番外編
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この世界に来て2ヶ月になる。魔法という慣れないものに囲まれてバタバタな毎日を送っていたために完全に存在を忘れていた。
「あ、あ゛ぁぁ……」
私室のトイレに腰掛けて項垂れる。やっちまった。
下着についた赤黒い染み。鼻を擽る生臭さ。
元々不定期にやってきては私を不快な気持ちにしてくれるヤツが来てしまった。
「困った……」
狭い個室を見渡すも、そこには必要なものはない。仕方なしにトイレットペーパーを幾重にも折りたたみ下着に忍ばせた。心許ないが応急処置だ。我慢しよう。
ごわごわとした気持ち悪さを抱えたまま努めてゆっくりと購買に向かう。
「……なぜあるのか」
「It's a secret!もちろんお客様が何を買ったかもサムとのsecret.安心しておくれ」
バチーン☆とウインクを寄越されてヴッと変な声が出る。危ない。惚れてしまう。
「他にも何か必要なものがあれば一緒に包むけど?」
「あー、ひとまずはこれだけで」
「OK.これはおまけ」
茶色地に黒いストライプの入った紙袋を覗くと生理用品と一緒に花束のイラストが描かれた袋が入っている。
「ノンカフェインのお茶だよ。ポムフィオーレ寮の小鬼ちゃん達にせっつかれてね。仕入れたんだけど他の寮生には人気がないらしい」
肩を竦めてみせるサムさんにお礼を返す。ここでノンカフェインの飲み物を選んでくれたのがすごく大人でスマートな気がする。少なくても大学の男友達とかにはいなかった。
「無理はいけないよ、プリンセス」
「ひぇ、ありがとうございます」
やはりどうにもこうしたテンションと距離感には慣れない。あと顔が良い。
ああ言って心配してくれたけれど、私は生理に苦しめられたことがあまりない。経血の量は多いから不快感と若干の貧血は辛いが、頭痛や腹痛、下痢などに苦しめられた覚えはあまりなかった。
とにもかくにも欲しいものは手に入った。近くの来客用トイレに駆け込んで血塗れのトイレットペーパーと交換する。本当は下着ごと替えたかったが、授業の開始までに部屋に戻って着替えて教室に着ける自身がなかった。
幸いにも分厚く折り畳んだトイレットペーパーがそれなりに仕事をしてくれたおかげで下着はそれほど汚れていない。気づく前に汚してしまった少しの染みばかり。それももう乾き始めている。念の為に汚れた部分にペーパーを押し当てて汚れないことを確認してからズボンを履いた。
「あれ、ミスタ・キングスカラー?珍しいこともあるのね」
「教師の発言じゃねえだろ、それ」
「レオナさん、ほとんど出席しないんスから言われても仕方ないでしょ」
「ああ、ラギーも受講してるからか。納得……さて、鐘が鳴ったので始めましょう。出席を取ります」
珍しく出席してるレオナに軽口を叩いていると丁度授業開始を告げる鐘が鳴る。それを合図に出席簿を開いた。
レオナ・キングスカラーが一週間ぶり3回目の出席を遂げたこと以外は何もイレギュラーのないまま授業は進み、無事終わった。
2ヶ月経っても集団授業には慣れない。個別の質問には対応できても、前に立って講義するのにはやはり緊張する。何よりこちらの文字は読めても、書くことがうまく出来ないためどこまでちゃんと伝わっているのか不安だ。
さらには元の世界で勉強していたのは45分の授業案がメインだったせいで、50分の授業時間の使い方が難しい。予習していた範囲を終えても鳴らない鐘にこっそりと恨みを覚えながら残り時間は自習と質問にあててしまった。
ちらほらと質問にくる生徒の対応をしながら早く鐘が鳴れと祈った。それにしても、何だか今日はやたらとサバナクロー寮の生徒が質問に来る。
「……!授業を終わります。まだ質問のある生徒は後で来てください。16時までは化学準備室にいます」
鐘の音と同時に早口で告げる。ザワザワと立ち去る準備を始める生徒を見ながら立ち上がる。
その瞬間、どろりと嫌な感触がした。うえ、気持ち悪い……。
「おい」
「ん?え、キングスカラーが質問に……?」
「違う。ちょっと来い」
眉間にシワを寄せる彼に、何か怒らせるようなことをしただろうかと焦る。急いで荷物をまとめて後を追った。
向かった先は中庭。辺りに人気はないものの大声を出せば誰か来てくれるであろう場所に安心して肩の力を少しだけ抜く。
「お前」
「あ、はい」
「はあ……匂うんだよ」
「は?」
昨日はちゃんとお風呂に入った。シャンプーもボディーソープも変えてないし、サバナクロー寮の生徒は鼻が良いと聞いてからは香りのキツいものは身に着けないようにしている。
袖をすんすんと嗅いでみるけど特に気になる臭いはない。上着を脱いでみたり手のひらを嗅いでみたりする私に、レオナはわざとらしくため息をついた。
「血生臭い。それとメスの匂いがする。サバナクロー寮生は鼻が利くんだ。そんな匂いさせてうろうろして、何かあっても知らねえぞ」
「血生臭い?……っ!」
認識した途端にカッと顔が熱くなる。
生理現象とはいえ、異性に知られて気持ちのいいものではない。きっと彼も知ってしまって同じ気持ちに違いない。
「っ、あ、ごめん!そうよね!気分を悪くしてごめんなさい!あはは、気を付けます!」
焦りと羞恥を誤魔化すために早口でまくしたてる。頭の中でどうしようどうしようと繰り返す。
部屋にいた他のサバナクロー寮生も気付いているに違いない。そう思うと彼らの一挙一動が思い出された。
「もーレオナさん、先生いじめないでくださいよ」
「遅え」
「はいはい、お待たせしてスイマセン。オレじゃめちゃくちゃ時間かかりそうだったんでクルーウェル先生にお願いしに行ってたんスよ」
突然現れたラギーの口から先生の名前が出てピクリと肩が跳ねる。
「はいいおり先生、イイ子だからこれ飲んで」
「何、これ……?」
「魔法薬っスよ。大丈夫、ちょっとアンタの匂い消すだけ」
不安を胸にレオナを見上げるもすい、とそっぽを向いたまま何も言わない。
「クルーウェル先生からもらったからなんにも心配いらないっスよ。嘘だと思うなら先生に聞きに行きます?仕方ないからオレもレオナさんもついて行ってあげる」
これ以上生徒に迷惑をかける訳にはいかない。
震える手で受け取った小瓶からは花の匂いがした。えい、と口に含んで飲み下す。
「ぅ、えぇ……」
「ふっ」
「不味かったっスか?」
「トイレの芳香剤飲んだみたい」
飲んだことないけど。でもそんな感じがした。胃の底からフローラルな香りが上ってくる気がする。
「せいぜい保って一日だ。」
「そういうことなんで、後でクルーウェル先生のトコ行って下さいね。あと、多分もうウチの寮のやつらの間じゃ話が回ってるかもしれないんで、レオナさんの持ち物でも持って歩いてもらえます?効果バツグンっスよ」
横からジャラジャラとした装飾品をポケットにねじ込まれる。ちらりとしか見えなかったがその重みが値段を示しているようでゾッとした。
「すぐに返します!」
「あー気にしない気にしない。この人、頓着ないから最悪なくしちゃってもイイっスよ。もちろん、オレにおすそ分けしてくれても」
シシシっと笑うラギーにそんなことは出来ないときっちり告げて、二人にお礼を述べた。
「じゃあ、私、先生のとこに行くので。本当にありがとう」
「何かあったらすぐに言え」
「気をつけてくださいよー」
ポケットの中をジャラジャラ言わせながら足早に廊下を歩く。途中、何人かのサバナクロー寮生からの視線を感じたが何かを言われるようなことはなかった。
ノックを3回。少し待っても返事は無い。聞こえなかっただけかもしれないと思い、おそるおそる扉を引くと開いた。
「先生?失礼します」
小さな声で呼びかけて部屋に足を踏み入れる。が、部屋にクルーウェル先生の姿はなかった。
出直すべきだろうか。でも、鍵をかけていないということはすぐに戻ってくるのかもしれない。
少し考えて、部屋の外で待たせてもらうことにした。一度部屋を出て、大きな扉のそばにしゃがみ込む。どこも痛くはないが体はダルい。あとすごく眠かった。眠気というのは意識するとすごい勢いで襲ってくる。
寝るんじゃない。寝るんじゃなくてちょっと顔を伏せるだけ。お尻を床につけて膝を立てる。いわゆる体育座りの膝におでこをつけて目を閉じた。
「いおり!!」
「っわ、先生!」
「そんなところで何をしている!具合が悪いなら自室か保健室に行け!」
「す、すみません!」
急いで立ち上がりお尻をはらう。眠気は一気に飛んでいった。
「レオナとラギーから先生の薬を受け取りまして……あの、一日しか保たないというので」
「なるほど。事情は理解した。だが、それと廊下で寝ていたこととは話が別だ。まあいい。入れ」
まだ寝てませんでした、とは言えずに大人しく部屋に入った。
「Sit. ……違う。椅子にだ」
おすわりっていうくらいだから床にかと思って膝を着くと椅子を示される。
おずおずと椅子に座ると目の前の机に小瓶が並べられた箱が置かれた。
「長く保存の利くものではない。ひとまずこれだけ渡そう」
「ありがとうございます……あの、無くなったら」
「また来い……というのは女性には少しばかり酷だな。作り方を教えておく。魔法薬の完成には魔法が必要だ。魔法の使えない仔犬には魔導式の道具を貸してやる。他の魔法薬の製造にも使えるから持っているといい」
「ありがとうございます!」
さすがに毎回、生理です!と先生に申告しなければならないのは辛い。そんな辱めは学生時代のプールの授業くらいにしておいてほしい。
「他にも痛み止めや疲れ消し、眠気覚ましの作り方も書いてある。間違えても常用はするな。これらの魔法薬でできるのは感覚を誤魔化すことくらいだ。実際に疲れや痛みを消し去ることはできない。多くても月に一度。必要なときだけにすることだ」
なるほど。栄養ドリンクのようなものかしら。
遠回しに生理のときしか使ってはいけないといわれて、素直に頷く。
「Good girl.理解したのなら今日は部屋に戻れ。House. わかるな?」
「はい。ありがとうございます。」
「それとポケットの中のものは明日にでもレオナ・キングスカラーに返しておけ。違う厄介事を呼びかねない」
「あ、はい」
言われなくてもそうするつもりだ。こんな高そうなアクセサリー、持っているのすら怖い。
「代わりにこれを」
そう言って先生が私の腕に何かを巻きつける。
赤い革のベルトの腕時計。黒の文字盤には白い文字で数字が書かれている。
「時計くらいは大人の嗜みだ。俺からのご褒美と思って受け取っておけ」
「ひぇ、あ、ありがとうございます」
なんだか今日はありがとうございますしか言ってない気がする。ご褒美、というのだから有り難くもらっておこう。一体何のご褒美なのかは分からないけど……
「……そうだな、先日の魔法史のレポート。トレイン先生が随分褒めていらした。その褒美でどうだ」
「口に出てました?」
「結構な声量でな」
恥ずかしさを誤魔化すように顔をパタパタと仰いで見せる。それにしても、時計もとても嬉しいがトレイン先生に褒めてもらえた、という情報も嬉しい。
堪え切れないニヤケ顔を隠すようにしてそそくさと部屋を後にする。ポケットの中のジャラジャラに加えて、貰った薬品の瓶をガチャガチャいわせながらまっすぐ部屋に戻った。
先生の教えてくれた薬は実によく効いた。
眠気もダルさもなくスッキリとした気分で教室に向かうと、昨日に引き続き今日もレオナの姿が……。
「数日内に天変地異でも起こるんじゃなかろうか」
「聞こえてんだよ」
「そして自分のことだと理解している、と」
「てめえ……」
「はい!授業を始めます!出席とりまーす!!」
グルル、と響く喉の音を聞かないようにして大声で叫ぶ。昨日の一件でレオナが言うほど怖い人ではないと確信した。わざと怒らせるつもりはないけれど、少しの冗談は許されそうだ。
「つまり、ここでxを……っと、そろそろ時間だ。キリが悪くなりそうなのでこの問題は次回に持ち越します。課題伝えるのでメモしてください」
口頭での説明でも生徒達がノートを取れるようにゆっくりと話しているためにやはり進みは遅い。予定されているカリキュラムをギリギリこなしている感じ。それでも、手元で時間が分かるというのは大分やりやすかった。心の中で先生に感謝しながら手短に課題を伝える。
「それでは授業を終わります。レオナ・キングスカラーは終わってから前に来るように」
がたがたと机を鳴らして生徒達が去っていく。何人かのサバナクロー寮生がこちらをちら、と見たがそれだけだった。
「何だ」
「昨日はありがとう。借りてたの返すね」
「……別に良い。持ってろ」
「こんな高そうなの持ってる方が怖い」
レオナの目がちら、と私の手首を見た。それからふん、と鼻を鳴らす。大きな手が差し出したジャラジャラを掴み上げた。
「おい、ラギー」
「はいはいっと」
「やる」
「え!マジっスか!?後で返せったって返しませんからね!?」
「言わねえよ」
放られたアクセサリー達を大事そうに仕舞ってラギーはシシシ、と笑った。そんなので良いのかしらと思うも、普段の彼が身につけている品々を思い出して一つや二つ気にしないのかと思い直す。
「おかげさまで昨日は何事もなく部屋まで帰れました」
「礼なら単位で良いぜ」
「初回の授業で言ったとおり出席点は全体の4割よ」
「チッ」
本心からの舌打ちが面白くて笑ってしまう。レオナはそれを咎めることなく、つまらなさそうに後ろ頭を掻くだけだった。
ベッドに腰掛けてほぅ、と息を吐く。
男子校で働くというのはこんなにも大変なのかと思った。それとも普通の男子校ならそうでもないのかしら。鼻の利く生徒に気を遣ったり軽く命の危険を感じるハプニングが無いのだからもう少しは楽だろうか。
自分が思ったよりも消耗していることに気づく。これが、ともすれば毎月やってくるのだ。場合によっては二、三ヶ月来ないこともあるのだが……これから先を思ってどんよりと気分が重くなった。
唾を飲み込むとトイレの芳香剤のような液体の味が思い出される。重たいため息を吐いてベッドに転がった。
明日の朝はベッドに真っ赤な染みがついているかもしれない。そんなことを思いながら目を閉じた。
「あ、あ゛ぁぁ……」
私室のトイレに腰掛けて項垂れる。やっちまった。
下着についた赤黒い染み。鼻を擽る生臭さ。
元々不定期にやってきては私を不快な気持ちにしてくれるヤツが来てしまった。
「困った……」
狭い個室を見渡すも、そこには必要なものはない。仕方なしにトイレットペーパーを幾重にも折りたたみ下着に忍ばせた。心許ないが応急処置だ。我慢しよう。
ごわごわとした気持ち悪さを抱えたまま努めてゆっくりと購買に向かう。
「……なぜあるのか」
「It's a secret!もちろんお客様が何を買ったかもサムとのsecret.安心しておくれ」
バチーン☆とウインクを寄越されてヴッと変な声が出る。危ない。惚れてしまう。
「他にも何か必要なものがあれば一緒に包むけど?」
「あー、ひとまずはこれだけで」
「OK.これはおまけ」
茶色地に黒いストライプの入った紙袋を覗くと生理用品と一緒に花束のイラストが描かれた袋が入っている。
「ノンカフェインのお茶だよ。ポムフィオーレ寮の小鬼ちゃん達にせっつかれてね。仕入れたんだけど他の寮生には人気がないらしい」
肩を竦めてみせるサムさんにお礼を返す。ここでノンカフェインの飲み物を選んでくれたのがすごく大人でスマートな気がする。少なくても大学の男友達とかにはいなかった。
「無理はいけないよ、プリンセス」
「ひぇ、ありがとうございます」
やはりどうにもこうしたテンションと距離感には慣れない。あと顔が良い。
ああ言って心配してくれたけれど、私は生理に苦しめられたことがあまりない。経血の量は多いから不快感と若干の貧血は辛いが、頭痛や腹痛、下痢などに苦しめられた覚えはあまりなかった。
とにもかくにも欲しいものは手に入った。近くの来客用トイレに駆け込んで血塗れのトイレットペーパーと交換する。本当は下着ごと替えたかったが、授業の開始までに部屋に戻って着替えて教室に着ける自身がなかった。
幸いにも分厚く折り畳んだトイレットペーパーがそれなりに仕事をしてくれたおかげで下着はそれほど汚れていない。気づく前に汚してしまった少しの染みばかり。それももう乾き始めている。念の為に汚れた部分にペーパーを押し当てて汚れないことを確認してからズボンを履いた。
「あれ、ミスタ・キングスカラー?珍しいこともあるのね」
「教師の発言じゃねえだろ、それ」
「レオナさん、ほとんど出席しないんスから言われても仕方ないでしょ」
「ああ、ラギーも受講してるからか。納得……さて、鐘が鳴ったので始めましょう。出席を取ります」
珍しく出席してるレオナに軽口を叩いていると丁度授業開始を告げる鐘が鳴る。それを合図に出席簿を開いた。
レオナ・キングスカラーが一週間ぶり3回目の出席を遂げたこと以外は何もイレギュラーのないまま授業は進み、無事終わった。
2ヶ月経っても集団授業には慣れない。個別の質問には対応できても、前に立って講義するのにはやはり緊張する。何よりこちらの文字は読めても、書くことがうまく出来ないためどこまでちゃんと伝わっているのか不安だ。
さらには元の世界で勉強していたのは45分の授業案がメインだったせいで、50分の授業時間の使い方が難しい。予習していた範囲を終えても鳴らない鐘にこっそりと恨みを覚えながら残り時間は自習と質問にあててしまった。
ちらほらと質問にくる生徒の対応をしながら早く鐘が鳴れと祈った。それにしても、何だか今日はやたらとサバナクロー寮の生徒が質問に来る。
「……!授業を終わります。まだ質問のある生徒は後で来てください。16時までは化学準備室にいます」
鐘の音と同時に早口で告げる。ザワザワと立ち去る準備を始める生徒を見ながら立ち上がる。
その瞬間、どろりと嫌な感触がした。うえ、気持ち悪い……。
「おい」
「ん?え、キングスカラーが質問に……?」
「違う。ちょっと来い」
眉間にシワを寄せる彼に、何か怒らせるようなことをしただろうかと焦る。急いで荷物をまとめて後を追った。
向かった先は中庭。辺りに人気はないものの大声を出せば誰か来てくれるであろう場所に安心して肩の力を少しだけ抜く。
「お前」
「あ、はい」
「はあ……匂うんだよ」
「は?」
昨日はちゃんとお風呂に入った。シャンプーもボディーソープも変えてないし、サバナクロー寮の生徒は鼻が良いと聞いてからは香りのキツいものは身に着けないようにしている。
袖をすんすんと嗅いでみるけど特に気になる臭いはない。上着を脱いでみたり手のひらを嗅いでみたりする私に、レオナはわざとらしくため息をついた。
「血生臭い。それとメスの匂いがする。サバナクロー寮生は鼻が利くんだ。そんな匂いさせてうろうろして、何かあっても知らねえぞ」
「血生臭い?……っ!」
認識した途端にカッと顔が熱くなる。
生理現象とはいえ、異性に知られて気持ちのいいものではない。きっと彼も知ってしまって同じ気持ちに違いない。
「っ、あ、ごめん!そうよね!気分を悪くしてごめんなさい!あはは、気を付けます!」
焦りと羞恥を誤魔化すために早口でまくしたてる。頭の中でどうしようどうしようと繰り返す。
部屋にいた他のサバナクロー寮生も気付いているに違いない。そう思うと彼らの一挙一動が思い出された。
「もーレオナさん、先生いじめないでくださいよ」
「遅え」
「はいはい、お待たせしてスイマセン。オレじゃめちゃくちゃ時間かかりそうだったんでクルーウェル先生にお願いしに行ってたんスよ」
突然現れたラギーの口から先生の名前が出てピクリと肩が跳ねる。
「はいいおり先生、イイ子だからこれ飲んで」
「何、これ……?」
「魔法薬っスよ。大丈夫、ちょっとアンタの匂い消すだけ」
不安を胸にレオナを見上げるもすい、とそっぽを向いたまま何も言わない。
「クルーウェル先生からもらったからなんにも心配いらないっスよ。嘘だと思うなら先生に聞きに行きます?仕方ないからオレもレオナさんもついて行ってあげる」
これ以上生徒に迷惑をかける訳にはいかない。
震える手で受け取った小瓶からは花の匂いがした。えい、と口に含んで飲み下す。
「ぅ、えぇ……」
「ふっ」
「不味かったっスか?」
「トイレの芳香剤飲んだみたい」
飲んだことないけど。でもそんな感じがした。胃の底からフローラルな香りが上ってくる気がする。
「せいぜい保って一日だ。」
「そういうことなんで、後でクルーウェル先生のトコ行って下さいね。あと、多分もうウチの寮のやつらの間じゃ話が回ってるかもしれないんで、レオナさんの持ち物でも持って歩いてもらえます?効果バツグンっスよ」
横からジャラジャラとした装飾品をポケットにねじ込まれる。ちらりとしか見えなかったがその重みが値段を示しているようでゾッとした。
「すぐに返します!」
「あー気にしない気にしない。この人、頓着ないから最悪なくしちゃってもイイっスよ。もちろん、オレにおすそ分けしてくれても」
シシシっと笑うラギーにそんなことは出来ないときっちり告げて、二人にお礼を述べた。
「じゃあ、私、先生のとこに行くので。本当にありがとう」
「何かあったらすぐに言え」
「気をつけてくださいよー」
ポケットの中をジャラジャラ言わせながら足早に廊下を歩く。途中、何人かのサバナクロー寮生からの視線を感じたが何かを言われるようなことはなかった。
ノックを3回。少し待っても返事は無い。聞こえなかっただけかもしれないと思い、おそるおそる扉を引くと開いた。
「先生?失礼します」
小さな声で呼びかけて部屋に足を踏み入れる。が、部屋にクルーウェル先生の姿はなかった。
出直すべきだろうか。でも、鍵をかけていないということはすぐに戻ってくるのかもしれない。
少し考えて、部屋の外で待たせてもらうことにした。一度部屋を出て、大きな扉のそばにしゃがみ込む。どこも痛くはないが体はダルい。あとすごく眠かった。眠気というのは意識するとすごい勢いで襲ってくる。
寝るんじゃない。寝るんじゃなくてちょっと顔を伏せるだけ。お尻を床につけて膝を立てる。いわゆる体育座りの膝におでこをつけて目を閉じた。
「いおり!!」
「っわ、先生!」
「そんなところで何をしている!具合が悪いなら自室か保健室に行け!」
「す、すみません!」
急いで立ち上がりお尻をはらう。眠気は一気に飛んでいった。
「レオナとラギーから先生の薬を受け取りまして……あの、一日しか保たないというので」
「なるほど。事情は理解した。だが、それと廊下で寝ていたこととは話が別だ。まあいい。入れ」
まだ寝てませんでした、とは言えずに大人しく部屋に入った。
「Sit. ……違う。椅子にだ」
おすわりっていうくらいだから床にかと思って膝を着くと椅子を示される。
おずおずと椅子に座ると目の前の机に小瓶が並べられた箱が置かれた。
「長く保存の利くものではない。ひとまずこれだけ渡そう」
「ありがとうございます……あの、無くなったら」
「また来い……というのは女性には少しばかり酷だな。作り方を教えておく。魔法薬の完成には魔法が必要だ。魔法の使えない仔犬には魔導式の道具を貸してやる。他の魔法薬の製造にも使えるから持っているといい」
「ありがとうございます!」
さすがに毎回、生理です!と先生に申告しなければならないのは辛い。そんな辱めは学生時代のプールの授業くらいにしておいてほしい。
「他にも痛み止めや疲れ消し、眠気覚ましの作り方も書いてある。間違えても常用はするな。これらの魔法薬でできるのは感覚を誤魔化すことくらいだ。実際に疲れや痛みを消し去ることはできない。多くても月に一度。必要なときだけにすることだ」
なるほど。栄養ドリンクのようなものかしら。
遠回しに生理のときしか使ってはいけないといわれて、素直に頷く。
「Good girl.理解したのなら今日は部屋に戻れ。House. わかるな?」
「はい。ありがとうございます。」
「それとポケットの中のものは明日にでもレオナ・キングスカラーに返しておけ。違う厄介事を呼びかねない」
「あ、はい」
言われなくてもそうするつもりだ。こんな高そうなアクセサリー、持っているのすら怖い。
「代わりにこれを」
そう言って先生が私の腕に何かを巻きつける。
赤い革のベルトの腕時計。黒の文字盤には白い文字で数字が書かれている。
「時計くらいは大人の嗜みだ。俺からのご褒美と思って受け取っておけ」
「ひぇ、あ、ありがとうございます」
なんだか今日はありがとうございますしか言ってない気がする。ご褒美、というのだから有り難くもらっておこう。一体何のご褒美なのかは分からないけど……
「……そうだな、先日の魔法史のレポート。トレイン先生が随分褒めていらした。その褒美でどうだ」
「口に出てました?」
「結構な声量でな」
恥ずかしさを誤魔化すように顔をパタパタと仰いで見せる。それにしても、時計もとても嬉しいがトレイン先生に褒めてもらえた、という情報も嬉しい。
堪え切れないニヤケ顔を隠すようにしてそそくさと部屋を後にする。ポケットの中のジャラジャラに加えて、貰った薬品の瓶をガチャガチャいわせながらまっすぐ部屋に戻った。
先生の教えてくれた薬は実によく効いた。
眠気もダルさもなくスッキリとした気分で教室に向かうと、昨日に引き続き今日もレオナの姿が……。
「数日内に天変地異でも起こるんじゃなかろうか」
「聞こえてんだよ」
「そして自分のことだと理解している、と」
「てめえ……」
「はい!授業を始めます!出席とりまーす!!」
グルル、と響く喉の音を聞かないようにして大声で叫ぶ。昨日の一件でレオナが言うほど怖い人ではないと確信した。わざと怒らせるつもりはないけれど、少しの冗談は許されそうだ。
「つまり、ここでxを……っと、そろそろ時間だ。キリが悪くなりそうなのでこの問題は次回に持ち越します。課題伝えるのでメモしてください」
口頭での説明でも生徒達がノートを取れるようにゆっくりと話しているためにやはり進みは遅い。予定されているカリキュラムをギリギリこなしている感じ。それでも、手元で時間が分かるというのは大分やりやすかった。心の中で先生に感謝しながら手短に課題を伝える。
「それでは授業を終わります。レオナ・キングスカラーは終わってから前に来るように」
がたがたと机を鳴らして生徒達が去っていく。何人かのサバナクロー寮生がこちらをちら、と見たがそれだけだった。
「何だ」
「昨日はありがとう。借りてたの返すね」
「……別に良い。持ってろ」
「こんな高そうなの持ってる方が怖い」
レオナの目がちら、と私の手首を見た。それからふん、と鼻を鳴らす。大きな手が差し出したジャラジャラを掴み上げた。
「おい、ラギー」
「はいはいっと」
「やる」
「え!マジっスか!?後で返せったって返しませんからね!?」
「言わねえよ」
放られたアクセサリー達を大事そうに仕舞ってラギーはシシシ、と笑った。そんなので良いのかしらと思うも、普段の彼が身につけている品々を思い出して一つや二つ気にしないのかと思い直す。
「おかげさまで昨日は何事もなく部屋まで帰れました」
「礼なら単位で良いぜ」
「初回の授業で言ったとおり出席点は全体の4割よ」
「チッ」
本心からの舌打ちが面白くて笑ってしまう。レオナはそれを咎めることなく、つまらなさそうに後ろ頭を掻くだけだった。
ベッドに腰掛けてほぅ、と息を吐く。
男子校で働くというのはこんなにも大変なのかと思った。それとも普通の男子校ならそうでもないのかしら。鼻の利く生徒に気を遣ったり軽く命の危険を感じるハプニングが無いのだからもう少しは楽だろうか。
自分が思ったよりも消耗していることに気づく。これが、ともすれば毎月やってくるのだ。場合によっては二、三ヶ月来ないこともあるのだが……これから先を思ってどんよりと気分が重くなった。
唾を飲み込むとトイレの芳香剤のような液体の味が思い出される。重たいため息を吐いてベッドに転がった。
明日の朝はベッドに真っ赤な染みがついているかもしれない。そんなことを思いながら目を閉じた。