【解放者-act.2-堕天使の翼-】

こうして父の失踪から時間が経てば経つほど、悟飯の思考は段階を追ってネガティブさを加えていった。
『たまには戻る』と言った父が、待てど暮らせど悟飯のもとに事情の説明に現れなかったのも、悟飯の精神の不安定さを助長させる原因となった。
この、父を待っていた間に己が何をしていたのかは、未だによく思い出せない。
研究所で行われていた研究内容と、その成果すらも。
あの当時は食事をとれていたのかも、眠れていたのかも覚えていない。
ただ、あの日から何を食べても味がせず、どんなに美味しそうな料理からも香りすらしなかったのは記憶の片隅に残っている。
固形物を飲み込もうにも、咽喉がそれを拒絶していたのも。
もしかしたら、正気すら半分失っていたのかも知れなかった。
ある時、そんな悟飯を見かねた弟から、悟飯は涙の洗礼を受けた。
弟の試験勉強を見てやって欲しいと母から頼まれて弟の部屋を訪ねた際に、悟飯の心身の健康を憂慮した弟と口論に近い押し問答の果てにベッドに押し倒され、いつまで経っても過去に囚われ続ける咎を諫められたのだった。
周囲と同じく、悟飯にセルゲームでのトラウマが蘇ったと信じて疑わない弟からどんなに慰められ、励まされ、宥めすかされても、弟の声は鼓膜を揺さぶれども悟飯の心には響かなかった。
そんな、兄を慮る言葉の数々がすべて悟飯の心の壁に阻まれて砕け散ってゆく虚しさに、弟の顔はまるで夕立前の空模様のようにみるみる曇っていった。
その様子を下からただ無感情に眺めているだけの悟飯に、やがて弟は、傍にいてやれないと悟飯の師匠と親友が嘆いていたけど、と前置きをしてから、絶望感を宿した声でぽつりと呟いた。

『・・・傍にいて、どんどんおかしくなっていく兄ちゃんを見てる方もツライよな・・・』

そう言ったきり、何もかもを諦めてしまったような沈痛な面持ちで項垂れた弟の涙の雨が悟飯の頬に降り注ぎ、その涙の温かさが、氷のように凍りついた悟飯の心を徐々に溶かしていった。
父が失踪して以来、目の前の出来事に初めて悟飯の心が反応した瞬間だった。

『兄ちゃんの世界には、お父さんしか住んでいないの!?お父さんが家を出てったからって、兄ちゃんには俺たちまでいなくなっちまうのかよっ!!』

父が姿を消してから何も映さなくなった悟飯の心に向かってそう叫んだ弟の声が、悟飯には魂の底から絞り出されたもののように感じられた。
そうして、ようやく思い出したのだ。
悟飯が傷つけば弟が悲しむのを。
悟飯が悲しめば弟が傷つくのを。
この時、悟飯は自身が暗く長いトンネルからようやく出口に向かって歩き始めたのを感じていた。
弟の純粋な優しさが足元を照らす灯火となって、悟飯を出口へと導いてくれたのだ。
弟は、こんな不甲斐ない兄を見放さず、今だに愛し続けてくれていた。
その弟の為に、今度も悟飯は立ち直らなければいけなかった。
以前と同じように。
記憶の底に沈んだ出来事とこの日の一件が重なり合った刹那、悟飯は弟の首に腕を回して泣きじゃくっていた。
それまで冷えた心の奥底に封印されていた様々な感情が一度に押し寄せてきて、涙をこらえるどころか、嗚咽を漏らすことすら我慢できなかった。
弟はそんな悟飯を優しく抱き締めると懸命に慰めてくれ、弟の腕のぬくもりにますます涙が止まらなくなった悟飯は、弟の名前と弟への謝罪の言葉を繰り返しながらいつまでも泣き続けた。

『いっぱい泣いていいよ。今日のうちに、いっぱい泣いておきなよ。明日の分も、明後日の分も・・・。俺がずっと、こうしていてあげるから。だから、泣き終わったらちゃんと寝るんだよ。今夜はぐっすり寝て、起きたらしっかり朝ごはんを食べて、笑って“行って来ます”って言うんだよ。・・・わかった?』

優しく、これ以上もなく優しく、まるで感情をコントロールできなくなった子供をあやすような口調で弟はそう言い、悟飯もまた、子供みたいに何度も頷いた。
それからどれほどの時間が経ったのか定かでないが、いつのまにか悟飯は弟の腕の中で眠っていた。
翌朝になると、悟飯の次に目覚めた弟が部屋まで食事を運んでくれて、悟飯はそれらを、行儀悪くもベッドの上で食した。
相変わらず固形物は嚥下が難しかったが、あっさりとしたスープの味が優しかったのは、今でも覚えている。
こうして二度に渡って弟に救われた悟飯は、それからというもの時間を作っては弟の部屋を訪ねるようになった。
弟もまた、悟飯を安心させるように、ことあるごとにスキンシップを図ってきた。
そのスキンシップに悟飯が違和感を覚えたのは、弟の幼い頃の慣習だった『おやすみなさい』のキスが、額からこめかみに移動した時だった。
失恋した弟を慰めると仮定して、果たして自分は弟のこめかみにキスなどするだろうかとの疑問を抱いた悟飯は、近親者すらも性愛に対象にしてしまうサイヤ人の血を、弟も受け継いでいるのを思い出した。
だが、弟との兄弟愛を精神的支柱としていたこの頃の悟飯は、僅かに芽生えた弟への警戒心と、容姿が似ているからといって性的嗜好まで父と同じとは限らないではないか、との懐疑の間で揺れながらも、弟の部屋へ向かう足を止めることができなかった。
もともと弟とは仕事が忙しい時期には顔を合わせる機会も少なく、悟飯が弟の部屋に滞在する時間も短かったのだ、有事に至る可能性を考慮する必要性など考えるだけでも馬鹿馬鹿しい。
自身にそう言い聞かせて。
その馬鹿馬鹿しい可能性よりも、己が信じたいものを信じていただけの愚を犯していたのだと悟飯が思い知ったのは、悟飯の食欲と体重がもとに戻りつつある頃だった。

「心配してくれる気持ちは嬉しいけど、こういうのはもうよさないか?お前も高校生になったんだし、僕もいい歳の大人だ。子供じゃないんだから、ここまでしてくれなくていい。・・・僕なら、もう大丈夫だから」

その日、頬にキスをされた悟飯は、ベッドの上に横並びに座る弟の胸を軽く押しやってそう宣告した。
異国ではただの挨拶であっても、あいにく悟飯の周りには日常的な挨拶として親しい者の頬へキスをする習慣がある人物は存在しない。
また、弟の幼い頃には珍しくもない愛情表現であっても、弟の成長と共にいつの間にかなくなっていった慣習なのだ、この歳になってまで兄弟間で行われるのは不自然なことに思われた。
父を失った傷心の悟飯を慰めるのが目的である点を差し引いても、行き過ぎた行動との感はどうしても否めない。
たとえ兄の拒否反応に弟が傷ついたとしても、ここは毅然とした態度を押し通すべきだと思った。
ところが、弟は傷つくどころか、一瞬だけ驚きに目を丸くした後でにやりと不敵に笑うと、
唖然とした悟飯の隙をついて今度は唇を合わせてきた。
予測もしない突然の出来事に悟飯は瞬時に対応できず、弟はそんな悟飯の口内に楽々と侵入を果たすと無遠慮に舌を絡め取った。

「んんっ・・・!」

口内でぬるりと蠢く弟の舌に眉間の奥で火花が散り、悟飯は咄嗟の抵抗も忘れて悲鳴に似た甲高い声を上げていた。
はっと我に帰った悟飯が弟の体を少しでも己から遠ざけようと腕を突っぱねると、弟は悟飯の両手首を難なく掴んで高らかにこう宣言した。

「無駄だよ。今じゃあ、俺の方が強い」

弟のこの発言は単純な腕力と戦闘力とどちらを指してのことなのかと、さきの行動と相俟って言葉の意味を探って混乱した悟飯は、このような状況下にありながら、愚かにも瞬間的に弟への警戒を怠った。
すると、悟飯の動きが止まった間隙を狙った弟が再び動き出し、悟飯は今度こそ弟の唇から逃れるべく、可能な限り首を捻ってそっぽを向いた。
だが、弟は諦めなかった。
横から悟飯の唇の端を捉えた弟の舌さきが僅かな隙間から入り込んで上唇をなぞり、悟飯はぎくりと躰を硬直させた。
2/7ページ
スキ