【ワイングラス】
乾いた大地に相応しい乾いた風が時折吹きすさぶ荒野に、一匹のサソリが何やら得体の知れない気配に身の危険を感じ、岩場の影に身を潜めた。
その数秒後にはさそりの頭上わずか数メートル上空を、一見コンパクトな一台のジェットフライヤーが滑走する。
サイドにカプセルコーポレーションのロゴを入れたジェットフライヤーの後方から排出された排気が空気をかきまぜて小さな乱気流を生み、サソリが隠れる大地に乾いた砂を巻き上げてはあっという間に遥か前方へと見えなくなってゆく。
巻き上げられた砂が再び大地に戻る頃、岩場の影から這い出たサソリはまた荒野に数少ない獲物を探す。
そんな小さな生き物が無数に棲息する荒野を出て、ジェットフライヤーは短い草の生い茂る山野にさしかかっていた。
山野といってもごつごつとした岩場は限りなく存在し、林立する岩場を縫うように滑らかにジェットフライヤーは走り続ける。
この岩場が途切れて間もなくすると、やがてあまたの動物達が住む森が見えてくるだろう。
流線型のジェットフライヤーの動きは滑らかだが、その走行は常に直線的ではなく、右に左に、ときには上下して難無く前方を遮る岩場を回避する。
それはジェットフライヤーの性能だけではなく、操縦する運転士の技量の良さにもよるものだった。
「どうですか、悟飯さん?」
外見はコンパクトなジェットフライヤーだが、内部にはゆったりとした空間が設けられ、そこに設置された椅子はどれも座り心地が良い。
適度の固さを保つ背もたれに身体を預けて運転士のドライビングテクニックを愉しんでいたナビシートのトランクスが、H型の操縦桿を握るドライバーに振り返った。
街なかを歩けば若い女性のほとんどが振り返るほどの整った顔立ちだが、鋭さと柔和さを兼ね備えた外見は見る者に嫌味な印象を与えない。
「ああ。動作はスムーズだし、ジェット音も静かだし、これなら合格点を貰えるんじゃないかな。何より感度がよくて操縦しやすい。かれこれ小一時間は運転してるけど、まるきり疲れないよ」
『悟飯』と呼ばれたドライバーが、前方を見据えたまま笑顔で答える。
額から顎にかけて左頬に大きな傷の残る隻腕の青年だが、これまでの運転技術はトランクスも舌を巻くほどの見事さで、とても腕一本で操縦しているとは思えない。
トランクスはこの青年が、一緒に街に出るととかく人々の注目を浴びるのを知っていた。
といっても原因は顔の傷と隻腕にあるのではない。
人造人間が破壊と殺戮の限りを尽くしたこの世界では命があるだけでも儲けもので、体の一部が欠損あいて人間など珍しくもないからだ。
悟飯が人目を引く理由は他にある。
世界の人口と高度な発展をとげた数々の文明に壊滅的な損害を与えた人造人間に、悟飯がたった一人で立ち向かう姿はかつて世界各地で何度も目撃されていた。
怪我人や弱者を救出する姿も。
人々にはセルの存在も、トランクが人造人間を破壊した事実も広く知れ渡っていないが、少年を連れて勇猛果敢に人造人間と闘っていた悟飯の姿は多くの人間の記憶に刻み込まれていた。
その死を弟子のトランクス以外の人間に知られることなく命を落とした悟飯がどういった経緯か無事に生き返った後、表立ってもてはやされこそしないが、以前の活躍を知る一部の人々から悟飯は尊敬の念を一身に集めていた。
だが、以前の悟飯を知らない者達の中には、悟飯を良からぬ欲望の対象として見る者も多数存在した。
本人はまったくもって無自覚だが、その原因は悟飯自身に起因する。
筋肉質で逞しい体躯に引き締まったウェストは軟弱さとも厳つさとも無縁で、理想的な美しいラインを保持している。
トランクスのような人目で女性を虜にする美貌の持ち主ではないが、精悍でそこそこ整った目鼻立ちは美男子と言えないこともない。
曲がったことを嫌う正義感溢れる気質に全身からは高潔なオーラが漂い、傷ついた容姿とのギャップが、却ってストイックだった。
誰もが悟飯からは強さと弱さ、厳しさと優しさ、清潔さと色香を感じ取る。
それはある種の人間にとって、手出しの敵わない禁欲的な相手として黒い欲望を抱くには充分だった。
「そうですか、それは良かった。でも、感度が良いのは悟飯さんも、でしょう?」
トランクスはニヤリと笑うとナビシートから立ち上がり、ドライビングシートの横に立って操縦桿を握る悟飯の首筋を下から上へ撫で上げた。
トランクスの思いがけない行動に驚愕しつつも、悟飯からはすぐさま制止の声が飛ぶ。
悟飯に対しての黒い欲望は、トランクスの中にも渦巻いていた。
トランクスは悟飯より綺麗な人間を知らない。
ただ単に眉目の秀麗さだけなら、悟飯以上の容姿の持ち主には、トランクスは幾度となく出逢ってきた。
だがその美しさには往々として中味が伴っていないのが常で、トランクスが失望するのに大した時間を必要としなかった。
もっとも、人の命を虫ケラのように踏みにじり、コンピューターゲームの如く街を破壊する人造人間に怯え続けた恐怖の日々に人々の心は荒れ果てている。それは人造人間が消滅して、地球が平和と希望を取り戻した今でも人類に大きな影を落としているのだ、無理もないことだった。
その中で、一人でも敵に立ち向かう勇気と、他者を思いやる優しさと、弟子への愛情を持ち続けたのは悟飯だけである。
内面の美しさが滲み出た綺麗な容姿を持つ者を、悟飯以外にトランクスは知らない。
世界中どこを探しても、悟飯を超える者はトランクスには存在しないのだった、
その悟飯を失った痛みと絶望。
あんな思いは二度と御免だった。
それが時の気まぐれか運命の悪戯か、悟飯が生き返った時には既にトランクスの年齢は悟飯を越えていた。
もう充分、自分には愛する者を支えられるだけの包容力は身に付いた、とトランクスは思っている。
だが悟飯は、トランクスを恋人に選ぶより、己がトランクスの師匠であることにこだわり続けた。
彼らの長年の悲願が達成され、二人の共同生活は解消されている。
幼少の頃からの夢を叶えて母親を安心させるため悟飯は母の元に戻り、二人の関係は破綻した。
平和な時代に師弟である必要はない。
かと云って二人で過ごしたこれまでの日々に、今更友人にもなれない。
新たな関係を望むトランクスを、悟飯は頑ななまでに拒絶し続けた。
幼い頃から自らの手で育てたトランクスを恋愛の対象として見られないからではなく、その逆の理由で。
悟飯が人造人間との闘いに破れた時にはまだ大人の庇護を必要としていた少年は、数年の時を経て、逞しく精悍で、今を伸び盛りの若竹のような青年となって悟飯の前に現れた。
底知れぬ力を秘め、正義に燃える熱い魂を持ちながら、若草のような爽やかな外見は依然として変わらず、それに比して内面は、すべてを受け止められる強さと、何事にも冷静な判断力と対応力を期待させられるだけの落ち着きを宿していた。
今や20代半ばにもなる弟子は、師である悟飯ですらも魅力を感じるほどの好青年へと成長を遂げていた。
命を失う以前は敵との闘いだった日々は、生き返ってから後は急速にトランクスに惹かれてしまう己との闘いの日々へと変化した。
トランクスの為に、何が何でも負けるわけにはいかなかった。
トランクスの実家であるカプセルコーポレーションは、今、重大な転機を迎えようとしていた。
人造人間が消滅してのち以前の高度な文明と安らかな生活を取り戻そうと、全世界は急速に復興している。
数年前から企業や株式会社が無数に設立され、それに伴って通勤手段としてエアカーの普及も始まった。
最盛期の1/10以下の売り行きとは云え、これからまだまだシェアの拡大が期待される乗り物である。
一方ジェットフライヤーは、難しい機能を使いこなせる高度な運転技術を運転手に求められる上に、“金持ちの乗り物”という以前のイメージを強く引きずっている為、需要は殆どと云って良いほどない。
しかし、エアカーより遥かに長距離走行が可能で高い搭載力を誇るジェットフライヤーは、一般製品化さえすれば、この時代ではエアカーよりも活躍の場が多いのは自明の理だった。
何とか一般的に普及できまいか。
悩むブルマは、ジェットフライヤーを一般家庭用に改良する発想に至った。
平日は仕事と街の復興に疲れた一家の大黒柱の週末の家族サービスを可能にする為、機能は誰もが運転できるほどシンプルに、且つ長距離の移動でもドライバーも同乗者も疲れにくいほどに乗り心地は良く音も静かに、そして、瀬戸物を始めとする家庭用品の収納が可能な巨大な収納スペースを複数搭載した製品を、と考案したのである。
考案したまでは良かったが、これを製造する過程で問題が発生した。
乗り心地の良さとシンプルな機能の2点は楽々クリアしいた。
だが、収納スペースの確保に、ブルマほどの天才が頭を抱えたのである。
アウトドアを楽しむ一般家庭用の開発を目的としたジェットフライヤーだが、急速に復興化が進んでいるとは云え、まだまだ物資の不足が深刻なこの時代に、使い捨てのアウトドア用品など以っての外だった。
その為、わざわざアウトドア用品を購入しなくても済むように、日常生活で使用している家庭用品を持ち込めるよう取り計らう必要があった。
それこそ、陶器の食器を始めとする割れ物も、である。
ホイポイカプセルの中に収めてはまた取り出すジェットフライヤーのまたその中に、わずかな衝撃も許されない収納スペースを確保する。
その為の数列の計算は困難を極め、天才的なブルマの頭脳を持ってしても徹夜の日々が続いた。
見かねたトランクスが学者志望の悟飯に協力を依頼し、畑違いとは云えども将来を嘱望された優秀な頭脳を、忙しい大学生活の合間に悟飯は提供したのであった。
天才的なブルマの閃きと緻密な計算を得意とする秀才肌の悟飯の頭脳の共同作業の甲斐あって、カプセルコーポレーションの社員にして『実現不可能』といわしめたこの難題は解決された。
そのお礼を兼ね、ようやく製造にこぎつけた試作品第一号の試運転を、トランクス同乗のもと、悟飯に任されたのだった。