【trap-後編-】
















「遅かったですね、あなた達。随分と待ちましたよ」

3人が室内プールの鍵の返却に教員室まで足を運ぶと、政経の教師は既に担当サークルの監督を終えてスーツに着替えた後だった。
3人が一斉に時計に目を遣ると校門の施錠時間を幾ばくか過ぎており、施錠前の校舎内の見回りに警備員が室内プールまで足を伸ばさなかったことを、3人は幸運に思った。
おそらくは、室内プールを使用するクラブやサークルが存在しないことから、警備員は校舎内から室内プールに電気が点いていないのを確認しただけなのだろう。
そもそもこの時間における警備員のチェック項目は、スポーツ施設と教員室に人が残っていないかと、各教室の電気の消し忘れくらいであった。
校内の本格的な警備点検は、これよりもっと遅い時刻に行われる。
目下のところ彼らの希望は、残業中の教員や後片付けに遅れたサークル関係者に帰宅を促し、校門の施錠という任務を終わらせて人心地つくことだった。
その為、この時間になってもまだ帰路につかない政経の教師は、警備員に帰宅を催促されたのだろう、口もとに笑みを浮かべているものの、見る者の背筋を凍らせるに足る冷たい眼差しには、僅かな怒りが滲んでいた。

「おや?そちらは孫悟飯さんじゃありませんか。あなたも彼らと一緒だったのですか?」

だが、不気味に赤く光る瞳は、大きな体躯のバータの影に隠れた悟飯の姿を認めた途端、たちどころに怒気が消え失せていつもの表向きだけの柔和さを取り戻した。
政経の教師の瞳の変化に、ジースとバータのふたりは、どうやら悟飯が教師陣にも評判の優等生らしいことを悟った。

「悟飯ちゃんは携帯を更衣室に落としちゃったんで、ネズミの穴のついでに俺たちも一緒に探してたんですよ」

「そうですか。それでこんな時間までかかってしまったというわけなんですね。それで、肝心の携帯は見つかったのですか?」

「ええ、バッチリ!実は悟飯ちゃんの携帯のおかげで、ネズミの穴も発見しまして」

「見つけたのは悟飯ちゃんだったけどね」

「それは、それは・・・。悟飯さんのおかげで、一石二鳥でしたね。なんでも悟飯さんの携帯は、高等部の入学祝いにと、反対するお母様を説得してお父様が買って下さったものだと聞きました。見つかって良かったですね」

疲弊して会話の億劫な悟飯をフォローするふたりの様子に、無事に見つかったとは云えども大事な携帯を落とした悟飯が落ち込んでいると推察したのか、政経の教師は悟飯の返事がなくとも不審そうな気配も見せずにぽんぽんと話題を進めた。
それに対してジースとバータのふたりは、政経の教師の言葉に、何故この教師が悟飯の私的な事情を知っているのだろうかと、驚きを隠せないようだった。
そんなふたりには目もくれず、政経の教師は悟飯に向き直ると優しげな声で悟飯に言って聞かせた。

「お父様が心配して、先ほどから玄関でお待ちになってますよ。早くお父様の所に行って、安心させてあげなさい」

「・・・はい。ご迷惑をおかけして、すみませんでした。さようなら」

「はい、さようなら。二度と携帯を落とさないように気をつけるのですよ。ま、優秀なあなたのことだから、心配はいらないでしょうけどね」

「バイバイ、悟飯ちゃん」

「またね」

悟飯の弱々しい挨拶に政経の教師が笑みを作ると、ジースとバータも笑顔で小さく悟飯に手を振った。
そのふたりに瞳だけ微笑んで会釈した悟飯の胸には、純潔を奪われた筈なのに、不思議とふたりに対する嫌悪感は存在しなかった。
悟飯の意思は黙殺されたものの、ふたりが悟飯に快楽を与えるべく奉仕してくれたのは事実であったし、すべてが終わった後にYシャツの下のインナーシャツを脱いで悟飯の粗相の後始末に当たってくれたのも、ふたりの印象が好転するには十分な材料だった。
欲求さえ満足させられれば、無責任にも悟飯を置き去りにしてその場を立ち去ることも出来たのに、ふたりはその後も終始悟飯を気遣ってくれていた。
汚れたインナーシャツは、通りすがりに調理室脇のゴミに紛らわせたのだが。
ふたりのトラップによって快楽の味を知った今の悟飯には、あれだけ憧れたトランクスとの恋愛が、ひどく幼いものにすら思えていた。
悟飯を大事にして手も握らないトランクスに、男性として必要な何かが欠落しているようにも。

「あ~あ、行っちゃった・・・。送って行こうと思ってたのに」

教員室の扉が閉まるのと同時に、当事者の悟飯に聞こえているかどうかも気にせず、さも残念そうにジースが言い放った。
悟飯の父親という邪魔さえ入らなければ、家まで送るついでに次の約束を取り付ける目論見だったのだ。
その悟飯の父親がどうやら政経の教師と顔見知りらしいと推量し、ジースの嘆きをよそにバータが尋ねた。

「先生は悟飯ちゃんのお父さんとお知り合いなんで・・・?随分と悟飯ちゃん家の事情に詳しいみたいですけど・・」

「知り合いも何も、彼もこの学校の教師ですからね。お嬢様が高等部に合格したのも、トランクスさんとのことも、携帯の件も、ぜんぶこの教員室でお話なさってましたよ。あんまり大きな声で他の方にお話なさるものですから、嫌でも聞こえてしまいました」

「えええっっ!!!!!」

「・・・何を今さら驚いてるんです?」

政経の教師が語った真相に、ふたりは身体全体を使って驚愕を表した。
素っ頓狂な声を上げるふたりのあまりにも大仰な驚愕ぐあいと狼狽ぶりに政経の教師は半ば呆れ、悟飯の背景を知らない生徒が未だに存在した事実に半ば驚いていた。
悟飯の父も悟飯本人も学園内で公言しているわけではないが、生徒たちの間で密かに伝わっているらしい、と耳にしていたのに。

「ちょ・・・ちょっと待って下さいよ。状況がまだ飲み込めなくて・・・」

「悟飯ちゃんの姓は孫だったよなぁ・・・。ってことは、お父さんは孫先生・・・?そんな名前の先生がこの学校にいたかな・・・?」

ことの真相が事実なら大変なことをしでかしてしまったとパニックに陥ったジースよりもいち早く立ち直ったバータは、耳から得た情報をもとに記憶の中から該当者探しを始めたが、なかなかどうして、それらしい人物は思い当たらなかった。
そこまでの解答を導き出しておきながら悟飯の父親が誰なのかが何故わからないのかと、自分が考える常識の枠から自身がぽんと虚無の空間に放り出されたかのような錯覚に、政経の教師は一瞬だけ思考を停止させた。

「何を言ってるんですかっ!!?孫先生とは、あなた方が『カカ先生』と呼んでいる方のことではありませんかっ!!!」

「ええっ!!?カカ先生!!?」

カカ先生とは高等部の体育教師のひとりで、明朗快活な性格の持ち主だった。
気さくでユーモア溢れる教師で、生徒たちのよき理解者でもあることから彼を慕う者が多い反面、短慮で豪胆な気質であるが故のエピソードも同じくらいに多かった。
物理の教師とは幼馴染で、科学の教師以外にも学園内の教師陣に友人が多く、理事会のメンバーにも一目置かれていると云う。
そんな、高等部の中心人物と目されている彼だが、あまたの教師の中でたったひとりだけ馬の合わない教師がいて、その教師こそが目の前の人物であるのは公然の秘密だった。

「悟飯ちゃんのお父さんが、カカ先生・・・」

「そんな・・・。だって、それじゃあ、どうしてみんな悟飯ちゃんのお父さんを『孫先生』ではなくて『カカ先生』って呼ぶんですか?」

優等生で大人しい悟飯のイメージと『脳内筋肉教師』と評される体育教師の像が一致しない為か、未だ納得のいかない様子のふたりに政経の教師は大きなため息を吐くと、淡々と語り始めた。
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