【解放者-act.2-堕天使の翼-】

人間の体には、たとえば足裏のように、他人に触られると思わず反応してしまう箇所がある。
悟飯にとっては、上唇がまさにそれだった。
その過敏な部分を舐め取られて抵抗力を削がれた一瞬にベッドに押し倒されても、まさしく不可抗力としか言いようがなかった。
もつれ込むようにベッドに倒れた衝撃で顎が上がった刹那、弟の唇が完全に悟飯の唇を覆い、そこから弟は悟飯の支配者となった。
それは、長い、長いキスだった。
弟は逃げる悟飯の舌を執念深く追いかけては、口内で執拗に愛撫した。
父より薄い舌がぬめぬめと悟飯の舌に纏わりつき、絡みつき、僅かな時間も離れることは敵わなかった。
この間にも悟飯は弟の支配から逃れる術を何度も試みたが、その度に強い力で捩じ伏せられ、悟飯の脱出計画は悉く失敗に終わっていた。
また、悟飯にとって不幸なことに、この時は体勢の悪さも災いした。
座った姿勢から押し倒された為に、全体重をかけて悟飯にのしかかる有利な体勢の弟と違って悟飯は膝から下が折れ曲がっており、弟に対抗するには上半身の力のみに頼らざるを得なかったのだ。
もしも、父の失踪後も食事さえきちんととれていたならば、このような不利な体勢の状況下であっても、現時点で戦闘力に歴然とした差があるとは思えない弟に抗い得た筈なのだ。
だが、まともに食事をとれていなかったせいで筋肉も体力もハイスクールの頃とは比較にならないほど落ちた今となっては、単純な腕力だけなら最盛期の弟に敵うべくもない。
しかも、悟飯が弟に抵抗できなかった理由はそれだけではなかった。
悟飯の舌を這い、悟飯の舌裏に潜り込み、悟飯の歯列や歯茎をなぞる緩急をつけた様々なテクニックが生み出す快感の波に、悟飯の意識が呑まれてしまったのだ。
もちろん、女の子との健全なデートの経験しかない弟が、巧妙な舌技の持ち主だったわけではない。
この時の弟は夢中で悟飯の舌を味わっていただけだったそうなのだが、それでも同性からの支配に慣れきった悟飯には充分だった。
頭の中が何度も小さく弾け、複数のミミズが背筋を這うような電気が背中を昇っては筋肉の落ちた悟飯からさらに腕力を奪っていった。
弟の指が一周するほどやせ細った手首はどんなに力を篭めようとも情けないほど小刻みに震えるだけでものの役にも立たずに悟飯を失望させ、長いキスの間に幾度となく呼吸が止まったせいで低酸素症を引き起こしかけた脳は次第に麻痺してゆき、悟飯は途中から考えることすら諦めてしまった。

「んんっ!・・・っんっ・・・!ん、んっ・・・!」

呼吸が止まって何度目のことだったか、舌の先に歯を立てられた悟飯は、弟を乗せたまま腰を浮かせて立て続けに甲高い悲鳴を上げていた。
この間、脳内では連続で火花が散り、全身が痙攣を起こして止まらなかった。
弟もまた、悟飯が息もできずにいるのを承知している筈なのに、いつまで経っても甘噛みを止めようとはしなかった。
それはほんの数秒のことだったかも知れないが、まるで快楽の拷問を受けているような悟飯には、ひどく長い時間に感じられた。
そうしてそろそろ肺の中の空気が尽きかけようとした頃になって、ようやく弟は悟飯を解放したのだった。
解放直後も、脳内に閃光が走っている間は、悟飯の呼吸も思考も止まったままだった。
10年も逢瀬を重ねた父とすら、こんなに長いキスは経験がなかった。
やがて、数秒の時を経て火花が収まり始めると生存本能が働き、体内から失われた酸素を求めて悟飯は喘ぎ出した。
このキスで反応した悟飯自身は、瞳の端に涙の玉が浮かぶほど苦しい状態でも萎えることを知らず、器官に空気が流れ込むひゅうひゅうという耳障りな音を聞きながら、悟飯はいつの間にかここまで快感に弱くなった己を情けなく思わずにいられなかった。
しかも、愚かにも弟を相手に、こんな。

「俺ももう子供じゃないから、大人のやり方で兄ちゃんを慰めてあげる」

苦しい喘ぎが深呼吸に変わって冷静さを取り戻しつつある悟飯の耳もとで、弟は妖しい声音で囁いた。

「・・・冗、談・・・言う、なっ・・・」

囁き声と共に弟の唇から吐き出された息が耳朶を揺らし、悟飯にはたった一言を切れ切れに吐き捨てるのがやっとだった。
どういうつもりで弟がこんなことを始めたのかわからないが、男同士の行為を弟がどこまで知っているのか、どこまで踏み込んでくるつもりなのかも判然としないが、今ならまだ冗談で済ませられる。
そうして今日の出来事をなかったことにしてしまえば、悟飯がこれまでのように気軽に弟の部屋を訪れられなくなっても、また以前の仲の良い兄弟に戻れる。
悟飯が咽喉の奥から絞り出した一言には、そんな願いも篭められていた。

「俺は本気だよ」

だが、弟は、悟飯の甘い考えを否定する力強さできっぱりと宣言した。
今いちばん聞きたくなかった言葉だと思うや否や弟の舌が耳裏を這い、悟飯は再び躰を硬直させた。
弟はそのまま悟飯の耳を喰むと舌と唇で首筋をなぞり始め、いつの間にか悟飯の手首を開放した片方の手をTシャツの中に潜り込ませてきた。
この段階になって、片手が自由になっていたことと、自身の着衣が乱れていることに悟飯は初めて気がついたのだった。
考えるまでもなく、さきほど悟飯が生存をかけて必死に呼吸をしていた間に、弟は次のステップに進む為の準備をしていたのだとわかった。
その弟の手が腹部から胸部に向かって伸びてくるのを阻止すべく、悟飯が力の抜けた手で弟の手首を捉えると、弟の真摯な瞳とかち合った。

「好きだよ、兄ちゃん。小さい頃から、ずっと兄ちゃんが好きだった」

想像すらつかなかった弟の突然の告白に、悟飯は己が信じていた世界が壊れる音を聞いていた。
まるで硝子のようにキラキラと反射しながら粉々に砕け散ってゆく欠片のひとつひとつには、弟が生まれてから今日までの弟との思い出が映し出されていた。
無邪気な笑顔、甘えた声、好奇心に満ちた輝く瞳、可愛らしい愛情表現。
いくつもの弟の姿、いくつもの弟の時代、いくつもの弟との歴史。
あの輝いていた日々の記憶は、今でも色褪せないまま美しい。
だが、悟飯の天使は、悟飯が信じていたのとは別の姿を擁していた。

「だから、俺が、お父さんからもセルゲームのトラウマからも兄ちゃんを開放してあげたいんだ。お父さんからされた仕打ちもセルゲームでのことも忘れたら、きっと兄ちゃんは元気を取り戻してくれる。俺は馬鹿だから、こんな方法しか思いつかなくてごめん・・・。だけど、もっと早くにこうするべきだった。・・・兄ちゃんがこんなに痩せちゃう前に」

弟のこの衝撃的な発言に、悟飯は目の前が真っ暗になった。
まさかそんな、と信じられない思いと、弟の言葉の整合性を図る思考回路とが齟齬を起こし、悟飯の混乱は歯止めが利かなかった。

「・・・お・・・前・・・、知、って・・・」

戦慄く唇から吐き出された問いは情けないほど震え、驚愕に硬直した咽喉から発した声も、ふたりの鼓膜に響くのがやっとなほど掠れていた。

「うん、知ってたよ、何年も前から」

それでも弟の耳は悟飯の声をしっかりと拾っていたようで、弟は悟飯とは正反対の落ち着き払った声でそう言った。
弟は父との関係を知っていた。
父と関係しているのを、弟に知られていた。
よりにもよって、我が家の天使と大事に育ててきた可愛い弟に。
しかも、弟が知ったのは何年も前のことともなれば、それがいつのことだったのか、何がきっかけだったのかが気に病まれて仕方がなかった。

「初めて知った時は、すごくショックだった。・・・俺の好きなひとが、俺とは違う男に抱かれてたんだからさ・・・。正直なこと言って、お父さんにも兄ちゃんにも裏切られた気分だったよ。今まで俺が信じていたものは何だったのかって・・・。俺が知ってた世界が崩壊したような気がして、苦しかった時期もあった」

弟の苦しい打ち明け話の途中から、悟飯は知りたくなかった己の過去の罪業から瞳を背けていた。
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