【魔法Ⅱ】
神の宮殿にピッコロを訪れたその夜、悟飯は絶望を色で表したような闇の中でひとり佇んでいた。
その闇は悟飯を押し潰さんと上からのし掛かかり、陰気に肌に纏わり付いては不快な息苦しさを誘う。
―ああ、またこの夢を見ている―
夢の中でありながら、悟飯は自身が夢を見ているのを知っていた。
それはまるで、気節毎のイベントのように幼い頃より繰り返された、悟飯にとっての恒例行事であった。
母親のチチに叱られた日でも、日中を楽しく過ごした夜でもこの夢を見ることから、どのタイミングで見るのかは悟飯にもわからず、夢が現れる間隔もまちまちであった。
だが、悟飯がどんなに幸福感に浸っていても、どんなに忙しない日常生活を送っていても、決してこの夢からは逃れられない。
それだけは事実であり、唯一の真実でもあった。
やがて、上下左右も壁もない無限に広がる闇の中で、悟飯の足に何かが当たる。
これも、いつも通りの展開だった。
夜目も利かないほどの濃い暗闇なのに、何故か悟飯の足下に転がる『モノ』だけは、ぼんやりと形を成して視認が可能となってくる。
『それ』はある時は胸に穴の空いた父の姿であったり、ある時は顔を涙で濡らしたボロボロのピッコロであったり、ある時は片腕のない天津飯であったり、ある時は悟空が倒した敵だった。
ハッと息を呑んだ悟飯の心臓が跳ね上がり、足が竦む。
慌てて逃げ出したい衝動に駆られるが、悟飯の足は根を下ろしたように闇の地面に固定され、一歩たりとも動くことは不可能だった。
怯える悟飯に向かって今度は木っ端微塵になった誰かの肉片が飛び、かけらのひとつが顔に付着する。
夢の中だからなのか、これだけの惨劇にも関わらず不思議と微かな異臭も感じない。
感じ取れるのは、もっと別のものだった。
悟飯達が戦闘の際に感じる『気』なのか、はたまた死体から立ち上った怨念なのか、死の間際の痛みと苦しみ、敵への怒りと憎しみ、志なかばで倒れる無念さなどありとあらゆる負の感情が混ぜ合わさった気持ちの悪いエネルギーが頭上で渦巻き、得体の知れないそのエネルギーに悟飯がすっぽりと覆われると、悟飯は呼吸も身動ぎも出来なくなる。
苦しみにもがこうとする悟飯を嘲笑うように闇に中から姿の見えない巨大な怪物が生まれ、この怪物が悟飯を頭から喰らおうとする直前で、目が覚める。
悪夢から目覚めた後でも、悟飯には微塵の安心感はなかった。
涙と汗で顔はぐちゃぐちゃに汚れ、汗だくになった体にパジャマの生地が不快に張り付き、恐怖に竦んだ心はギシギシと軋み、戦闘後並みの疲労を訴える体の重みは苦痛以外の何物でもない。
だが、昨夜は切断された天津飯の片腕が悟飯目掛けて飛んできた段階で、突然悟飯はいつもの悪夢から救われた。
悟飯を押し潰す闇が霧消し、悟飯の意識が光りに向かって浮上を始めた時、悟飯を呼ぶ誰かの声を聞いた気がした。
それからは夢も見ず、乳飲み子の泣き声に起こされることもなく、母の出産以来久方ぶりにぐっすりと眠れた。
朝になって目覚めた悟飯の目に飛び込んだピッコロの横顔で、昨夜の悪夢が何故途中で消え去ったのか瞬時に悟飯は悟った。
本来ならば中断された悪夢が悪意を持って今夜再び悟飯を襲う筈だが、今夜は大丈夫だと悟飯は確信していた。
ピッコロが別れ間際に行った、親指の腹で悟飯の瞼を優しくなぞるあの儀式。
あれはきっと、ピッコロの魔法なのだ。
だから、今夜は大丈夫。
そう思って目を瞑るのだが、いつまで経っても一向に眠くならない。
今夜は悪夢を見ないようにせっかくピッコロが魔法をかけてくれたのに、ピッコロを想う胸が切なくて、眠れない。
彼は気付いているだろうか、悪夢を見ない魔法以外にも、彼が悟飯にかけた魔法の存在を。
悟飯に魔法が使えたなら、お返しに同じ魔法をピッコロにかけられるのに。
「ピッコロさん・・・」
悟飯に不思議な魔法をかけた当人の名前を呼んでも、当然だがいらえはない。
そもそもこの声が、彼には届いていない。
悟飯が夜毎彼の名を呟くのも、彼は知らないのだろう。
「ピッコロさん、大好き」
この呪文を毎晩唱えたら、彼にも悟飯と同じ魔法がかかるのだろうか―
枕元に置いた手作りのピッコロの人形を胸に抱き、悟飯はそっと瞳を閉じた。
END
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