2026年7月公開予定作品(下書き)




 西流魂街第一地区、潤林安。
 日が沈み、橙色から群青色に変わった空。治安も良く、穏やかな空気に包まれている住宅地。そのとある一軒家の縁側で、いつもの死覇装姿ではなく、ラフな黄緑を基調とした着物を着た日番谷は、何を考えるでもなく、チラチラと瞬き始めた星々を眺めていた。

「冬獅郎、晩御飯ができたよ」

 鼓膜を震わせる優しい声。後ろからかけられたその声に、日番谷はゆっくりと振り返って微笑んだ。

「あぁ、ありがとう、ばあちゃん」

 腰を上げて、縁側から祖母の待つ居間へと移動する。祖母の傍にある囲炉裏では、グツグツと音を立てる煮炊き。ちゃぶ台に並べられた白米と味噌汁。そして日番谷の好物である大根おろし付きの玉子焼き。傍から見ると質素に見えるかもしれないこの食事が、日番谷にとってはどんな高級な料理よりも嬉しい食卓の光景だった。

「いただきます」

 手を合わせてから箸を手に取り、真っ先に手を伸ばしたのは祖母特製の玉子焼き。小さく一口サイズに切ってから、丁寧に口に運ぶ。そして噛みしめる大好きな味。表情には現れなくても、美味しそうに頬張る日番谷の姿を、祖母は幸せそうに見つめていた。

 久しぶりの休暇を貰い、流魂街の祖母の元へと帰省していた日番谷は、短いながらもその時間を充分に満喫していた。特に面白い娯楽があるわけでもない。それでも祖母と過ごす穏やかな時間。それだけで、日頃の疲れが癒されるというもの。明日の朝には瀞霊廷に戻らなければならないが、今だけは仕事のことを考えないようにしていた。それだけ日番谷にとって、休日に祖母と過ごす時間は、何にも代えがたい貴重なものなのだから。

 夕飯を食べ終わり、片付けも済んだ頃、再び縁側に戻り、星が瞬く夜空を眺める。何もないこの家では、空を眺めること以外にすることがない。しかし、日番谷はこの時間が好きだった。何も考えずに空を眺めるこの時間が。慌しい毎日を過ごしていると、こうしてゆっくりと空を見上げ、心地よい風を浴びながら、身体や心を休めることもできない。それが唯一できるのが、この家だけだった。
 冷たくも気持ちの良い夜風を浴びていた日番谷に歩み寄った祖母は、その隣にゆっくりと腰を下ろす。

「冬獅郎は風邪とか引いとらんで、元気にやっとるかい?」

 少しだけ心配そうに問いかけられた言葉に、日番谷は祖母を振り返る。

「あぁ、俺は大丈夫だよ。ばあちゃんこそ身体は大丈夫か?」
「あぁ。元気にやっとるよ」
「そっか」

 一時期、自分の力の所為で激しく瘦せてしまった祖母。最近は肉付きも良くなり、昔ほどではないが健康そうな身体へと戻っているように見える。本人の言葉通り、その声色も調子が良さそうに聞こえた。そのことに安堵の笑みを浮かべた日番谷は、祖母がそっと差し出した甘納豆へと手を伸ばす。

「桃も元気にやっとるかい?」

 不意にかけられた言葉に、日番谷は一瞬だけ手を止める。しかしすぐに何でも無いように、摘まんだ甘納豆を口に入れた。

「……あぁ。今忙しいみたいなんだ。もう少ししたら連れてくるよ」
「そうかい。無理してないと良いけどねぇ」
「大丈夫だよ。俺が付いてるし」
「そうだね。冬獅郎が一緒なら安心だね」
「……うん」

 心酔していた上司に裏切られ、心身ともに付けられた傷により、今も尚床に臥せっている幼馴染の雛森桃。本当のことは祖母に伝えていない。だから今回もこうして誤魔化すことしかできない。いつか元気になった雛森と、再び祖母の元へ帰ってくる。その願いを込めて、自分に言い聞かせるように。



 次の日の朝。小鳥の囀りを聞きながら、玄関の扉を開ける。すっかり日が昇り、雲一つない快晴を背景に、朝日が照りつける。死覇装に着替えた日番谷は、その眩しさに思わず目を細めていると、「もう行くのかい?」と声をかけられ振り返る。

「あぁ。行ってくる」

 少しだけ寂しそうな笑みを浮かべている祖母に、思わず瀞霊廷に向かうことを躊躇う気持ちが生まれるが、そうも言っていられない。日番谷は名残惜しむ気持ちを堪えながら、祖母に向かって苦笑いを浮かべた。

「忘れ物はないかい?」
「あぁ」
「怪我しないようにね」
「あぁ」
「またいつでも帰っておいで」
「あぁ。休みが取れたらすぐ帰ってくるよ」

 玄関先に立ち、いつものように、こちらの姿が見えなくなるまで見送るつもりであろう祖母に、日番谷は内心笑みを浮かべながら背を向ける。

「それじゃあ、行ってくる」
「はい、行ってらっしゃい」

 いつもと同じこちらを送り出す声。それを背に受けながら、日番谷は数歩歩き出す。そして自分は、まだ自分の背を見つめているだろう祖母に手を振ろうと、いつものように一回だけ振り返る。これがお馴染みの流れ。
 少しだけ歩いた先、日番谷がいつもと同じように振り返ったその時──。

「え──?」

 ザザッとノイズが走ったような気がした。まるで残像のように、その場から消えてしまうんじゃないかと思うような。そんなノイズが──祖母の右腕の辺りで見えたような気がした。
 いつもなら軽く振り返って手を振る日番谷が、手を中途半端に挙げ、訝しげにこちらをジッと見つめる姿に、祖母は不思議そうに首を傾げる。

「冬獅郎?」
「ッ……あ、いや……」

 祖母に変わった様子は無い。霊圧も安定している。単なる見間違いか、再度右腕に視線を向けても、特に異常は見られなかった。
 日番谷は眉間に皺を寄せて、軽く視線を彷徨わせたあと、「何でもない、行ってくる」と言って、いつも通り軽く手を振った。微笑む祖母に背を向けてから、今度こそ瀞霊廷に向けて足を進める。
 恐らく何かの見間違いだろう。それくらい一瞬だった上に、祖母も変わった様子はなかった。照りつける朝日が眩しくて、振り返ったその瞬間にノイズのように見えたのだろう。
 日番谷はそう自分に言い聞かせるように結論付けて、後ろ髪ひかれる気持ちを堪えながら、前を向いて歩き続けた。



***



 日が沈み、赤く染っていく空座町。一日の終わりを告げようとするその色の中、学生や社会人など、人々はそれぞれの帰路についていた。
 中でも一際閑静な住宅街。既に帰宅済みなのか、それともこれから住人が帰ってくるのか、部屋の明かりも灯されていない為、判断することができない。それくらい立ち並ぶ家々は静寂に包まれており、まるでこの辺りから人が居なくなってしまったかのようだった。
 そんな住宅街に響き渡る小さな足音。それはこの静けさに似合わぬような勢いで、荒く繰り返される呼吸音と共に駆け抜ける。そして同時にジャラジャラと音を立てる鎖の音。それら全ての音を発している持ち主は、息も絶え絶えの中、大きく息を吸ってから、力の限り叫んだ。

「誰か……ッ、誰か助けて!!」

 静寂に包まれた住宅街に響き渡る少女の声。肩まで伸びる黒髪は、風の抵抗を受けてボサボサに乱れてしまっている。しかしそんなことにも構わず、少女は走りながら必死に助けを求め続けた。これだけ静かな場所で、これだけ大きな声で叫べば、誰かしらの耳には届くはずだと。しかし、少女がどれだけ叫んでも、家から誰かが様子を見に出て来ることは無かった。
 それもその筈だった。少女は普通の人間には見ることも、その声を聞くこともできない、所謂“幽霊“という存在だったからだ。
 しかし少女はそれでも助けを求めることしかできなかった。だって、この足を止めれば、誰かに助けてもらわなければ、自分は食べられてしまう。後ろから迫り来る──化け物に。

「きゃあッ!」

 ずっと走り続けていた所為か、遂に足が縺れてしまい、全力で走り抜けていた勢いのまま、激しく地面に転倒してしまう。それでも少女は、痛む手足に構わず必死に起き上がろうとするが、その背後から、静まり返る住宅街に響き渡る咆哮。

「グォオオオオ!!」
「ヒッ──!」

 あまりの迫力に、ビクッと肩を震わせ思わず息を飲み込む。咄嗟に振り返った少女が見たものは、姿を表した化け物が、傍にあった電柱を折り曲げ、狙いを定めるかのように、奈落の底のような目で、こちらをジッと見つめている姿だった。化け物は少女に認識された途端、勢い良く飛び出し、そのままドスドスと重たい足音を立てながら、こちらに真っ直ぐ向かってくる。

「ぅあ……ッ……!」

 少女は恐怖のあまり、悲鳴をあげることすらできず、尻もちをついた状態で、手足を震わせながら後ずさることしかできない。胸に孔を空け、仮面を付けたかのようなその化け物は、そんな少女に容赦なく襲い掛かり、丸飲みにしようと口を大きく開ける。
 もう終わりだ。数秒後に訪れるであろう痛みを想像し、少女は思わずギュッと目を瞑る。しかし、訪れたのは痛みではなく、耳を劈くような人ならざるモノの悲鳴。何が起こったのかと恐る恐る目を開けると、視界に入ってきたのは一面の黒。

「え……?」

 どういうことかと瞬きを繰り返し、その黒が服の色であることに気が付いた少女は、ゆっくりと顔を上げた。そこには、夕陽に負けず輝くオレンジ色の光。少女があまりの眩しさに目を細めると同時に、目の前から聞こえてきた落ち着いた青年の声。

「──大丈夫か?」

 そう言ってオレンジ色の髪を靡かせながら、青年は少女を振り返った。呆然としながら少女が「う、うん……」とゆっくりと頷くと、オレンジ色の髪の青年は満足そうに顔を戻し、身体に力を入れる。
 青年の目の前には、少女を襲おうとしていた化け物の姿。化け物は口を大きく開けたまま、苦しそうに呻いている。そんな化け物の口を、身の丈程の大きな包丁のような刀で受け止めていた青年は、化け物を押し返す様に突き飛ばし、化け物が一瞬だけよろめいたその隙に、慣れたような速さで、その化け物の仮面を上から下に向かって一刀両断した。
 サラサラというような音が聞こえてきそうな感じで、化け物は粒子となって消えていく。それを見届けた青年は、ふうっと軽く息を吐いてから、改めて少女に向き直った。

「立てるか?」
「あ……うん……」

 そっと差し出された青年の逞しい手を取って、少女は立ち上がる。一体何が起こっているのか戸惑いの表情を浮かべながら、化け物が消えたあたりを見つめる少女に、青年は苦笑いを浮かべながら、困ったように頭を掻いた。

「あー……今の奴は虚っつって、お前みたいな魂魄……幽霊を狙う化け物でさ。そういう化け物を退治するのが、俺の──死神の仕事なんだよ」
「ホロウ……死神……?」
「ま、簡単に言えば、俺はお前の味方だってこと」

 そう言いながら、少女に視線を合わせるように腰を落とした青年は、少女を安心させるように二ッと笑う。そんな青年の姿に、少女は漸く落ち着いたのか、青年に向かって微笑んだ。

「そうなんだ。助けてくれてありがとう、お兄ちゃん」
「おう!」

 青年は少女の頭をポンポンと撫でると、腰を上げて少女を見下ろす。

「で、このままだと、またさっきみたいな化け物に襲われちまうから、お前を尸魂界ってところに送るのも、俺の仕事なんだけど……」
「ソウル、ソサエティ……?」
「そう。現世で死んだら皆そこに行くんだ。所謂天国みたいなところだな。……まぁ、天国にしては、ちょっと古臭い江戸時代みたいな風景だけど……」

 そう言いながら遠い目をする青年に、少女は不安そうな表情を浮かべる。
 交通事故にあって、突然死んだと思ったら、いきなり化け物に襲われて。全てのことが急展開過ぎて、正直頭が混乱している状態だった。それなのに、今度はよく知らない世界へ行かなければならないと言うのか。正直そんなところに行くなんて不安でしかない。
 そんな少女の思いを汲み取ったのか、青年は穏やかな笑みを浮かべて少女の頭を撫でた。

「いきなりで不安だよな。でも大丈夫。あっちはさっきみたいな怖いことなんて無いし、皆お前と同じ境遇の人達が沢山いるから、お前のこともすぐに受け入れてくれるよ」
「……本当?」
「あぁ」

 不安気にこちらを見上げる少女に、青年は少女の瞳を見つめながら、しっかりと強く頷く。そんな青年をジッと見つめた少女は、覚悟を決めたかのように頷いた。

「わかった。頑張って行ってみる」
「ありがとな」

 少女の決意にお礼を告げた青年は、持っていた大きな刀の持ち手の先を、ゆっくりと少女に向けた。少女はそれを見つめてから、青年に視線を移す。

「お兄ちゃん、名前、聞いても良い?」
「名前?」

 キョトンとした表情を浮かべた青年に、少女はコクンと一つ頷く。
 冥途の土産に持って帰りたかったのだ。絶望的だったあの状況を救ってくれた青年。目を開けたときに、何よりも輝いて見えたオレンジ色の髪。あの時の青年の姿は、少女にとってヒーローだった。そんなヒーローの名前を、冥途の土産にしたい。
 切望するようにこちらを見つめる少女をジッと見つめてから、青年はフッと笑みを浮かべた。

「──死神代行、黒崎一護だ」

 そう言って、青年──一護は、少女の額に斬月の持ち手の先端を、ポンッと軽く押しあてた。




「よし、いっちょ上がり」

 魂葬を無事に終え、光の粒子となって消えていった少女の魂魄を見送った一護は、少しだけ疲れたように一息吐いた。

(最近、よく虚が出てくるな……)

 今日だけで五体目。流石にもう出てこないでほしいと思いながら、手に持っていた斬月を肩に担ぎ天を仰ぐ。
 刻一刻と日が沈み、空はすっかり赤く染っている。所々に浮かぶ雲が絶妙なコントラストを描き、普段と変わらぬ空だというのに、その幻想的な色は初めて見る絵画の様だった。
 柔らかな風を受けながら、視線を下ろし、ゆっくりと歩み出す。帰ろうと思えばすぐにでも帰れるが、ここ最近の疲労もあり、たまにはのんびりと、散歩がてら歩いて帰るのも悪くないだろう。そんなことを考えながら、一護は周囲に目を向けた。

 この辺りの住宅街は、一見人気の無いように思われるがそれは日中の間だけで、これからの時間帯は学校や会社から帰ってくる人達で賑わい始める。現に先程まで人っ子一人居なかったというのに、どこから湧いて出たのかと言わんばかりに帰宅途中の大人や子供達が一人、また一人と姿を表していった。
 彼らとすれ違いながら、一護も我が家を目指して歩き続ける。次々と明かりが灯されていく家々。どこからか漂う魚を焼く匂い。一日の仕事を終えた彼らは、これから夕飯時と言った所だろう。
 
 住宅街を抜けると、家々に囲まれていた圧迫感のある景色から、空一面が見渡せる見晴らしの良い土手へ出た。河川敷からは、サッカーや野球をしている子供達の声が聞こえてくる。あの調子では、きっと日が暮れるまで練習するつもりなのだろう。土手の道には、ランニング、サイクリング、犬の散歩などをする人達が、疎らに見受けられた。
 見慣れたいつもの風景だが、一面真っ赤に染まったこの景色に、どこか懐かしさを覚える。そういえば、自分が幼い頃、習い事が終わって、迎えに来た母と一緒に帰っていたのはこの道だった。幼い妹達には悪いが、母を独り占めできる唯一の時間だったから覚えている。あの雨の日の記憶は辛いものだが、夕暮れの記憶は、寂しくも大切な思い出の一つだった。

 非力だったあの頃の自分。母を護れなかった無力な自分。あれから少しは成長できたのだろうか。強くなれたのだろうか。幼い頃に感じた、どう頑張っても届かない、果てしなく遠くの空。少しは近づけただろうか。
 一護は何の気なしに空を見上げる。
 変わらず遠く感じる空。でも、あの頃よりは近く感じる。今の自分は、あの頃とは違い、あの空に向かって飛んでいくことができるのだから。

 感傷に浸りすぎかと、自嘲的な笑みを浮かべて、前を向こうとしたとき、視界の隅に妙なものを見かけたような気がして、右手側に視線を移す。

「──え……?」

 見間違いかと思った。それか鳥か何かがそこにあるのかと。しかし、見れば見るほど確信する。しかし、理解はできなかった。だから呆然と見つめることしかできなかった。今見えてるものがあまりにも信じられなくて。

「何だ……あれ……」

 目を見開きながら呆然と呟いた一護の視線の先。変わらぬ景色。変わらぬ夕暮れに染まる空。その中にある──黒。
 空に黒が浮かんでいる。最初はそう思った。鳥か飛行船か、何かのシルエットではないかと。しかし、それにしては形が歪だった。鳥や飛行船が、あんなガラスの破片のようなシルエットに見えるだろうか。
 そう不思議に思ってよくよく見れば、それは浮かんでいるというより、穴が空いているように見えた。だって、鳥や飛行船ならシルエットは動いているはずだ。飛行船の進行方向によっては止まっているように見えるかもしれないが、そもそも飛行船はあんな尖った形はしていない。それに、直感的にあれは“モノ“ではないと思った。
 そうなると、考えられるのは”空に穴が空いている”ということ。死神代行であり、尸魂界という死者の世界まで行ったことがある身としては、そういうこともあるかもしれないと考えれば納得はできる。しかし、そうだとしても異常な光景だった。ガラスの破片のような形で、空に穴が空いているなど通常では考えられない。それにその穴は、その穴を更に広げようとするかのように、穴の端からパラパラと何かが剥がれ落ちているようにも見える。まるで──空が欠けているかのように。



2/10ページ
イイネ!