tearless BABY
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自分で言うのもなんですけど、私、優秀だったんです。
小学校でも中学校でも成績は上位でしたし、塾でもいつも褒められてました。飯塚さんならきっと都内有数の進学校に行けるわねって。でも、ダメだったんです。
父親がよそに女作って離婚。ヤケになった母も家に帰らなくなって、気づけばバカみたいな借金作って行方くらまして……。
仕方ないから高校進学は諦めてバイトバイトバイトでなんとか食いつないで。それでも母の残した借金は返せなかったので、歳を偽って夜の仕事に切り替えて一生懸命働いてきたんです。
「ふーん、カワイソウだな」
「そう。カワイソウなんです、私。ですから灰谷さん、」
「蘭ちゃんでいーぞ」
「いえ、灰谷さん。こんなカワイソウな私をこれ以上いじめないでもらってもいいですか?」
「誰もいじめてないだろうが」
薄暗い部屋。VIPルームなだけあって、ソファもテーブルも豪奢だがそんなこと今の私には関係ない。
ふわふわのラグに正座をして、正面のソファに座る灰谷さんを見上げる。下から見ると、ただでさえ長いおみ足がさらに長く見えて羨ましいやら恐ろしいやら。
灰谷さんは私が働くキャバクラの元締めをしている怖い組織のえらい人らしい。お店にお金をとりに来るついでに飲んでいくことがあったので、何度かお話をしたことがある。
そんな灰谷さんの前でどうして正座させられているかというと、まあ単純な話。今夜もお店で飲んでいた灰谷さんに偶然空いていた私が呼ばれてついたところ、そのお高そうなスーツにお酒を零してしまったのだ。
とは言えこちらにも言い分がある。
「そもそも灰谷さんが腕を引っ張るから!」
「は?」
「なんでもないです」
怖い。
そうだよ、この人怖いひとなんだよ。
さっきまで浮かべていたうすら笑いを引っ込め、凍り付くような目で見下ろしてくる灰谷さん。ああ、神様仏様……私、そんなに悪いことしました……?
「このスーツ、高かったんだぞ」
「……弁償します」
「返せんの?オマエが?」
「うぐ……借金でもなんでもして、お支払いします」
「なんでも、ねェ」
お父さん、お母さん。
あなた達には一切感謝もしていませんが、それでも16年前に産んでいただいたこの身は、今夜儚くも細切れにされて東京湾に沈みそうです。
これから迎える恐ろしい状況を思いガクブル震えていると、灰谷さんがにこりと笑った。
「じゃあオマエ、今から俺の犬な」
「はい……?」
「返事はワン、だろ」
「わ……ん……?」
「ん、いーこ」
出勤前にふわふわに巻いて盛ってラメまで散らせた髪をぐしゃぐしゃ撫でまわされる。満足そうに笑う灰谷さんが逆に怖くてそれ以上何も言えなかった。
こうして灰谷さん改め蘭ちゃんの犬になった私だったが、それからの彼の動きの速いことと言ったら……。
私は早々に店を辞めさせられ、残額を見るのも怖かった莫大な借金はいつの間にやらきれいさっぱり無くなっていた。まあ、蘭ちゃんが肩代わりしただけなのだが。代わりに私は蘭ちゃんのお世話係もとい犬として蘭ちゃんと同じ家に住み、現金は一切渡されないものの、働いた分だけ肩代わりしてもらった借金の返済扱いにするという謎システムで日々を過ごしている。
「蘭ちゃーん、起きてくださーい。今日は本部に行かないといけないって言ってたよね。もう12時になっちゃうよ」
「んー」
「遅刻ですよ。竜胆くん困っちゃうよー」
「んー」
「いや、起きろし」
布団を頭まで被ってむずがる上司に思わず悪態を吐く。それでも布団からは一向に顔が出てこないので諦めて朝食兼昼食の準備をすることにした。声はかけたし適当に起きてくるだろう。
邪魔な髪をハーフアップにまとめる。キャバクラを辞めてからは巻くことも染めることもしなくてよくなったので長かった髪はバッサリ切ってしまった。今は半分黒で半分茶色のいわゆるプリン頭になっている。このまま伸びた分だけ切って行けば真っ黒に戻るという寸法だ。
ふんふんと鼻歌を歌いながら玉子焼きを焼いていると後ろでのそのそと足音が聞こえた。
「おはようございます」
「んーおはよ」
「顔洗って着替えちゃって。もう遅刻は決定だからちょっとでも早く到着することを目標にしましょう」
「うっせー犬だな」
ぶつくさと文句を言いながらも言われた通りに洗面台に向かう蘭ちゃん。この一年で私も、彼もお互いの扱いは重々理解している。あまり干渉しすぎないのが上司と部下の円満の秘訣だ。
玉子もトーストもフルーツも一口大にカットしてお皿に一緒くたにして載せる。ぬるめのスープとコーヒーを用意すれば大急ぎで食べる食事の完成。
「葵、めしー」
「はいはい。さっさと食べて出発してくださーい」
「……コーヒーぬるくね?」
「熱いと火傷するでしょ。一気に飲む用」
「飯くらいゆっくり食わせろや」
「ゆっくり食べたいなら早起きして」
文句を言いながらもお皿の上のものをぽいぽいと口に放り込む。咀嚼してるのかしてないのか、あっという間に食事は終わった。
「んじゃ、蘭ちゃん行くけど、いーこでお留守番してろな」
「分かってますよ」
「返事は?」
「わん」
「んー」
ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜるのは、毎朝のルーティーン。この人はもしかすると本物の犬を飼いたかったのではなかろうか。
がちゃりとオートロックの閉まる音が聞こえたら、部屋には一人。テレビでも見るかとリビングに戻ると、テーブルの上にスマホが置いてあるのを見つけた。
「あ」
蘭ちゃんの忘れ物だ。きっと周りの人に迷惑をかけてしまうだろう重大な忘れ物。
彼が出て行ってすぐ。とはいえ、もうエレベーターは降りてしまったろう。そうすると窓から叫んで気づいてもらう方がきっと早い。
駐車場に面したベランダに飛び出して下を覗く。まだ車はある。ちょっとばかり待っていると、エントランスから蘭ちゃんが出てきた。
「蘭ちゃん!!」
叫ぶと、気づいて上を見上げてくれた。
「スマホ!!忘れてる!」
スマホを持った腕を伸ばして、ほんの少し身を乗り出した。そう、ほんの少しだった。
しかし、私が思っていた少しよりいくらか大きかったようで、身体がぐらりと傾く。
「え、」
最後に見えたのは目を見開く蘭ちゃんの顔。
あ、落ちた。そう思うと同時に目の前が真っ暗になった。
小学校でも中学校でも成績は上位でしたし、塾でもいつも褒められてました。飯塚さんならきっと都内有数の進学校に行けるわねって。でも、ダメだったんです。
父親がよそに女作って離婚。ヤケになった母も家に帰らなくなって、気づけばバカみたいな借金作って行方くらまして……。
仕方ないから高校進学は諦めてバイトバイトバイトでなんとか食いつないで。それでも母の残した借金は返せなかったので、歳を偽って夜の仕事に切り替えて一生懸命働いてきたんです。
「ふーん、カワイソウだな」
「そう。カワイソウなんです、私。ですから灰谷さん、」
「蘭ちゃんでいーぞ」
「いえ、灰谷さん。こんなカワイソウな私をこれ以上いじめないでもらってもいいですか?」
「誰もいじめてないだろうが」
薄暗い部屋。VIPルームなだけあって、ソファもテーブルも豪奢だがそんなこと今の私には関係ない。
ふわふわのラグに正座をして、正面のソファに座る灰谷さんを見上げる。下から見ると、ただでさえ長いおみ足がさらに長く見えて羨ましいやら恐ろしいやら。
灰谷さんは私が働くキャバクラの元締めをしている怖い組織のえらい人らしい。お店にお金をとりに来るついでに飲んでいくことがあったので、何度かお話をしたことがある。
そんな灰谷さんの前でどうして正座させられているかというと、まあ単純な話。今夜もお店で飲んでいた灰谷さんに偶然空いていた私が呼ばれてついたところ、そのお高そうなスーツにお酒を零してしまったのだ。
とは言えこちらにも言い分がある。
「そもそも灰谷さんが腕を引っ張るから!」
「は?」
「なんでもないです」
怖い。
そうだよ、この人怖いひとなんだよ。
さっきまで浮かべていたうすら笑いを引っ込め、凍り付くような目で見下ろしてくる灰谷さん。ああ、神様仏様……私、そんなに悪いことしました……?
「このスーツ、高かったんだぞ」
「……弁償します」
「返せんの?オマエが?」
「うぐ……借金でもなんでもして、お支払いします」
「なんでも、ねェ」
お父さん、お母さん。
あなた達には一切感謝もしていませんが、それでも16年前に産んでいただいたこの身は、今夜儚くも細切れにされて東京湾に沈みそうです。
これから迎える恐ろしい状況を思いガクブル震えていると、灰谷さんがにこりと笑った。
「じゃあオマエ、今から俺の犬な」
「はい……?」
「返事はワン、だろ」
「わ……ん……?」
「ん、いーこ」
出勤前にふわふわに巻いて盛ってラメまで散らせた髪をぐしゃぐしゃ撫でまわされる。満足そうに笑う灰谷さんが逆に怖くてそれ以上何も言えなかった。
こうして灰谷さん改め蘭ちゃんの犬になった私だったが、それからの彼の動きの速いことと言ったら……。
私は早々に店を辞めさせられ、残額を見るのも怖かった莫大な借金はいつの間にやらきれいさっぱり無くなっていた。まあ、蘭ちゃんが肩代わりしただけなのだが。代わりに私は蘭ちゃんのお世話係もとい犬として蘭ちゃんと同じ家に住み、現金は一切渡されないものの、働いた分だけ肩代わりしてもらった借金の返済扱いにするという謎システムで日々を過ごしている。
「蘭ちゃーん、起きてくださーい。今日は本部に行かないといけないって言ってたよね。もう12時になっちゃうよ」
「んー」
「遅刻ですよ。竜胆くん困っちゃうよー」
「んー」
「いや、起きろし」
布団を頭まで被ってむずがる上司に思わず悪態を吐く。それでも布団からは一向に顔が出てこないので諦めて朝食兼昼食の準備をすることにした。声はかけたし適当に起きてくるだろう。
邪魔な髪をハーフアップにまとめる。キャバクラを辞めてからは巻くことも染めることもしなくてよくなったので長かった髪はバッサリ切ってしまった。今は半分黒で半分茶色のいわゆるプリン頭になっている。このまま伸びた分だけ切って行けば真っ黒に戻るという寸法だ。
ふんふんと鼻歌を歌いながら玉子焼きを焼いていると後ろでのそのそと足音が聞こえた。
「おはようございます」
「んーおはよ」
「顔洗って着替えちゃって。もう遅刻は決定だからちょっとでも早く到着することを目標にしましょう」
「うっせー犬だな」
ぶつくさと文句を言いながらも言われた通りに洗面台に向かう蘭ちゃん。この一年で私も、彼もお互いの扱いは重々理解している。あまり干渉しすぎないのが上司と部下の円満の秘訣だ。
玉子もトーストもフルーツも一口大にカットしてお皿に一緒くたにして載せる。ぬるめのスープとコーヒーを用意すれば大急ぎで食べる食事の完成。
「葵、めしー」
「はいはい。さっさと食べて出発してくださーい」
「……コーヒーぬるくね?」
「熱いと火傷するでしょ。一気に飲む用」
「飯くらいゆっくり食わせろや」
「ゆっくり食べたいなら早起きして」
文句を言いながらもお皿の上のものをぽいぽいと口に放り込む。咀嚼してるのかしてないのか、あっという間に食事は終わった。
「んじゃ、蘭ちゃん行くけど、いーこでお留守番してろな」
「分かってますよ」
「返事は?」
「わん」
「んー」
ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜるのは、毎朝のルーティーン。この人はもしかすると本物の犬を飼いたかったのではなかろうか。
がちゃりとオートロックの閉まる音が聞こえたら、部屋には一人。テレビでも見るかとリビングに戻ると、テーブルの上にスマホが置いてあるのを見つけた。
「あ」
蘭ちゃんの忘れ物だ。きっと周りの人に迷惑をかけてしまうだろう重大な忘れ物。
彼が出て行ってすぐ。とはいえ、もうエレベーターは降りてしまったろう。そうすると窓から叫んで気づいてもらう方がきっと早い。
駐車場に面したベランダに飛び出して下を覗く。まだ車はある。ちょっとばかり待っていると、エントランスから蘭ちゃんが出てきた。
「蘭ちゃん!!」
叫ぶと、気づいて上を見上げてくれた。
「スマホ!!忘れてる!」
スマホを持った腕を伸ばして、ほんの少し身を乗り出した。そう、ほんの少しだった。
しかし、私が思っていた少しよりいくらか大きかったようで、身体がぐらりと傾く。
「え、」
最後に見えたのは目を見開く蘭ちゃんの顔。
あ、落ちた。そう思うと同時に目の前が真っ暗になった。
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