【trap-前編-】












室内プールの扉の前で立ち止まると、悟飯は中の様子を伺った。
職員室に室内プールの鍵がなかったことから、すでに誰かいるのだろうかと訝った悟飯だったが、いざ赴いてみると、予想に反して明かりは点いていなかった。
そっと扉を押し開けるとやはり扉に施錠はされておらず、今日の最終授業で使用した悟飯のクラスの当番生徒の施錠忘れを悟飯は疑った。
この室内プールも例に洩れず造りは立派なもので、建物は2階建ての吹き抜けとなっており、2階にはプールをぐるりと囲む形で観客席が据えられている。
中央の玄関を挟んで両側に男子と女子のトイレがそれぞれ設置され、トイレの向こう側には2階へと続く西と東の階段があった。
これだけ恵まれた環境にも関わらず、この高校には水泳部がない。
原因は、老朽化を理由に改築が進められている施設の中でこの室内プールだけが修繕に乗り遅れ、授業で使用するには申し分ないが、毎日の部活動には不向きだとして理事会の承認を得られないからだった。
加えて、本気で水泳を志す一部の生徒は皆、経験値の少ない顧問に習うよりもスイミングクラブの本格的な指導を求め、水泳部の設立に乗り出す生徒が皆無だったことも一因している。
ゆえにこの施設だけシーズンのオンとオフに左右され、シーズンオフの間にいつの間にかネズミが住みついたと、生徒達の間ではもっぱらの噂だった。
なるほど、昼間は堂々たる佇まいを見せる建物だが、夜間に訪れて見ると、オカルト系の噂が広がらないのが不思議なほどの不気味さを感じる。
と、玄関から向かって左側の女子更衣室の出入り口の小さな窓を一筋の光が横切り、学校にまつわる巷の噂話を思い出した悟飯は、ゾッと背筋を凍らせた。

(まさか・・・人魂・・・!?)

と思った途端に、まるで瞬間強力接着剤で固定されたかのように瞬時に固まった悟飯だったが、小窓から見える灯りはチラチラと移ろい、おまけに中からは人の話し声まで聞こえてくるではないか。
なんだ、やはり人がいたのか、と安堵に胸を撫で下ろすと、悟飯は不満げなふたつの声に向かって扉をノックした。
扉の向こうで人の動きが驚きで止まる気配がし、一拍の間を置いて、悟飯が扉の取っ手に手をかけるよりも早く、幾らか慌てた様子で横開きの扉が真横へと滑った。

「あ・・・、こ、こんばんは・・・」

乱暴に開け放たれた扉に相手の苛立ちを感じ、悪いことをしているわけでもないのに自分がここにいるのを咎められたような気がして、学校を訪れたばかりの明るく元気な挨拶とは打って変わった上擦った声で悟飯は形式的な礼節を守った。
だが、礼儀を重んじるようにと母から育てられた悟飯と違い、相手は誰何を問う声を投げると無遠慮に悟飯の顔を正面から懐中電灯で照らし出し、咄嗟に悟飯は額に手をかざして、唐突に現れた眩しい光から我が目を守った。

「君は・・・!?」

「あ、孫です・・・。孫悟飯」

悟飯が名乗ると相手は緊張を解き、次いで悟飯も光の呪縛から開放した。

「こんな時間に、どうしたの!?」

「あの・・・携帯をなくしてしまって・・・。午後の授業が水泳だったから、もしかしたらここにあるかも知れないと思って、探しに来たんです」

挨拶も返さない無礼さに苦情を申し立てる権利が悟飯にはあったが、相手の態度が軟化したことで悟飯はその事実をすっかり忘れ、相手からの質問に素直に答えた。

「携帯・・・?そんなのあったかなぁ?」

と首を傾げて考え込む様子の相手に、今度は悟飯が問う番だった。
スポーツ関係のクラブやサークルの者しかいない時間に、しかも男子禁制の女子更衣室に侵入しているからには、それなりの事情がある筈なのだ。

「あ、あなた達は・・・?こんな時間に、何をしてるんですか?」

「ああ・・・っと、その前に。オレはジース。んでもって、あっちのデカいのがバータ。オレ達、政経の授業でうっかり居眠りしちゃってさぁ・・・。そのペナルティに更衣室のネズミ退治を仰せつかったんだ」

白い長髪の男子生徒が指し示した方を悟飯が見遣ると、背の高い生徒が顔だけこちらに向けてにやりと笑った。
表情の判別が難しい種族の人間だったが、悟飯は気にも留めずに軽く会釈だけ返すと目の前の人物に向き直った。

「ネズミ・・・本当にいるんですか?」

「みたいだね。証拠となる糞も発見されてるし、壁を齧る音を聞いた生徒もいるそうだよ」

「ここは食堂の裏と近いからな。食堂のゴミ捨て場が、どうやらネズミの餌場になっちゃってたらしいんだ」

「しかも、この建物には夏以外は人が寄り付かないだろ。造りも古くて、ネズミには格好の住処だよな」

「でも、だったらゴミの出し方を変えれば、ネズミは餌を調達できなくて、どこかに行っちゃうんじゃないですか?」

悟飯の指摘はもっともで、当然誰しもが同じことを考えた。
だが、同じ東地区といえどもそれぞれ離れた地域に点在するこの学園の幼稚園から中等部までの給食室と、高等部から大学院までの食堂と、その他にも何件もの取引先を持つ産廃業者との契約上の問題で、無理な相談だったらしい。
規定の時間内にすべての生ゴミを回収しなければならない産廃業者にとって時間短縮は死活問題であり、ゆえに、ゴミは手間のかかるペールなどには入れず袋のまま指定場所に置くことと定められていた。
そのゴミ捨て場と、ネズミが開けた女子更衣室の壁の前にネズミ捕りを仕掛ければ、授業中の居眠りに目をつぶって貰え、1学期の政経の成績は下げられずに済むとふたりの男子生徒は説明した。
運動部に所属していないふたりは悟飯と同じく部活動が始まる時間帯に下校し、それぞれ夕食を済ませてからジースの家にバータがお邪魔して寛いでいるところに、政経の教師から電話で呼び出されたそうだった。
何でも政経の教師は、顧問を務める部活動の最中に女子生徒のひとりから女子更衣室の壁の穴の存在を聞いたらしく、部活動が終了して自分が監督を請け負ったサークルの活動が始まるまでの短い時間を利用して、ネズミ退治の打診をしてきたそうだ。
これがもしも他の教師からの打診だったならば、幾ら1学期の成績がかかっていると云えども、ふたりは呼び出しに応じなかったかも知れない。
ところがこの政経の教師というのが曲者で、言葉遣いは丁寧なものの、情けを一切感じさせない冷たい眼と、血のように赤い唇が他者に言い知れぬ恐怖心を与え、生徒はもちろんのこと、教師陣の中でさえ彼に面と向かって刃向かえる者は存在しないと噂されている人物だった。
4人の理事はおろか、理事長の大界王ですら彼を腫れ物に触れるように扱うことから、いつしか彼は学園内で『帝王』と呼ばれ、この高校の七不思議のひとつに数えられている。
この『高等部の七不思議』にはまだまだ続きがあり、理科の実験室の地下には科学の教師の秘密の研究室がある、夏休みに入ると数学の教師が何故か野球選手のバイトをしている、理由は明かされていないがふたつの名前で呼ばれる教師が存在するらしい、などと高等部にまつわる多くの謎が、生徒達の間で誠しやかに噂されていた。
七不思議であるにも関わらず、世間一般のオカルト系の噂話ではないところがこの高校の教師陣の個性の強さを物語っており、その事実がさらに生徒達の興味と好奇心をかきたてている。
七不思議はともかくとして、政経の教師に逆らえない状況から、ふたりはまず学校に赴き、事情を承知している高等部の事務員から受け取った資金でネズミ捕りとネズミをおびき寄せる餌を購入して、再び学校へと戻った。
運良くネズミと遭遇してその場で捕獲できる可能性を考慮すると室内の電灯を使用しない方が都合が良いとの説明を受けた為、職員室で懐中電灯と室内プールの鍵を借りてここまで来たは良いが、懐中電灯の細い灯りだけを頼りにしているせいか、なかなかどうして肝心なネズミの通り道がみつからないのだと言う。
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