硬い床の上で高く鳴る軍靴の音に、フロントのカウンターにいるホテルマンらの視線がこちらへと向く。ブロッケンJr.が歩み寄ると、その内の一人が恭しく頭を下げ、用件を促した。

「手紙、来てるか?」

誰の前でも物怖じせず踏み込んでいける自信があるのに、このときばかりはいつものようにはいかず、慣れない日本語を話す舌がもつれる。
ぶっきらぼうな言い方になってしまった、威圧感を与えてはいないだろうかと心配したが、相手は、確認して参りますねと穏やかな、しかしよく通る声で彼に告げ、隣に居たスタッフに席を外す旨の声を掛け、奥へと下がっていった。
確信がある訳ではない。けれど虫の知らせというのか、ブロッケンjr.が思い立って「手紙が来ているか」とフロントに問うと、十中八九手紙は届いていた。

暫くして、といっても長く感じたのは待っていたブロッケンjr.一人であって、実際は1分も2分も掛からなかったのだろうが、奥の事務所に下がっていたスタッフは、シンプルなエアメールを一通持って出てきたのだった。ブロッケンjr.の視線は自然と封筒に吸い寄せられる。胸が、高鳴る。

「お名前をご確認くださいませ。」

声は出ず、頷きで是と答えるのが精一杯だった。指先で宛名をなぞる。そうでないと、ろくに文字も読めなさそうだ。

「では、こちらにサインを。」

受領の証であるサインを走り書きで施し、スタッフから渡されるのを待てず、カウンターテーブルに置かれた封筒を手に取った。女性スタッフの小さな手の中ですらそこまで大きく見えない封筒は、ブロッケンjr.の手に収まると更に縮んだよう。しかし、手紙の受け取り主にとっては、高額小切手などとは比べ物にならないほど重い紙である。

軽く一言礼を残して、封筒の差出人の名前から視線を外さないままエレベーターに乗り、ぼんやりと心此処に在らずの状態で、いつの間にか自分に宛がわれた部屋の前に到着。鍵を探すのに手間取ってやや焦り、ズボンの後ろポケットではなく、左の胸ポケットにあったのを見つけ、銀色のドアノブを回す。

ブロッケンJr.は、ホテルの簡素なデスクのレタートレイの上に封筒を乗せて、そそくさとシャワー室に向かった。別にいつ開けようが相手は喜んでくれると分かっているのに、汗も流さぬまま開けるのは礼儀を欠く気がした。
といっても、心は手紙に置いてきたまま。蛇口をひねり、勢いよく出てくるシャワーの水はまだ冷たいが、構わずボディソープを泡立てる。正に鴉の行水といった風に乱暴に体を清めて、まとわりつく泡を五月蠅そうに洗い流し、それが終わればひったくるようにバスタオルを引き寄せて水気を拭っていく。しかし結局待ちきれずに、頭から滴る水を拭き終わらない内にドアを開けた。

がしがしと短く刈り込んだ頭を拭きながら、反対の手で封筒を手に取る。喉元に熱くくすぐったい温もりが灯り、堪えきれずに笑いが零れた。
鋏に手を伸ばし、しゃきりと封が切られる音、そして・・・今に至る。

ベッドの上に腰掛け、そのまま寝転がる。封筒を何度も裏返したり、撫でたり、天井のダウンライトの光に透かして眺めたり、その存在をあらゆる角度から確かめ、いとおしげに胸に寄せる。

「ティネケ。」

今此処に居ない人の名を呼ぶ。当然音は伝わらないけれど、呼んだことは伝わるのだと知っている。別段、不思議なことでもない。想い合っているから当然だ。
ブロッケンjr.は、やっと、という言葉がぴったりだが、意を決して小さな封筒に窮屈そうに指を差し入れ、破れないよう細心の注意を払いながら、中に収まる丁寧に畳まれた便せんを抜き出した。

その時、まだ封筒の奥に残っていた数枚の花弁がこぼれ落ち、ブロッケンjr.の顔の上に、ひらり、はらりと降りかかる。

事実だけ見れば、既に枯れた花の一部だったものでしかないけれど、ブロッケンjr.の目には、屋敷の庭に群れて咲く白い薔薇が、暖かく軽やかな風に吹かれる様が映った。

幸福とはきっと、このような感情に名付けた言葉なのだろう。





封筒に口づけして、ティネケは微笑んだ。
白色の封蝋に押した薔薇の紋章の花弁の縁に、筆で銀のラインを入れて完成。白色のエアメールに白の封蝋では目立たないけれど、そのくらいがちょうどいい。
あの人は、これを受け取ってどうするだろうか。いつも直ぐに読んでくれているようだった。でももしかしたら、開けるのにも時間を掛けてしまうかもしれない。開封するのはシャワーを浴びた後に、などと要らぬ緊張をしていないだろうかと。
その人は一つ一つの思い出の温度を大切にする人だと、ティネケは知っていた。喜びの温もりを、悲しみの冷たさを大切にする人。それらをどんなに沢山繰り返しても、全く冷めることなく歓喜し、涙する人。
どんなに自分の想いを込めようと、それを余さず拾ってくれることを知っているから、ティネケも心置きなく、自分の想いのたけを封筒に詰めることができた。

ティネケから彼への手紙は、何らかの重要な伝書という訳ではない。伝える必要のあることは、一族の隊に列する者が、電報や電話によって随時伝えている。
ティネケがブロッケンJr.に宛てて書く手紙に書かれているもの、それは、彼女の人生に他ならない。

本の読み終わったページに、その日摘んだ花の花弁を挟んでゆく。薔薇が咲いているときには薔薇の花弁を。葉が落ちる頃には、色付いた葉を。そして、一冊の本を読み終わった頃には、押し花が完成している。それは形無き記憶のあかし。
手紙には、読んだ本のことも、薔薇のことも、身の回りに起きたことをつらつらと思うままに書き綴った。あの人が、まるで一緒に経験したと思えるように。薄い便せんの紙一枚の上に並んだ文字の羅列は、彼の目に映り、時を巻き戻して再生する。
そして、伝書ではない手紙を送るのは、ブロッケンJr.も同じだった。彼は忙しい仕事の合間を縫って、ティネケに負けずとも劣らない熱量のある筆致で、自分の見聞きしたことを綴り、送った。時には、何通も立て続けに手紙が送られてくることもあった。ティネケはそれらを大切に掬い上げ、枕元に置いて繰り返し読んだ。

長く離れて生活する内、どちらとも知れず、二人は自分の人生を切り取って手紙に記すようになった。
そして、一人で経験したことを、二人の思い出とした。

ティネケはレターボックスを開く。そこに入っている手紙は、友人からのものより、夫が遠征先から送ってくるポストカードや手紙の方が多い。
電話も、時差の都合や忙しさによりろくにできず、ここ一ヶ月は声さえ聞けていない。離れて暮らすということは、そういうことだ。そんな関係は悲しいと思う人は居るかもしれない。親が決めた許嫁同士、仮面夫婦などと揶揄する人も居るかもしれない。

確かに、恋も愛も知らない間に一緒になった。
彼と彼女の運命は、外から見れば過酷極まりないものだっただろう。共に過ごす時間を重ねることも叶わないままだというのに、あまりにも濃い数年が過ぎていった。ゆえに恋も愛も、理解したかと問われれば否だろうと思う。

白い孔雀の羽根でできた羽ペンを、小さな硝子の水差しの中で清める。インキは水の中で霧のようにふわりと浮いて、筆先を回すのに伴ってくるりくるりと回りながら、少しずつ水へと溶けていく。
羽ペンは、父が残したいくつかの嫁入り道具の内の一つだった。
体が頑丈で力が強い超人は、どちらかと言えば格闘競技や軍事に携わることが多いが、白薔薇の一族はそのような超人達の陰に隠れた、文化を重んじる超人一族である。ペンは、一族にとって、魂の次に大切なものとされた。
幼い頃、父が教えてくれたことによると、孔雀は毒を喰らい清める力を持つらしい。もちろん作り話だと知ってはいるが、ティネケは、大切な人に災いが降りかからぬようにと願いながら、夫への手紙を書くときはいつもこのペンを使った。

インキが落ちて純白へと戻ったペンをそっとガーゼの上に置いて休ませ、ティネケは窓辺へと歩み寄る。静かな昼下がり。小鳥の鳴き声。木々のざわめき。けれど、ティネケが目を瞑れば、そこは煌びやかな夜景が広がる、夜の日本・・・東京の街中・・・ホテルのロビー。そして自分は、愛するただ一人の人の横に立っていた。

ティネケは思う。
まっとうな恋も愛も知らないけれど、私は確かな幸せを知っている、と。


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手紙(SS挿絵)
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