【魔法】


地上の様々な色の人工的な光りが闇のカーテンの裾をくすぐる、夜の街。
繁華街の路地を仕事帰りの酩酊状態の男達が往来し、駅前や商店の前では人類の未来を担う若者達が地べたに座り込んで屯する。

平和に浮かれて風紀の乱れた人々の様子を、嫌悪に眉間に皺を寄せるでもなく天界から見下ろしていたピッコロは、無表情のまま踵を返して神の宮殿の己の寝室へと足を戻した。

以前なら『悪趣味』と評していた神の行為が、愛弟子が命を張って地球を守って以来、自然とピッコロの日課となっている。

今日も、人類の脅威と成り得るものの存在は確認されていない。

そうしてようやく、ピッコロの中の神は安堵して眠りに就けるのだった。

だがー

綺麗に整われた自分のベッドに腰をかけ、同じ場所に同じように腰かけていた昨日の悟飯を思い出し、ピッコロは白いシーツを手の内に握り込んだ。










「先に寝ていろ、と言っておいただろう」

ピッコロのベッドの縁にちょこんとした風情で座る悟飯に声を投げると、悟飯は読んでいた本から顔を上げて弱々しく微笑んだ。

どこか気怠げに細められたその瞳は、一目でわかるくらいに赤かった。

「ピッコロさんを待っていました」

そう言うと悟飯は、己の言葉が真実であるのを行動によって証明するかのように、ベッドから飛び降りると側の小さなテーブルに分厚い本を置く。

「今日は勉強はしなくて良いと、チチから言われたのではなかったか?」

揶揄うようにピッコロが笑うと、悟飯は本をペラリと捲り、勉強ではなくて読書だと弁明した。

「勉強で疲れている上に、赤ん坊の泣き声がうるさくて夜もまともに眠れていないようだと、チチが心配していた。読書であっても、根を詰めるな」

父親が不在の孫家に産まれたばかりの悟飯の弟は、乳を求めて数時間置きに泣く。

それも、勉強での疲れを睡眠で癒したい兄の存在などお構いなしに、昼夜を問わず。

だが、悟飯の睡眠不足の原因は、どうやら悟天の泣き声だけではないようだった。

大人より多くの睡眠を必要とする筈の子供が些細なことで頻繁に目を覚ますのは、悟飯の睡眠が浅いものであることを意味している。

たたでさえ最愛の父を亡くして以来、辛い現実を忘れるためか、胸にぽっかりと空いた穴と父と過ごす筈だった時間を埋めるのが目的なのか、傍で見守るチチが体を壊すのではないかと危惧するほど悟飯は一心不乱に勉強に打ち込み、疲労困憊している。

そこにきて新しい家族が増えて以降は睡眠もままならぬとあって、見るに見兼ねたチチが悟飯に関しては信頼の置けるピッコロに相談を持ちかけたのだった。

だが、悟天が産まれるより数年も前から、時々悟飯が悪夢にうなされているのを、ピッコロは知っている。

ただでさえ子供であれば遺体を目撃しただけでもPTSDを発症する危険性が高いところなのに、常に死と隣り合わせの境遇に身を置き、人の生死を何度も目の当たりにしてきた悟飯の深層心理は、更に深刻に傷付いていた。

その深層心理の無数の傷が、見せてはならぬ悪夢を悟飯に見せる。

赤ん坊の夜泣きだけでなく、おそらくはこの悪夢も悟飯が充分な睡眠をとれない一因になっているのだろう。

そこまでの事情は知らないが、悟飯の疲労の回復を図るためにチチは一日だけピッコロに悟飯を預けた。

勉強はさせずとも良いから、とにかく悟飯をゆっくり休ませてやって欲しい、と。

悟飯の休養を目的としたこの日、日中はピッコロと花の咲き乱れる山野を散策し、親友のデンデと語り合い、時には頭脳系のゲームで互いに知恵を絞り合い、終始悟飯は明るい笑顔を見せていた。

日頃の睡眠不足が祟っている上に久々にはしゃいで普段より疲れたのだろう、言葉で語らずとも悟飯の体が休息を求めているのがピッコロにはわかる。

ピッコロは重いマントとターバンを外して床に放ると、ベッドに潜り込んで誘うように悟飯に片手を広げて見せた。

宙に浮いて瞑想したまま睡眠をとるピッコロがベッドに長身を横たえることは滅多になく、いつにないピッコロの行動の意味を悟った悟飯は逆らうことなく敬愛する師匠の意に従った。

静かにベッドに滑り込んだ悟飯は人の温もりを求めるようにピッコロに体を密着させたが、人間より体温の低いピッコロに悟飯を温めてやることが出来るのかどうかは、ピッコロの明晰な頭脳でも解析の難しいとところだった。

ひんやりとしたピッコロの腕に頭を預けたまま悟飯がピッコロの眼を覗き込み、カラス貝のような光沢を放つその瞳に、宮殿の暗闇でも悟飯の瞳の輝きは消せぬようだとピッコロは思った。

色白を通り越して不健康に青白い頬をピッコロの長い指で撫でてやると、澄んだ黒い瞳がうっとりと細められる。

そのまま頭をくしゃりと撫でると、今度はピッコロを捉えていた瞳を完全に閉じ、悟飯は大きなあくびをひとつ漏らして脱力した。

子供の特徴として、混濁した意識が眠りに堕ちるのに逆らうように悟飯は時々薄目を開けたが、その様子は『うとうと』と表現し得る以外の何物でもなかった。

そうして悟飯が静かな眠りに引きずり込まれる様を見守ったピッコロは、自身もまた、瞑想のような眠りに誘われたのだった。



だが―



宮殿の暗闇も下界の人々も寝静まった深夜、すやすやと眠っていた筈の悟飯の乱れた呼吸に、ピッコロは目を覚ました。

眠りを途中で妨げられても、睡眠を必要としないナメック星人のピッコロは些かも不快に感じなかったが、腕の中の愛弟子が苦し気にきつく眉根を寄せて時々全身を強張らせるのには目尻を釣り上げて不快感を表した。

「んっ・・・。くっ・・・!・・・うぅっ・・・」

何かに耐えるように食いしばった歯の隙間から地獄の責め苦に遭うような呻き声を上げた悟飯の額には、見る見るうちに玉のような汗が噴き出してくる。

悟飯の夢を探らずとも、明らかに悟飯は悪夢にうなされていた。

既に汗で湿り気を帯びた悟飯の頭をピッコロが宥めるように撫でてやっても、悟飯の苦しみは一向に治まる気配を見せない。

無理もない、とピッコロの胸中を憐憫にも似たものが浸してゆく。

悟飯はまだ歳の端もゆかぬ子供でありながら、目の前で大切な者を何人も失い、自分より強い大人が次々に傷つき倒れる様を目撃し、数々の恐怖と絶望を味わい、何度も生死の境をさ迷ってきたのだ、これで深層心理に傷ひとつ付かない方が不思議でならないくらいだった。

例え、心を守る為にこれまでの戦闘で起こった出来事を脳が消去しようと作用していたとしても、心の奥深くに負った傷まで消し去るのは不可能なのだろう。

それほどまでに、悟飯のダメージは深刻なのだ。

「悟飯・・・」

いらえなどないのに、ピッコロは悟飯の名を呼んだ。

そうしなければいけないかのように。

悟飯の名を呼ぶのが、己に課せられた義務なのかのように。

「悟飯、オレといる時に悪夢を見るな・・・。今日くらいは、悪夢など見ずに眠れ・・・」

ピッコロは眼光の鋭い眼を静かに閉じると、悟飯の頭を撫でていた手でそっと悟飯の瞼に触れ、そのまま親指の腹で優しく瞼をなぞった。

ピッコロがかけた魔法は瞼の内側から悟飯の脳と心に届き、悪夢が消え去った後の悟飯は子供らしい寝息を立てて穏やかな寝顔を見せる。

それは、ピッコロの中の神ですら驚くほどの優しい魔法だった。





手の中のシーツを放したピッコロは己のベッドに視線を投げ、そこで眠っていた悟飯の幻を見ていた。

昨夜の悟飯の苦し気な姿が、ピッコロの胸を焼く。

悟飯はいつも、悪夢を見る度にあんなに苦しむのだろうか。

悟飯の見る悪夢は、ひと晩の間にどれほどの長さで続くのであろうか。

あの苦しみを永遠に悟飯から取り除いてあげられたらと願わずにはいられないが、昨夜と同じ魔法を毎日悟飯にかけてあげられていた人造人間が現れる前の3年間と違い、世界の平和と日常を取り戻した今となってはそれも敵わない。

せめてピッコロと逢った日くらいは悪夢を見ずに済むようにと、今日も別れ間際にピッコロは悟飯に魔法をかけていた。

瞼をなぞるピッコロの指を訝しがるでもなく、礼を述べて天界から下界へと降り立って行った悟飯。

ふたりの間で既に当たり前の儀式となっているピッコロの行動に、疑問を感じていないようだった。

もしかしたら悟飯は、ピッコロがかけた魔法を知っているのだろうか。

「悟飯・・・」

愛しい名を呼べば、悟飯を想って焼けたピッコロの胸が切なく疼く。

その切なさを白いシーツに埋めるように、ピッコロは己の腕を枕にして横たわり、昨夜の悟飯の幻と向き合った。

頭の重さと腕の間で、尖った大きな耳の片方が潰される。

人間より遥かに鋭い聴覚を持つ耳には、ピッコロを呼ぶ悟飯の声が蘇っていた。

『ピッコロさん』

『ピッコロさ~ん!』

『ピッコロさん、大好き!』

悟飯だけはピッコロに対し、他の者と違って恐れや敵意を抱かず、尊敬と親しみを篭めた声で父と同じ名で呼ぶ。

ピッコロの名前はかつて世界中で『大魔王』として知られていたが、それは神とふたりに分離してからの名前だった。

地球の神となる以前は、何と呼ばれていたのかは神さえ知らない。

時々、ピッコロの中の神が幼い頃の記憶を頼りに思い出そうと試みることがあるが、ピッコロにとっては今更興味も必要性も感じず、馬鹿馬鹿しいほどどうでもいいことだった。

悟飯が呼んでくれる名こそが、ピッコロの名前だったから。

「悟飯・・・」

特別な意味を持つ名をもう一度呼び、ピッコロは悟飯の幻へと幾何学模様が刻み込まれたかのような腕を伸ばした。

悟飯は知っているだろうか、ピッコロの瞳に世界が美しく見える魔法を悟飯がピッコロにかけたのを。

ピッコロが見続けた色褪せた世界が、鮮やかな色彩に彩られたのを。

悟飯がピッコロの胸に、愛しさと切なさと、暖かさと苦しみを与えているのを。

ピッコロは悟飯の幻を胸に抱き、そっと瞳を閉じて地球人に倣った。

今頃悟飯は、勉強を終えて眠りに就いているだろうか。

今夜は優しい夢を見る筈だ。

何せ、昨日ピッコロと見た景色を悟飯が夢に見るように、ピッコロが魔法をかけたのだから―





END

ここまでお読み戴きありがとうございました。
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