【僕の憂鬱-前編-】


「またこんなに散らかして」

困惑を通り越した幼い声が、呆れた、と先を続ける。
週に一度のペースで塾の行きか帰りに『ここ』に立ち寄っているが、悟飯の記憶では、『ここ』が綺麗に片付いていたことなど一度もない。
何も出来ない乳幼児じゃあるまいし、いい歳の大人なのだから、出来る範囲のことくらい自分でやってみたらどうなのだ。
例えば、洗濯は出来なくても脱いだ服は洗濯機に放り込むとか、洗い物が苦手でも食べ終わった食器を流しに運ぶとか・・・。
ダイニングキッチンを兼ねた広いリビングを見渡せば、そこら中に脱ぎ散らかされた衣類に、ページがめくられたままの雑誌が方々に置き去りにされている。
そして窮めつけが、テーブルの上にテンコ盛りにされたうんざりするほどの食器の数々。
その食器の中に覚えのある皿を見つけ、悟飯はもしやと思い、キッチンへと駆け込んだ。

「やっぱり・・・」

今度ばかりは呆れるより諦めた、と表現した方が相応しい。
悟飯の予想通り、流しの中もIHテーブルの上も、見事なまでにありとあらゆる鍋やフライパンで埋まっている。
どうやら、ありったけの鍋とフライパンを使い尽くしたらしい。
それより何より悟飯が憤慨したのは、一週間前に悟飯が作ったカレー鍋が、水を張られたまま放置されていたことだった。
恐る恐る中を覗き込めば・・・。

「げっ!!・・・カビが生えてる・・・」

そこには白と緑色のカビが、幾つも丸く花を咲かせていた。

これを洗って、また使うのか?

そう思うと、悟飯の背筋をゾクリ、と冷たいものが降りてくる。
不精にも限度というものがあるのではあるまいか。
近頃では、悟飯はそう思わずにはいられない。
確か、テーブルの上に重ねられたままになっている皿の中には、いつ食べたのかわからない料理のギトギトの脂が、乾いてこびりついたものもあった。
恐らく酒を呑んだのであろう、旱魃で干からびた湖の底のように、僅かな水分がかぴかぴに乾いたグラスも。
更に、悟飯に打撃を与えた、炭水化物の粘り気が張り付いた茶碗の数々・・・。

ああ、もう、うんざりする・・・!

これを、いまから塾に向かう前の、子供の自分に片付けろと言うのか。
そもそも悟飯には、ターレスにそこまでしたやる義理はない。
ないのだが、何故か放っておけない。
それは同じサイヤ人の血を引く同族のよしみだけではなく、多分に、帰るべき故郷の惑星を失ったターレスへの同情もあると思う。
幼い悟飯を掻っ攫おうとした誘拐未遂犯に対して被害者の悟飯が同情心を抱くなどと、何とも奇妙な話だが、対等な人間関係を築くのが苦手なターレスを、いつしか悟飯は一人にしてはいけない気がしていた。
それからというもの、悟飯は週に一度は『ここ』を訪れ、まるきり家事の出来ないターレスの身辺の世話を請け負っている。
のだが、さすがに今回ばかりは『処分』という名の処置が必要らしい。
その承諾を得る為に悟飯がベッドルームへと足を運べば、ターレスはワインカラーのYシャツにノーネクタイ、黒のスラックスという出で立ちで、頭の下に腕を組んでベッドで寛いでいた。
ターレスは外見こそは悟飯の父親の悟空とそっくりだが、悟空と違って浅黒い褐色の肌を持ち、不敵な笑みと野心に満ちた眼は、明るく純粋な悟空とは正反対だった。
悟空が青空に輝く太陽ならば、ターレスは闇空を飾る月だと思う。
同じ空にありながら、その光りも役割も異質なもの・・・。

「ターレス、この前のカレー鍋、捨ててもいいでしょう?」

「カレー鍋?一週間前にお前が作ってくれたヤツか?・・・構わんが、今度は何が気に喰わない?」

あっさりとした了承の中の僅かな皮肉に、悟飯はぐっと咽喉を詰まらせる。
悟飯には他人の物を無断で処分する趣味はないが、たった一度だけ、ターレスに何も聞かずに家中の雑誌をすべて処分したことがあった。
それは、少年の悟飯にとっては刺激が強いが、成人男性の持ち物としては至極当然の雑誌だった。
本来なら見て見ぬフリを決め込んでやるべきなのだろうが、孫家には存在しないそれらを目の当たりにした途端、悟飯は不潔で汚らしい物を見つけた嫌悪感に駆られた。
その後は部屋中のありとあらゆる雑誌を表紙も見ずに纒めあげ、そのままゴミ収集所へと運んだ。
一冊の雑誌もなくなった部屋を見渡して、ターレスは怒るどころか、いらない物が片付いた、と一言漏らしただけに留まった。
ターレスが購入した物ではないのか、と問い質す悟飯に、仲間が勝手に持ち込んだ物だ、とターレスは返答した。

「俺は女の裸なんかには興味がない」

と続けるターレスに、少しばかりは見直してやってもいいかな、という気持ちが動いた。
ところがターレスは―

「俺が興味があるのはお前だけだからな」

と、悟飯をねめつけるような眼をしてイヤらしくニヤリと笑うものだから、カッとなった悟飯は、身に着けていたエプロンを外して思い切りターレスに投げつけてやったのだ。
時として悟飯は、ターレスにからかわれているのだと思う。
子供だから、いいようにあしらわれている。
それは、周りの大人から子供扱いされたことがなく、いつでも対等に向き合って貰えていた悟飯にとっては、決して愉快なことではなかった。

―嫌なヤツ!―

ありったけの怒りを篭めて睨みつける悟飯に、大人としての余裕を見せてなのか、ターレスはニヤニヤと嗤うばかりだった。
ターレスにしてみれば、悟飯のこういった行動は、自分より体の大きな犬を威嚇する子犬に過ぎない。

大人の社会を知らない。

大人のルールを知らない。

故に、駆け引きも出来ない。

『僕はてっきり、ターレスが女の人に興味があるのかと思って心配しちゃった』

などと素直に甘えてくれば、優しく抱き締めてやらないこともないものを。

「なんだ、ストリップでもしてくれるのか?」

と更に悟飯を激怒させる台詞を宣うと、憤怒に暴れる悟飯をターレスは強引にベッドに連れ込んだ。
その後は時間の感覚もわからなくなり気が付けば時刻は既に夕刻を迎えていて、悟飯は塾をサボる結果となった。
帰宅時間こそ塾から帰る時刻とほぼ変わらなかったが、悟飯が塾に行っていないと塾から連絡を受けたチチに帰宅早々こっぴどく叱られた。

「いったい、悟飯ちゃんはこんな時間までどこで何をしてただ!?」

と、問い詰められ、塾に向かう途中で川に落ちた恐竜の赤ん坊を助けてずぶ濡れになり、知り合いの家で服を乾かしていた、と苦しい言い訳で凌いだ。
チチはその後もぶつくさと文句を言いながらも悟飯の言い訳を信じてくれたが、この時に限って、普段はお人好しで人に騙されやすい父の悟空が騙されてくれなかった。

「ちょっと来い」

と、拒絶不可能な雰囲気を漂わせた悟空に悟飯の自室に連れて行かれ、塾とは違う方角に向かう悟飯の気をずっと探っていた、というニュアンスのことを低声で告げられた。
悟飯が川に落ちた恐竜の赤ん坊を助けたのは、事実だった。
だがそれは、塾に行く途中ではなく、ターレスの元へ向かう途中だったのである。
悟飯はそれを、悟空に正直に話すことが出来ない。
過去のしがらみにこだわらないさっぱりとした性格の悟空が、何故かターレスだけは毛嫌いしていて、悟飯の誘拐未遂事件から数年経った今でも、ターレスの存在を許容出来ないでいるからだ。
そのターレスのマンションに行っていた事実を悟空に知られ、寛容な悟空に怒りのあまり目の前で瞬時に超化された経験が悟飯にはある。
またしてもターレスのマンションに行っていたなどと悟空に知られたら、今度こそただでは済まない。
教育熱心な母親のチチではなく、何事にもおおらかな筈の父親の悟空から『外出禁止』を言い渡されかねなかった。
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