非常勤講師はクルーウェルの仔犬
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新学期が始まる数日前から、私はクルーウェル先生のお遣いでカレッジを離れていた。ワンダーランド二年目ともなれば学園の外にお遣いにもいけちゃうのだ。私ってすごい。
とまあ、そんなわけで学園にいなかったものだから入学式で何が起こったかも、その生徒が一体何者なのかも知らなかったのは仕方ない。
「出席をとります……ええと、失礼。使い魔は仕舞っておいてちょうだいね」
「オレ様は使い魔じゃねーんだゾ!!」
こうして新学期最初の授業は喋る猫の暴動によってしっちゃかめっちゃかになった。元からオリエンテーションと自己紹介だけの予定にしておいて良かった。
「特殊な学生がいるなら先に言っておいてくださいよ……」
「ん?ああ、お前はいなかったのだったな。今年の一年には例年とは大きく違った生徒がいる。覚えておけ」
「遅いです、先生」
そもそも入学式に参列出来なかったのは先生のお遣いのせいだ。魔法学校の入学式……本当は私だって見たかったのに。そんな不満を頬の内側までに留めてジトリと先生を睨む。
「それで、どんな生徒なんですか」
卵焼きを一切れ口に放り込みながら尋ねた。
昼休みに先生の仕事部屋にお邪魔してお弁当を広げるのは数カ月前からの習慣。食堂の料理は美味しいのだけど、生徒達に絡まれたりオクタヴィネルの双子におかずを取られたりと落ち着いて食べられないと愚痴ったところ、先生の部屋で食べる許可がおりたのだ。職員寮に戻るより近くて安全でとても助かっている。
「俺も詳しくは知らんが、魔法が使えない、魔法の存在を知らない。完全にイレギュラーな存在だと聞いている」
ああ、と先生が声を上げた。
「似たような仔犬がどこかにいた気がするな」
片眉だけを上げてニィと嗤う。その顔にハッとした。
この世界に来てそろそろ一年が経ってしまう。最初の頃は学園長に戻る方法は見つかったのかとせっついていたけれどそれもいつからか止めてしまった。こんなに長い間探しても見つからないのであれば無いに違いない。諦めてここで生きる方法を……なんておりこうに考え始めていたところだ。
「先生、放課後のお約束、別日に変更してもらえませんか」
「明日の17時からなら可能だが」
「ではそれで」
弁当箱を片付けてから先生に深く頭を下げて部屋を出る。帰る手がかりが見つかるかもしれない。そうじゃなくても元の世界の話ができるかも……。
はやる気持ちを必死で抑えて廊下を歩く。この時間ならもう次の授業に行ってしまったかしら。何の心当たりもないまま廊下の窓から中庭を見る。なんだか少しだけ世界が明るく見えた。
「結局ノンアポになってしまった……」
学園の隅にあるギシミシと軋みが聞こえてきそうな建物。それがオンボロ寮なのだという。
うっすらと暗くなり始めた中で窓から灯りが漏れていた。
一度だけ大きく深呼吸をして扉を叩く。「はい」と小さく声が聞こえた。
「失礼。いおり いおりです。基礎教養の授業を担当している……監督生さんとお話がしたくて来たの。少しだけお時間いただけないですか?」
ぎぃ、と扉が開かれる。中から出てきたのは午前中の授業でも見た黒い髪の生徒。
「こんばんは……」
「こんばんは。約束も無しで来ちゃってごめんなさい。でもどうしても話がしたくて……」
「いえ、特に用事があるわけでもないので。あー……少し、いえ、大分汚いんですけど上がりますか?」
開かれた扉の隙間から見るに中もひどくオンボロらしい。
「前にいた学校の更衣室の方が汚かったから大丈夫。あ、これよかったら」
さすがに手ぶらでは来れないと思い持ってきたケーキの箱を渡す。中にはチョコレートケーキ、チーズケーキにイチゴのショートケーキ。学園の外のパティスリーで無難そうなのを3つ買ってきた。
パアァと瞳を輝かせる監督生にホッと胸を撫でおろし寮に足を踏み入れる。
片付いているのが一室しかないということで私室に招かれる。歩くたびにギシギシと鳴る廊下。学園長がここをあてがったと聞いているが、本当にこんなところで生活させるつもりだろうか。
「どうぞ」
「お邪魔します」
招かれた部屋はまだほんのりと湿気を感じるものの、他の場所と比べると段違いに片付けられていた。いっそアンティークにすら見える椅子の一つに腰掛けると、監督生がお茶を持ってきてくれた。
「食器類は洗ってるので!」
「ありがとう。それにしても……こんなところで大丈夫?」
「大丈夫です!とは言えないんですけど行くとこもないので、置いてもらってるだけで万々歳ですかね」
困ったように笑う顔に心配が大きくなる。
「君の事情については本当に簡単にだけど聞いてます。魔法のない世界から来たって」
「はい。黒い馬車の記憶はあるんですけど、その後は……気付いたら棺桶の中にいて、それで」
黒い馬車、棺桶。知らない情報が入ってくる。どうやら私とは少し状況が違うらしい。
手がかりになりそうもないことにほんの少しだけがっかりしつつ、それでもやっぱりこの世界と無関係な仲間が出来たようで嬉しくなる。
「私もね、こことは違う世界から来たの。私は電車に乗ってたら急に……って感じだったんだけど。だから君と、違う世界の話なんかできたら楽しいと思って来たってわけ」
「先生も!?あの、もしかして戻る方法とか、」
ガタン、と身を乗り出す監督生に首を振って見せる。
「そう、ですか……」
目に見えて落ち込む姿に年相応を感じた。
突然の変化に襲われて気を張っていたのかもしれない。どうにもこの生徒からはどこか大人を感じていたのだ。
「ねえ、君の話を聞かせてくれない?どんな所に住んでいたとか、好きなものとか、家族の話とか」
努めてゆっくりと言葉を紡ぐ。酷くエゴイスティックだけど、この生徒を子どもに戻してあげたかった。
「あまり、よく覚えてはいないんですけど、」
そう前置きをして監督生はぽつりぽつりと話し始めた。
その話の中の世界は私の知っている世界ととてもよく似ていてもしかしたら本当に同じ場所から来たのではないかと思うことができた。
そうしている内に監督生の声が段々と潤んでくる。時折言葉を選ぶように視線を彷徨わせ、何かを飲み込むように息を詰めた。
ポケットからハンカチを取り出して差し出す。
「涙を流すことは悪いことじゃないのよ。日本人はどうしても我慢しがちだけど」
「っ、あり、がとうございます……ぅ、え、」
ハンカチを顔に押し当ててしゃくりあげる。この子はどれほど我慢していたのだろう。入学式から今日まで一週間と少し。その間に一度でもこうして泣き声を上げたことはあったのだろうか。
さて、先に言い訳をさせてほしい。
ナイトレイブンカレッジの生徒達は何故だが知らないが顔面偏差値が異常に高い。その上、特にポムフィオーレ寮の子たちだと男の子だというのに綺麗な長髪を保っていたり、メイクアップをしていたりと女の子と見紛う子すらいる。だから、必ずと言っていいほど自分の目で見た事実よりも先入観の方が働いてしまうのだ。
つまり、その……
「間違っていたら悪いんだけど、君、あなた、ええと……」
「あ、あー……女、です。隠しているつもりは無いんですけど、皆にいちいち訂正してると色々他にも説明しなくちゃいけなくなるので、面倒で、つい」
たくさん泣いて、目元こそ真っ赤で未だ潤んではいるけれども落ち着いた監督生が困ったように笑う。
私の頭の中をいろいろなことが駆け巡った。
「とりあえず、学園長には抗議しておくわ。こんなところに女の子を住まわすなんて絶対におかしい」
女の子じゃなくても子どもを住まわすものじゃないのだけど。
明日から空いている時間に色々と要り用なものの準備を手伝うことを約束してお暇した。外はとっくに暗くなってしまっている。この付近は特に灯りが少ないのか一層暗く感じた。
「あれ」
「随分と時間がかかったな」
「先生、どうしたんですか?」
「帰りが遅かったからな。仔犬の様子に気を配るのも飼い主の責務だ」
そう言って踵を返す先生に小走りで追いつく。私も何かしらに気を張っていたのかもしれない。先生の近くに立って息をつく。
「どうだった」
「それが、私とはどうにも経緯が違うみたいで。でも、話の内容から考えると同じか、似たような場所から来たのは間違いないですね。色々お話できて楽しかったです」
「そうか」
石畳がコツ、コツ、と先生の足音を響かせる。ずっと長いこと踵の高い靴を履いてないことを思い出した。
「週末に買い物に行くことにしたんです。服とか買いに。学園長ってば体操着と制服しか渡してないんですよ?私のときもそうだったけど気が利かないというかなんというか」
「ああ」
「あ、そうだ!先生は監督生が女の子だって知ってたんですってね。教えてくれたっていいじゃないですか。もう、本当に皆さん、大事なことは私に何も教えてくれない」
「ふん、言ってどうなるものでもないだろう。それにお前ならすぐに気付くと思ったからな。Well done.思った通りだったな」
「それはそうですけど……もっと早く女の子だって気付いたら違う話もできたのに。お化粧の話とか服とか恋話とか」
ほんの少し前を歩く先生。こちらに振り返る様子のない背中に向けて話を続ける。
「色々お話したんですよ。彼女の住んでいたところ、名前を聞いたことはあるんですけど、私、行ったことなくて。本当は行く予定があったんです。友達か卒業後にそこに引っ越すって言ってたから遊びに行く約束してたんですよ。有名な観光地が近くにあるからって。美味しいって噂のカフェ調べたりしたんです。あ!新しいキャリーケース、ネットで頼んでたの忘れてた!お母さん、受け取ってくれてると思います?」
言いながら止めないとと思うのに、口は勝手に動き続ける。自由の利かないことに焦りを覚えてか変な汗をかいてきた。
先生は相変わらず振り向かない。
「部屋の掃除、途中だったんです。使わない参考書とかまとめておこうと思って。何もかも中途半端にしてきちゃった。どうしよう」
自分でも思った以上に頼りない声に笑ってしまう。は、と詰まった息を吐き出すみたいにして笑って、堪え切れなかった涙が落ちた。
隠さないと。先生に迷惑をかけちゃいけない。私は大人なんだから、先生なんだから、子どもみたいに泣くのは悪いことだ。
「仔犬が我慢なんかするものじゃない」
それなのに、先生はそんなことを言う。
奥歯を噛み締めて首を振った。
「俺が良いと言ってる。俺は言うことも聞けない駄犬を育てたつもりは無いが?」
「だ、って……だって、わた、わたし、っく、」
「泣け。無駄吠えなら叱るが、そうではないだろう」
「うう゛ぅぅ……」
歯を食いしばったまま、ぼたぼたと涙を零す。さぞかし不細工な顔をしてるだろうけど、先生は背中を向けたままだし他に見る人はいない。
「先生、ッ」
「どうした」
「涙、我慢しようとしたら、鼻水出るんですね」
「ふはっ、なんだそれは……まったく」
いい匂いがした。
先生と同じ匂いのするハンカチがぐしぐしと顔を拭う。さらさらのそれの値段が少しばかり気になったが、大人しくされるがままになった。
「いおり、お前は子どもだよ。俺の周りをきゃんきゃん鳴きながら駆け回る仔犬だ」
「もう成人してますし。お酒飲めるしタバコだって結婚だってできる」
「何?それは知らなかった」
「……怒りますよ」
じと、と睨むと先生は楽しそうに笑った。
「先生のコートで鼻水拭いてやる」
「ほぅ、俺の仔犬は余程おしおきされたいらしい」
「……次回は小テストします。授業開始後すぐに始めるからくれぐれも遅刻しないようにね。サバナクロー寮生はラギー・ブッチに伝えておいて。キングスカラーの出席がすでに大変なことになってますって。それと、オンボロ寮の監督生は授業後前へ。それでは、今日はここまで」
がたがたと音を立てながら去っていく生徒たちを見送る。ほとんどの生徒が出ていった頃に彼女は近寄ってきた。
「先生、昨日はありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ。ところで、朝、学園長のところに行ってきたんだけどね……むしろ女子だからこそ男だらけのこの学園で他の場所に住まわせることなんてできません!何かあったらどうするんですか!これでも心配してるんですよ。私、優しいので!とか宣いやがって……」
「あはは、先生、学園長のマネ上手いですね」
「ありがとう。嬉しくないけど。まあ、そういうわけなので申し訳無いんだけど当面はあの寮で我慢してもらってもいい?あ、修繕とか掃除とかは手伝うよ」
「本当ですか。ありがとうございます!」
「何か困ったことがあったら遠慮なく言ってちょうだいね。むしろ何もなくてもお茶とかしましょ!」
「是非!!」
こうして見ると、どうして気づかなかったんだろうと思うくらいに女の子だ。黒髪をショートカットにして、他の生徒と同じように制服を着ているからパッと見たら気付かないのかもしれないけど。
「それじゃあまた週末、寮にお邪魔するわ。まずは買い物!」
「はい、お待ちしてます!」
パタパタと小さな足音を立てて去っていく。もし私が今じゃなくて、彼女と同じくらいの歳でここに来ていたら、と思うとゾッとした。控えめに言っても、ここは女の子がたった一人でやっていけるような場所ではない。ふるりと頭を振って考えを払う。
今日の授業はこれでおしまい。今からは教師じゃない。もはやルーティーンのようにその言葉を頭の中で繰り返して教科書を片付ける。
とまあ、そんなわけで学園にいなかったものだから入学式で何が起こったかも、その生徒が一体何者なのかも知らなかったのは仕方ない。
「出席をとります……ええと、失礼。使い魔は仕舞っておいてちょうだいね」
「オレ様は使い魔じゃねーんだゾ!!」
こうして新学期最初の授業は喋る猫の暴動によってしっちゃかめっちゃかになった。元からオリエンテーションと自己紹介だけの予定にしておいて良かった。
「特殊な学生がいるなら先に言っておいてくださいよ……」
「ん?ああ、お前はいなかったのだったな。今年の一年には例年とは大きく違った生徒がいる。覚えておけ」
「遅いです、先生」
そもそも入学式に参列出来なかったのは先生のお遣いのせいだ。魔法学校の入学式……本当は私だって見たかったのに。そんな不満を頬の内側までに留めてジトリと先生を睨む。
「それで、どんな生徒なんですか」
卵焼きを一切れ口に放り込みながら尋ねた。
昼休みに先生の仕事部屋にお邪魔してお弁当を広げるのは数カ月前からの習慣。食堂の料理は美味しいのだけど、生徒達に絡まれたりオクタヴィネルの双子におかずを取られたりと落ち着いて食べられないと愚痴ったところ、先生の部屋で食べる許可がおりたのだ。職員寮に戻るより近くて安全でとても助かっている。
「俺も詳しくは知らんが、魔法が使えない、魔法の存在を知らない。完全にイレギュラーな存在だと聞いている」
ああ、と先生が声を上げた。
「似たような仔犬がどこかにいた気がするな」
片眉だけを上げてニィと嗤う。その顔にハッとした。
この世界に来てそろそろ一年が経ってしまう。最初の頃は学園長に戻る方法は見つかったのかとせっついていたけれどそれもいつからか止めてしまった。こんなに長い間探しても見つからないのであれば無いに違いない。諦めてここで生きる方法を……なんておりこうに考え始めていたところだ。
「先生、放課後のお約束、別日に変更してもらえませんか」
「明日の17時からなら可能だが」
「ではそれで」
弁当箱を片付けてから先生に深く頭を下げて部屋を出る。帰る手がかりが見つかるかもしれない。そうじゃなくても元の世界の話ができるかも……。
はやる気持ちを必死で抑えて廊下を歩く。この時間ならもう次の授業に行ってしまったかしら。何の心当たりもないまま廊下の窓から中庭を見る。なんだか少しだけ世界が明るく見えた。
「結局ノンアポになってしまった……」
学園の隅にあるギシミシと軋みが聞こえてきそうな建物。それがオンボロ寮なのだという。
うっすらと暗くなり始めた中で窓から灯りが漏れていた。
一度だけ大きく深呼吸をして扉を叩く。「はい」と小さく声が聞こえた。
「失礼。いおり いおりです。基礎教養の授業を担当している……監督生さんとお話がしたくて来たの。少しだけお時間いただけないですか?」
ぎぃ、と扉が開かれる。中から出てきたのは午前中の授業でも見た黒い髪の生徒。
「こんばんは……」
「こんばんは。約束も無しで来ちゃってごめんなさい。でもどうしても話がしたくて……」
「いえ、特に用事があるわけでもないので。あー……少し、いえ、大分汚いんですけど上がりますか?」
開かれた扉の隙間から見るに中もひどくオンボロらしい。
「前にいた学校の更衣室の方が汚かったから大丈夫。あ、これよかったら」
さすがに手ぶらでは来れないと思い持ってきたケーキの箱を渡す。中にはチョコレートケーキ、チーズケーキにイチゴのショートケーキ。学園の外のパティスリーで無難そうなのを3つ買ってきた。
パアァと瞳を輝かせる監督生にホッと胸を撫でおろし寮に足を踏み入れる。
片付いているのが一室しかないということで私室に招かれる。歩くたびにギシギシと鳴る廊下。学園長がここをあてがったと聞いているが、本当にこんなところで生活させるつもりだろうか。
「どうぞ」
「お邪魔します」
招かれた部屋はまだほんのりと湿気を感じるものの、他の場所と比べると段違いに片付けられていた。いっそアンティークにすら見える椅子の一つに腰掛けると、監督生がお茶を持ってきてくれた。
「食器類は洗ってるので!」
「ありがとう。それにしても……こんなところで大丈夫?」
「大丈夫です!とは言えないんですけど行くとこもないので、置いてもらってるだけで万々歳ですかね」
困ったように笑う顔に心配が大きくなる。
「君の事情については本当に簡単にだけど聞いてます。魔法のない世界から来たって」
「はい。黒い馬車の記憶はあるんですけど、その後は……気付いたら棺桶の中にいて、それで」
黒い馬車、棺桶。知らない情報が入ってくる。どうやら私とは少し状況が違うらしい。
手がかりになりそうもないことにほんの少しだけがっかりしつつ、それでもやっぱりこの世界と無関係な仲間が出来たようで嬉しくなる。
「私もね、こことは違う世界から来たの。私は電車に乗ってたら急に……って感じだったんだけど。だから君と、違う世界の話なんかできたら楽しいと思って来たってわけ」
「先生も!?あの、もしかして戻る方法とか、」
ガタン、と身を乗り出す監督生に首を振って見せる。
「そう、ですか……」
目に見えて落ち込む姿に年相応を感じた。
突然の変化に襲われて気を張っていたのかもしれない。どうにもこの生徒からはどこか大人を感じていたのだ。
「ねえ、君の話を聞かせてくれない?どんな所に住んでいたとか、好きなものとか、家族の話とか」
努めてゆっくりと言葉を紡ぐ。酷くエゴイスティックだけど、この生徒を子どもに戻してあげたかった。
「あまり、よく覚えてはいないんですけど、」
そう前置きをして監督生はぽつりぽつりと話し始めた。
その話の中の世界は私の知っている世界ととてもよく似ていてもしかしたら本当に同じ場所から来たのではないかと思うことができた。
そうしている内に監督生の声が段々と潤んでくる。時折言葉を選ぶように視線を彷徨わせ、何かを飲み込むように息を詰めた。
ポケットからハンカチを取り出して差し出す。
「涙を流すことは悪いことじゃないのよ。日本人はどうしても我慢しがちだけど」
「っ、あり、がとうございます……ぅ、え、」
ハンカチを顔に押し当ててしゃくりあげる。この子はどれほど我慢していたのだろう。入学式から今日まで一週間と少し。その間に一度でもこうして泣き声を上げたことはあったのだろうか。
さて、先に言い訳をさせてほしい。
ナイトレイブンカレッジの生徒達は何故だが知らないが顔面偏差値が異常に高い。その上、特にポムフィオーレ寮の子たちだと男の子だというのに綺麗な長髪を保っていたり、メイクアップをしていたりと女の子と見紛う子すらいる。だから、必ずと言っていいほど自分の目で見た事実よりも先入観の方が働いてしまうのだ。
つまり、その……
「間違っていたら悪いんだけど、君、あなた、ええと……」
「あ、あー……女、です。隠しているつもりは無いんですけど、皆にいちいち訂正してると色々他にも説明しなくちゃいけなくなるので、面倒で、つい」
たくさん泣いて、目元こそ真っ赤で未だ潤んではいるけれども落ち着いた監督生が困ったように笑う。
私の頭の中をいろいろなことが駆け巡った。
「とりあえず、学園長には抗議しておくわ。こんなところに女の子を住まわすなんて絶対におかしい」
女の子じゃなくても子どもを住まわすものじゃないのだけど。
明日から空いている時間に色々と要り用なものの準備を手伝うことを約束してお暇した。外はとっくに暗くなってしまっている。この付近は特に灯りが少ないのか一層暗く感じた。
「あれ」
「随分と時間がかかったな」
「先生、どうしたんですか?」
「帰りが遅かったからな。仔犬の様子に気を配るのも飼い主の責務だ」
そう言って踵を返す先生に小走りで追いつく。私も何かしらに気を張っていたのかもしれない。先生の近くに立って息をつく。
「どうだった」
「それが、私とはどうにも経緯が違うみたいで。でも、話の内容から考えると同じか、似たような場所から来たのは間違いないですね。色々お話できて楽しかったです」
「そうか」
石畳がコツ、コツ、と先生の足音を響かせる。ずっと長いこと踵の高い靴を履いてないことを思い出した。
「週末に買い物に行くことにしたんです。服とか買いに。学園長ってば体操着と制服しか渡してないんですよ?私のときもそうだったけど気が利かないというかなんというか」
「ああ」
「あ、そうだ!先生は監督生が女の子だって知ってたんですってね。教えてくれたっていいじゃないですか。もう、本当に皆さん、大事なことは私に何も教えてくれない」
「ふん、言ってどうなるものでもないだろう。それにお前ならすぐに気付くと思ったからな。Well done.思った通りだったな」
「それはそうですけど……もっと早く女の子だって気付いたら違う話もできたのに。お化粧の話とか服とか恋話とか」
ほんの少し前を歩く先生。こちらに振り返る様子のない背中に向けて話を続ける。
「色々お話したんですよ。彼女の住んでいたところ、名前を聞いたことはあるんですけど、私、行ったことなくて。本当は行く予定があったんです。友達か卒業後にそこに引っ越すって言ってたから遊びに行く約束してたんですよ。有名な観光地が近くにあるからって。美味しいって噂のカフェ調べたりしたんです。あ!新しいキャリーケース、ネットで頼んでたの忘れてた!お母さん、受け取ってくれてると思います?」
言いながら止めないとと思うのに、口は勝手に動き続ける。自由の利かないことに焦りを覚えてか変な汗をかいてきた。
先生は相変わらず振り向かない。
「部屋の掃除、途中だったんです。使わない参考書とかまとめておこうと思って。何もかも中途半端にしてきちゃった。どうしよう」
自分でも思った以上に頼りない声に笑ってしまう。は、と詰まった息を吐き出すみたいにして笑って、堪え切れなかった涙が落ちた。
隠さないと。先生に迷惑をかけちゃいけない。私は大人なんだから、先生なんだから、子どもみたいに泣くのは悪いことだ。
「仔犬が我慢なんかするものじゃない」
それなのに、先生はそんなことを言う。
奥歯を噛み締めて首を振った。
「俺が良いと言ってる。俺は言うことも聞けない駄犬を育てたつもりは無いが?」
「だ、って……だって、わた、わたし、っく、」
「泣け。無駄吠えなら叱るが、そうではないだろう」
「うう゛ぅぅ……」
歯を食いしばったまま、ぼたぼたと涙を零す。さぞかし不細工な顔をしてるだろうけど、先生は背中を向けたままだし他に見る人はいない。
「先生、ッ」
「どうした」
「涙、我慢しようとしたら、鼻水出るんですね」
「ふはっ、なんだそれは……まったく」
いい匂いがした。
先生と同じ匂いのするハンカチがぐしぐしと顔を拭う。さらさらのそれの値段が少しばかり気になったが、大人しくされるがままになった。
「いおり、お前は子どもだよ。俺の周りをきゃんきゃん鳴きながら駆け回る仔犬だ」
「もう成人してますし。お酒飲めるしタバコだって結婚だってできる」
「何?それは知らなかった」
「……怒りますよ」
じと、と睨むと先生は楽しそうに笑った。
「先生のコートで鼻水拭いてやる」
「ほぅ、俺の仔犬は余程おしおきされたいらしい」
「……次回は小テストします。授業開始後すぐに始めるからくれぐれも遅刻しないようにね。サバナクロー寮生はラギー・ブッチに伝えておいて。キングスカラーの出席がすでに大変なことになってますって。それと、オンボロ寮の監督生は授業後前へ。それでは、今日はここまで」
がたがたと音を立てながら去っていく生徒たちを見送る。ほとんどの生徒が出ていった頃に彼女は近寄ってきた。
「先生、昨日はありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ。ところで、朝、学園長のところに行ってきたんだけどね……むしろ女子だからこそ男だらけのこの学園で他の場所に住まわせることなんてできません!何かあったらどうするんですか!これでも心配してるんですよ。私、優しいので!とか宣いやがって……」
「あはは、先生、学園長のマネ上手いですね」
「ありがとう。嬉しくないけど。まあ、そういうわけなので申し訳無いんだけど当面はあの寮で我慢してもらってもいい?あ、修繕とか掃除とかは手伝うよ」
「本当ですか。ありがとうございます!」
「何か困ったことがあったら遠慮なく言ってちょうだいね。むしろ何もなくてもお茶とかしましょ!」
「是非!!」
こうして見ると、どうして気づかなかったんだろうと思うくらいに女の子だ。黒髪をショートカットにして、他の生徒と同じように制服を着ているからパッと見たら気付かないのかもしれないけど。
「それじゃあまた週末、寮にお邪魔するわ。まずは買い物!」
「はい、お待ちしてます!」
パタパタと小さな足音を立てて去っていく。もし私が今じゃなくて、彼女と同じくらいの歳でここに来ていたら、と思うとゾッとした。控えめに言っても、ここは女の子がたった一人でやっていけるような場所ではない。ふるりと頭を振って考えを払う。
今日の授業はこれでおしまい。今からは教師じゃない。もはやルーティーンのようにその言葉を頭の中で繰り返して教科書を片付ける。