【解放者-act.2-堕天使の翼-】


「ふぅ・・・」

PCのデータの上書き保存が終わると同時に、悟飯は『肩の荷が下りた』と言わんばかりの大きな嘆息を漏らした。
触らずとも、首から肩、肩甲骨にかけて筋や筋肉が張っているのがよくわかる。
その凝りをほぐすように組んだ両手を天に向かって高く掲げると、悟飯は後ろに反らせて大きく伸びをした。
メモに残した研究成果のデータを文章化して、研究所から持ち帰ったUSBメモリーに保存したら、今日の作業は終わり。
帰宅時間が幾分か早かったこともあり、時計の針が天辺にくるまでまだまだ余裕がある時刻だった。
この時間なら、妻と会話を楽しみながらのコーヒーブレイクも可能だろう。
父親と入浴を済ませたばかりの幼い娘を寝かせつけている妻が寝落ちしていなければ、が前提ではあるけれど。
肩と腕の力を抜いた悟飯が聞き耳を立てると、屋内には静寂が広がっていた。
そもそも分厚い防音壁に囲まれた悟飯の書斎は、生活音ていどの物音はすべて遮断する。
その効果は、悟飯が悲鳴を上げても妻が眠る寝室には届かないほど絶大なのだ、耳をすませたところで妻が起きているかどうかがわかるわけなどなかった。
もっとも、どれほど時間的余裕があろうとも、今の悟飯は妻とコーヒーブレイクを楽しむ気分ではない。
悟飯は窓辺に寄るとそっとカーテンを開いて、夜の暗がりに外の様子を窺った。
だが、どれほど目を凝らしてみても、悟飯のお目当てのものは確認できなかった。
そうと知りながら、悟飯は夜毎、この確認作業を行わなければ気が済まない。
弟の部屋に、明かりが点っているかどうかを。
悟飯の住まいは,生家と向かい合わせではなく、横並びに建てられている。
故にどれだけ書斎の窓から外を窺おうとも、水平線上に位置する弟の部屋の窓など見えるわけがないのだ。
理屈ではわかっているのに、悟飯の心は弟に安らかな眠りが訪れているのかどうかを、確認したくて堪らない。
一日も早く立ち直って欲しい、との願いを篭めて。
あの夜の翌朝から、悟飯はまともに弟の顔を見ていなかった。
いや、見られなかったと表現した方が相応しい。
弟が激しく落ち込んでいる原因は、他ならぬ悟飯自身にあるからだ。
だが、どんなに弟が傷つこうとも、悟飯の心は既に決まっていた。
なんと自分勝手なことだろう。
何度も弟に救いの手を差し伸べられておきながら、あの一途な想いに応え切れないまま一方的に終わりを告げるなんて。
なんて卑怯な。
悟飯は、昨日とその前と同じく見えない弟の部屋の明かりを探すのを諦めると、窓に額を押し当ててギュッと眼を瞑った。
どれだけ弟の身を案じたところで、何ができるというのか。
今の悟飯には、食事の際に躰に絡みつく弟の視線を振り切って、我が家に逃げ帰るのが精一杯だった。
罪悪感に押し潰されそうな背中に、弟の縋りつくような眼差しを感じながら。
悟飯は窓から離れると、デスクの上のコーヒーカップを掴んで、中の黒い液体を乾いた咽喉に流し込んだ。
作業に集中していた間に放置されていたコーヒーはすっかり冷め、当然のことだが、淹れたての香りも熱も既に失われていた。
それでも、口内に広がる苦味だけは相変わらずだった。
この苦味を損なわないように、悟飯は砂糖もミルクも使用せずに堪能するのを好んだ。
だが、いつもなら美味に感じる苦味が、今は何故か苦々しい。
弟に愛されている喜びにあんなに甘かった日常が、苦い思い出に変わった悟飯の心のように。
かつて悟飯は、二度弟に救われた。
一度目は弟が誕生した時だった。
あの当時は新たな家族が増えたことでそれまで静かだった孫家の生活は一変し、慌ただしい日々が続いていた。
2・3時間おきの授乳に頻繁なおむつ替え、オシメの洗濯と母は赤子の世話に追われ、悟飯も可能な範囲で睡眠と体力の足りない母をサポートした。
そうこうしているうちに次第に母からも悟飯からも父を亡くした喪失感が薄れてゆき、代わりに弟を育てる楽しさと、弟の成長への喜びが我が家を満たしていった。
セルゲームで失った父の名が出る度に暗い顔を見せていた母とも、気づけばいつの間にか笑顔で父の思い出話に花を咲かせられるようにもなっていた。
父の死に、ともすれば沈みがちだった我が家に、弟は笑顔と幸せを運んでくれたのだ。
決して比喩などではなく、弟は天使だった。
その天使を、悟飯は困らせて泣かせてしまったことがあったのだ。
きっかけは弟の幼馴染の家庭の、父親の存在だった。
家族と同じ屋根の下に住まう幼馴染の父を見た弟に、どうして我が家には父親がいないのかと問われた悟飯は、父はセルという怪物から地球を守って命を落としたのだと説明しながら、己が弟から父を奪った罪悪感に苛まれて泣き出していた。
日頃から父の人物像について語って聞かせていたものの、父の不在の理由を弟に話したのはこの時が初めてだった。
話の途中で様々な感情と忌まわしい記憶が蘇り、まだ子供だった悟飯は込み上げる想いと涙をどうにも堪えきれなくなって、幼い弟の前でみっともないくらいに泣きじゃくった。
そうして悟ったのだ。
弟の誕生の喜びに隠れて、自身が未だに父の死から立ち直れていなかったのを。
弟はそんな悟飯の頭を小さな手で撫で、体ぜんたいを使って抱き締めると、泣きながら何度も『ごめんなさい』と繰り返した。
自分が兄を泣かせてしまったと、勘違いしたらしい。
この日を境に、弟は父親が傍にいる幼馴染を羨ましがらなくなった。
反対に弟の幼馴染は、いつからか兄のいる弟をしきりに羨ましがるようになった。
悟飯自身も、この出来事を機に真の意味で立ち直る決心をしたのだった。
悟飯の涙が弟を傷つけると知ったからだ。
そうして父との行為の内容も思い出さなくなった頃、父は再び地球を守る為に他者の寿命を与えられ、現世に生き返った。
7年ぶりに我が家に帰宅した夜、父は当然の権利とばかりに悟飯の部屋を訪れた。
それから10年もの間、悟飯の結婚を機に逢瀬の機会は減ったものの、父と悟飯の関係は続いた。
父の失踪の前日も、父は悟飯の書斎にいたのだ。
あの夜も、父は普段と変わりはなかったと思う。
もともと『好きだ』の『愛してる』だのといった言葉なくしてスタートした関係だったから、行為の最中に甘い囁きはなくとも、あの時の悟飯は微塵の不安も抱いてはいなかった。
ところが、いつものように激しく抱き合った翌日、父は別の少年を連れてとつぜん行方をくらませた。
あんなに愛し合ったばかりなのにも関わらず。
何がいけなかったのか、何が悪かったのかと自問自答すればするほど、父を蔑ろにしていると誤解されても仕方がないくらいに逢える時間を作れなかったことが悔やまれた。
当然の結果か。
これまで父を疎ましがったことなど一度もなかったのだが、父にはそう思わせてしまっていたのだろう。
逢える頻度がもっと高かったならば、父は己のもとを離れなかっただろうか。
どんなに無理をしてでも、もう少し逢える時間を確保できなかったものだろうか。
あの時もこの時も、笑顔で許してくれていた父の心境を、十分に慮ってあげられていなかったのだろうか。
そもそも悟飯の結婚を、父は心から祝福してくれていたのだろうか。
考えても考えても悟飯の思考は同じところを延々と堂々巡りして、自身の心を納得させる答えは一向に得られないまま時間だけが過ぎていった。
挙句の果てには、学者を目指したことですら父の期待に背いていたのではないかとまで思い悩み始めた頃、あるひとつの疑念が次第に悟飯の脳と心を蝕むようになっていった。
父は今頃、あの少年とただならぬ関係になっているのではないか、と。
思えば悟飯も、あの少年と同じ年頃で初めて父に抱かれたのだ、あの少年が父の性愛対象になったところで何ら不思議はない。
もしかしたら、精神と時の部屋で過ごしたあの日々のように。
と、精神と時の部屋での己と少年を重ね合わせて、眠れぬ夜を過ごしたこともあった。
ひょっとすると父は、ただの少年好きだったのではないだろうか。
そんな疑問がふと脳裏を過ぎってからは、少年とはほど遠い容姿と年齢の己を呪い、悟飯は自身の手で我が身を引き裂いてしまいたいくらいの憎悪に苦しんだ。
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