【trap-前編-】


「こんばんは」

「あっ、こんばんは~」

校門をくぐってすぐの、目の前の人の塊に悟飯が挨拶をすると、向こうもすかさずスッキリとした晴れやかな笑顔で挨拶を返してくれる。
どうやらスポーツで良い汗をかいたようだと、和気藹々とした小集団の脇を抜けると、悟飯は真っ直ぐに玄関を目指した。
この時間になっても人の出入りがあると、夜の学校もあまり恐さを感じないのは有り難い。
この春に悟飯は、その強さたるや今では伝統的とまで謳われている、謂わばスポーツの名門の私立校に入学していた。
この高校はスポーツに力を入れているだけであって、3階建ての体育館の他に2階建ての道場やテニスコート、野球場やサッカーのグラウンドに、校舎を挟んで体育館の向かい側には室内プールと、スポーツ関係の設備が充実している。
高校ではそれらの専用施設を、地域のスポーツ関係の団体に無料で開放していた。
下はキッズのクラブから上はシニアのサークルまで多様な競技の民間の団体が、年に一度の申請と代表者同士の調整会議を経て、決まった曜日に決まった時間で決まった施設を借りて練習に励んでいる。
中にはこの高校の卒業生が中心となっているサークルもあり、競技によっては、部活動の顧問が部活動終了後にそのままサークルの監督を務める例もあった。
そんな事情により、悟飯が夕食と早めの入浴を終えてから忘れ物を取りに戻ったこんな時間でも、巷で噂されるようなオカルト系の話とは無縁なほど、校内でもスポーツ関係の施設とその周辺では人の気配と熱気が絶えない。
こんな時間と言っても、良い子の就寝時間がそろそろ差し迫ってこようかという程度の時刻であり、決して高校生の外出を咎められるような時間帯などではなく、高校専属の警備員が校門に施錠する刻限にもまだまだ間があった。
さきほど悟飯がすれ違った小団体は、中には竹刀を背負った子供の姿があったことからおそらくはキッズがメインのクラブであり、他のクラブよりも終了時間が早かったのだろう。
アダルトのサークルが使用していると思われる体育館からは、活気あふれる声がかすかに漏れ聞こえていた。
練習を終えて帰宅する彼らの為に煌々と明かりが照らされた玄関に入ると、悟飯は行儀よく整列した下駄箱のひとつから自分の上履きを取り出して靴から履き替えた。
オカルト系の噂とは無縁といえども、行き先が暗闇に閉ざされた廊下を見遣るとさすがに背筋に寒気が走る。
だが、ここで怯んで家に帰るわけにはいかない事情を、悟飯は抱えていた。
悟飯は廊下のスイッチを入れると小走りに駆け出し、廊下の端に辿り着くと今度は階段のスイッチを入れ、代わりに通って来た廊下の電気を消した。
これを交互に繰り返して教室に向かう悟飯の胸に、もしも大事な物が見つからなかったらどうしよう、との焦りがわずかに滲んでいた。
家を出る前、両親には明日提出の宿題に必要な資料を学校に取りに行くと説明した悟飯だったが、入浴を終えた悟飯が学校に赴いた理由はもっと単純なものだった。
高校の入学祝いに父に買って貰った携帯を、学校に置き忘れたのだ。
入浴を済ませて携帯をチェックしようとした悟飯がその事実に気付いた時、外で落としたのならともかく、どうせ明日も登校するのだから、との楽天的な考えは浮かんでこなかった。
あの携帯は、『学業優先の高校生には必要ない』と言い張る教育熱心な母を『今時の高校生は皆持っている』と高校生の事情に詳しい父が説得して、買い与えてくれた物なのだ。
学校に置き忘れて来たなどと告白しようものなら、そら見たことか、やはり高校生には無用の長物だったのだと、悟飯の携帯の所持を最後まで反対した母の思う壷になってしまう。
それに何より、悟飯にはどうしても今日中に携帯をチェックしたい心理が働いていた。
その心理の原点は、自宅から徒歩圏内といえども悟飯が数ある高校からこの私立校を選んだ動機と同じものだった。
この高校には、悟飯の父の友人であるこの高校の科学の教師と物理の教師の間に生まれた息子が通っている。
父に連れられて小さい頃から何度となく会っていた彼にいつからか淡い恋心を抱いていた悟飯は、彼が外部受験で昨年この高校に入学したと聞き、近隣の公立校と比して幾らか偏差値が高いものの、そこそこの学力で合格できるレベルの高校であるのにも関わらず、猛勉強の末にトップの成績で今春にここに入学した。
それから一ヶ月ほど経ったある日、悟飯がこの高校に入学した真の理由を両親から伝え聞いた彼、トランクスに『ずっと片思いだと思っていた』と告白され、トランクスとの交際がスタートした。
シャイで礼儀正しいトランクスは日頃の言動に於いても紳士的で、映画館や図書館、公園での週末デートを数回重ねた今でも喧嘩ひとつなく順調に交際が続いている。
そのトランクスが所属する剣道部の練習がある平日は、ふたりで出掛ける代わりに、決まった時間にメールのやり取りをするのがふたりの間で定着していた。
悟飯が入浴を済ませて自主学習に取り組むまでの時間を見計らって、トランクスは毎日のように悟飯にメールを寄越す。
おそらくは今日も、既にトランクスからのメールは届いている筈だ。
今日のトランクスからのメールにはどんなことが書いてあるのだろうと思うと、早く読みたい欲求と、トランクスに応えたい願望が時間の経過と共に焦りへと変化してゆく。
その焦りの勢いに任せて教室の扉を開けると悟飯は壁面にスイッチを探し、教室のすべての明かりを点けて自席へと急いだ。
ところが、必要最低限の学用品が整理された机の中をどれだけ掘り下げても目的の物は影すら見えず、悟飯は青褪めた頬を強張らせて、暫し呆然とその場に立ち尽くした。
てっきり机の中に置き忘れたものだとばかり思い込んでいた悟飯は青い顔で思考を巡らせて、机の次に可能性の高い、廊下の壁面に備え付けられたロッカーへと向かった。
各々ひとつずつ割り当てられたロッカーの内部は上下段に仕切られており、天頂付近にはハンガー、扉の裏側にはタオル掛けまで備え付けられている。
その内部をどう使うかは個人の自由なのだが、大半の生徒が外国語の辞書や世界地図、その他にも授業に必要な諸々の資料を収めたままにしている傾向にあった。
この高校では、授業中は教室内への鞄の持ち込みが校則で禁じられていることから、登校した生徒たちはまず机の中に教科書とノートと文房具を入れ、ほぼ空になった状態の鞄をロッカーに仕舞って扉に施錠する。
昼休みに教室で数人の友人と携帯のゲームに興じていた悟飯が机の中に携帯を忘れたのでなければ、ロッカーの中にある筈だった。
だが、背の高さ順に揃えられた資料の類をすべて掘り起こし、ロッカー内部を文字通りひっくり返しても、お目当ての物は待ち侘びた姿を遂に見せることはなかった。

「嘘・・・。ない・・・。どうして・・・?」

まるでぽっかり開いた異次元の空間に落ちてしまったかのように、大切な物が忽然と姿を消した不可解な現象に、悟飯は今すぐにでも泣き出したいほどの心細さに襲われた。
だが、ここで泣いたところで、向こうから悟飯のもとに歩いて来てくれるわけではない。
であれば、混乱する頭で、ありとあらゆる可能性を当たってみるしかなかった。
学校で見つからないのなら、下校途中で落としたのか?
いや、下校途中でどこにも寄り道はしていないし、そもそも鞄はしっかり閉めているから物が落ちるとは考えにくい。
では、他に残された可能性はないだろうか?
鞄から携帯を取り出したのは、昼休みだけだった。
午後の体育の授業は水泳で、そろそろ昼休みも終わりという頃になってビーデルに急かされた悟飯とイレーザは、慌ててロッカーに携帯を仕舞い、代わりに学校指定のビーチバッグを取り出して室内プールの更衣室を目指した。
なるほど、よくよく思い出してみると、机の中に携帯を置き忘れたというのは、どうやら悟飯の思い込みだったようだ。
先に発って歩くビーデルに気が急いて手元を見ていなかったものの、あの時、確かに鞄に携帯が落ちた手応えがあった。
だが実際には鞄の中に携帯は入っておらず、洗濯物を洗濯機に放り込んだ時にも黒いビニール製のビーチバッグの中に携帯は残されていなかった。
では、どこで?
瞳いっぱいにあふれた涙が零れ落ないように下の睫毛で受け止めて堪え、最後の可能性に賭けた悟飯は、目的地の鍵を拝借すべく職員室へと足を向けた。
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