2026年7月公開予定作品(下書き)
夕暮れに染まる空座町にある土手。心地良いそよ風を身に受けながら、母親とその息子である少年が、手を繋ぎながらその帰路についていた。河川敷からは、野球やサッカーをしている楽しそうな子供達の声が聞こえてくる。その更に遠くの方では、陸橋を走る電車の音も聞こえていた。そんな様々な音を耳に入れながら土手を歩く二人の横を、ランニングをする男性や女性、犬の散歩をする老夫婦、自転車に乗る子供達がすれ違って行く。
習い事を終えて、母親と一緒に家に帰るこの幸せな時間を噛みしめながら歩いていた少年は、ふと思い出したかのように、そのオレンジ色の髪を揺らしながら母の顔を見上げた。
「そういえばお母さん」
「なぁに?」
間髪入れずに返ってくる問いかけに、少年は続ける。
「今日ね、学校で、ある街の野良猫達のお話を読んだんだ」
少年はざっくりと母親にあらすじを説明する。
それは、ある街に住む野良猫達のお話。野良猫達はその街で自由に暮らしていた。しかし人間達が「野良猫を野放しにしてはおけない」という結論に至り、野良猫達の一斉駆除計画を開始した。それに気が付いた野良猫達は、人間達に捕まらないように必死に逃げる。しかしとうとう追い詰められたとき、一匹の野良猫が、他の野良猫を逃がす為に、自らが囮になると言った。渋る仲間達だったが、その猫は「自分の命で皆が助かるなら本望だ」と言い、人間達の前に飛び出して行った。その勇敢な猫の活躍により、他の野良猫達は街を抜け出し、別の街で幸せに暮らすことができた。そしてその街には、その勇敢な猫を称えた立派な石造が建てられたという。
少年の話を相槌を打ちながら聞いていた母親は、そのあらすじを聞き終わってから少年に問う。
「そんな話を読んだんだ。面白かった?」
「うん。でも……」
「?」
どこか納得のいかない表情を浮かべる少年に、母親が首を傾げると、少年は眉尻を下げながら口を開いた。
「この話を読んでね、皆”猫ちゃんカッコイイ”とか、”皆幸せになれて良かったね”とか言ってたんだけど……」
「うん」
「僕は、この話を”幸せな物語”だなんて思えなくて……」
こんなことを言ってしまって良いのかと言うように、声のボリュームを落としていく息子の姿に、母親は一拍置いてから「どうして?」と優しく問いかけた。すると少年は数秒の間、何かを考えるように視線を彷徨わせた後、自分の歩く速度で通り過ぎていく小石たちに視線を向けた。
「だって……”皆”が幸せになってない……」
「”皆”?」
「うん」
少年は意を決したように顔を上げて、優し気な表情でこちらを見つめている母親の顔を見上げた。この母なら自分が何を言っても受け入れてくれる。そう胸の内に言い聞かせながら。
「囮になったその猫は、皆の為に犠牲になって死んじゃって、幸せになってないでしょ?」
その点だけがどうしても引っ掛かった。教室の皆は「良かった良かった」と言っていたが、全然良くない。犠牲になった猫は確かに格好良いかもしれない。英雄と言ってもいい。しかし、本当はその猫だって生きたかったに決まってる。だってその為にずっと人間から逃げ続けてきたのだから。それでもどうしても逃げきれなくなった時、皆を助けるためにその猫は犠牲になると言ったのだ。自分が生き残ることより、自分以外の皆が生き残るという幸せの為に。そんな猫を犠牲にして幸せになった世界が、どうして”幸せな世界”と言えるのだろうか。
少年の言葉に、母親は感心したかのように頷く。
「……確かに……」
「でも、教室の皆が”良かった”なんて言うから、僕一人がおかしいのかなって思って……」
不安そうに表情を歪める少年に、母親は安心させる様に笑みを浮かべた。
「そんなことないって!感じ方は人それぞれだし、一護が気になったところを、たまたま皆が気付いてなかっただけかもしれないしね」
「そうかな?」
「そうだよ」
橙色に染まった柔らかな髪をそよ風に靡かせながら、満面の笑みを浮かべる母。少年──一護は、そんな母──真咲の笑顔に釣られるようにして笑顔を浮かべた。
二人は手を繋ぎながら、沈みゆく夕陽に向かってゆっくりと歩き続ける。子供たちの賑やかな声が後方へと遠ざかっていき、近付きつつある黄昏時に同調するように、街中の物音が静まっていく。そんな中、真咲は静かに口を開いた。
「じゃあさ、一護」
「?」
見上げた先には穏やかな微笑み。
「もし、一護がその野良猫達の一匹だったとして、誰かを犠牲にしないと皆が助からないような状況になったら、一護はどうする?」
柔らかな風が吹き抜ける。もの寂しい周りの景色とは裏腹に、暖かく穏やかな風。その中で、一護は母の問いに、少しだけ考えるような素振りを見せる。
「僕は……」
そして、自分の中で考えが纏まったのか、母を見上げて自信満々に声を上げた。
「──僕は、”皆”が助かるように、誰も犠牲にならない方法を探す!」
「──!」
一護の言葉に、真咲は驚いた様に少しだけ目を見開く。そんな母に一護は続けた。
「誰かを犠牲にしないと助からないなんて、そんなのわからないじゃん。だから僕は最後まで諦めない!絶対に”全員”が助かる方法を最後の最後まで探し続けるよ!」
そう語る一護を、眩しいものを見るように目を細めて見ていた真咲は、ニカッと満面の笑みを浮かべた。
「最高じゃん!流石あたしの息子だわ!」
「えへへ」
誇らしげに言う真咲に、一護は照れくさそうに笑った。真咲はそんな一護の手を、少しだけ強く握りしめる。
「──一護」
「ん?」
祈りを、願いを込めるように、真咲はゆっくりと、はっきりとした声で、一護に伝える。
「今自分が言ったこと、絶対忘れないで。一護はずっとそのままでいてね」
「お母さん……」
夕陽によって赤く照らされた真咲の顔。宝物を見るかのように微笑みながら、こちらを見つめるその顔は、一護の記憶に深く、深く刻まれていた。
