考察や感想や日記を徒然と

ラスゲ感想(黛赤尊い)

2018/05/19 21:51
krbs
ラスゲ見終わった後にツイッターにダラダラと書いたのを合体させてプライベッターに載せたものを、ちゃんと文章を整理しました。
ラスゲの黛赤はどうあがいても運命なんだよなあ…って話。

・・・

赤司くんが一つになる決心をしたのは試合の最後30秒のとき。
試合を左右する大事な場面だけど、数字にすると本当一瞬。
たった30秒のために、
なんでそんな無茶をするんだ!
試合の結果より君の精神安定と今後の未来の方が大事でしょ…!
なんでそんなことしてまで勝利を求めるのか…。
と考えたとき、もはや武士のような誇りと気高さなのかもしれないと思い至りました。

たとえば、戦国の世において、家で待つ女は父や夫や息子にやっぱり勝敗よりも生きて無事で帰って来てもらうことを一番に願ってしまうけど、
父上は「我が身可愛さに逃げ帰るとは、恥を知れ!」と言うような。
赤司家の男児としては当然のようにそういう意識があるのかもしれません。武士のような考え方が。

「勝者はすべてが肯定され、敗者はすべてが否定される」
「すべてに勝つ僕はすべて正しい」

さすが全肯定か全否定か、生きるか死ぬか、食うか食われるかの概念で生きてる男は違う。

私が「僕くんいなくなったら根本的なお家問題は解決してないのにオレ君はこれから大丈夫?このいっときのバスケの勝敗はそんなに大事なの?」と安直な心配をしてしまうのは、自分が平和な世界に生きる凡夫だからなのかもしれない。

馬にも乗るし将棋もするし、たぶん彼は生きてる世界が違うんだ。
戦国の世で生きてるんだ。
(そりゃ頭が高いとかも言うわ)
(そりゃくろフェスで騎士にもなるわ)

まぁ、だからそういう男に
「こんなになって可哀想」
「辛かろうに」
「無理をするなよ」
っていうのは、もしかして侮辱なんじゃないかなと思ったわけです。

そして一方、黛。
映画で彼が最後に見せた笑みについて色々考えまして。
ラスゲの黛は「客観的に赤司の変化を理解する」役割。
つまり赤司くんの内面の変化とかを視聴者並みに理解してるわけですおそらく。
その上でのあの笑み。
一切否定も心配も何もしてないんです、彼。
そう、これは「いいのかよ赤司?」「今のお前がそう言うなら大丈夫なんだろ」と同じく、赤司の選択を全肯定した笑み。

そう思い至ったとき私はかなりショックを受けました。
な、なんたること…!
なぜなら、私なんぞは上述の通り赤司征十郎の選択を否定して疑ってるわけです。
本当にそれでいいのか?と。
もっと他にやり方はなかったのか?
そんなことをして君はつらくないのか?大丈夫なの?

だが黛千尋と言う男は違うんです。

私は今までてっきり、赤司君には、彼を正しい道へ導いてくれる人が必要だと思っていました。
しかし実際は、黛のように"赤司の歩む道が正しいと肯定してくれる存在"が必要だったんじゃないかと気付かされたわけです。
迅速果断で自信ありげに見えるけど、
「それしかないのか?」
「オレの罪は消えない」
など、赤司君(オレ)は勝つためにあらゆる手段を取ってきて、
その選択に対して内心
本当にこれでいいんだろうかという迷いとか、
そのせいでチームを崩壊させたとかいう罪の意識もあった。
でもそれは彼が考え抜いて出した結論。
周りがすべきことは批判や心配や提言ではなく、その結論を信じて支持すること。
それを被害(?)の一部を受けてもいる、彼の核心の変化も知り客観的な第三者である黛が「悪くなかったよ」と笑顔で受け入れ肯定する。

これはものすごいことなんじゃ…

つまりあの黛の笑みは、
「こいつ…赤司の何もかもを理解してやがる…そして…それが正解なんだ…」と圧倒的彼氏力を見せつけられた全肯定スマイルだったわけです。
(ものすごい敗北感)

エクゲ当時黛はいなかったわけなので、その時に私が考えた黛赤は「なんでそんな無茶をするんだ」と赤司の統合について心配して怒る黛だったんですよね。
(怒られた理由が「黛はオレより僕の方が良かったのだろうか?僕のことをオレの都合で消したことを怒っている?」と受け止めてまた内省的になる赤司君と「そうじゃない、オレも僕も関係なく勝利のために自分のことを二の次にする《赤司》のことを心配してるんだ」諭す黛、そして自分のことを見つめなおす赤司君…というような話)

しかしラスゲの全肯定黛を見て「これはちがうな!!」と思い知らされたわけです。
そうか黛という男は赤司を崇拝してるわけじゃないのに赤司を信じてるんだ…
だから「こんなもんか」という紫原君も言った同じ単語が、片や赤司を絶望の淵に追いやり、片や発破をかけ再起させる言葉になるという、全く違うニュアンスを伴ったんだ…と。
やべーよ…黛すごいよ何という圧倒的彼氏力なんだよ…。

でも黛は別に赤司のように特別な家柄ではないのに(仮にいい家柄だとしてもあの世界で赤司という家ほど特別で特殊なものはないと認識しているので)、なぜそんな考え方ができるのか…。

それを考えた結論としては「やはり黛も男なので、そうは思わないのかな…」と。
赤司を心配して「無茶しないで」というのではなく、勝つために選択した赤司を肯定する…。

それこそが赤司征十郎という男と対の男、『相棒』たりうる考え方なのかもしれない。
なんせ"征十郎"という名前は「征=正しい道、十=全て、郎=男」

『相棒』に求められるのはその赤司征十郎が征く道はどんな選択だろうと正しいものだと認めて受け入れる事だったのかもしれない…。
それこそ「今のお前がそう言うなら大丈夫なんだろ(※言ってない)ならオレは思い切り行くだけだ」のように。


……などということを、エクゲではいなかったのにラスゲで意味深に途中から赤司のためだけのようなタイミングで現れ意味深に驚き意味深に笑って去っていく謎の黛を見て考えたのでした、!。

いやあいつ本当なんで来たんだろう?
客観的に赤司を観察する人間が必要+ファンサというメタ理由を除いたら赤司に対する並々ならぬ思い入れがある以外に「おかげさんでな」以降の行動として整合性が取れない(赤司に特に思い入れがないという前提で整合性を取ろうとする方が無理が発生する)ように見えるんですが。
???

まあそのあたりは追々冷静になったころに考えるとして、
モンペとしては、いくら彼の選択は正しく彼が生きる世界が凡人のそれとは違う次元だと納得はしても、やはり二人になってる時点で何かしら無理は絶対してたはずだと思うので、心配はしてしまう。
その辺のケアを黛の運命回収力に期待してしまう。

まぁ、この二人に関しては外野が心配するまでもないのでしょうけどね…。つよ…。なすすべなし…。

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