【去り行くあなたへ】
丸テーブルの周りには、シンプルでセンスの良いデザインの2脚の椅子。
言わずもがな、兄ちゃんとビーデルさんの席。
「ビーデルさんを呼んで来なきゃね。何処に居るか、兄ちゃん知ってる?」
心とは裏腹に、兄ちゃんを奪った女性にご親切にも気を回したりして。
ああ、俺ってばこんなに健気な一面もあったんだ。
「ビーデルさんなら、居ないよ。何でも忘れ物があるとかで、お昼前に実家に戻ったんだ」
「へぇー・・・そうなんだ・・・」
なんて、いかにも興味なさそうな返事をしておいて、その実、久々に兄ちゃんとふたりきりになれたのが内心では嬉しかったりして。
「お前も食べるだろ?母さんにお前の分も用意してくれるように頼んでおいたから、一緒に食べようぜ」
「え・・・」
ドキリとした。
兄ちゃん、もともと俺と一緒にランチのつもりだった?
だから俺に、弁当を届けさせた?
「いいけど・・・お母さん、家でひとりになっちゃうよ?」
ほんのりとした頬の火照りを自覚しつつ、本当は嬉しいのに、その嬉しさを隠してわざと気乗りしない素振りを見せたりして。
ああ、どうしてこんな時に素直に喜びを表現できないんだろう。
「たまにはイイんじゃないか。こんな時でもないと、母さんがひとりでゆっくり食事する機会なんてないからさ」
―ああ、そうか。
兄ちゃんなりの、母さんへの気遣いだったんだ。
決して、俺と兄弟水入らずで最後のランチを楽しみたかったわけじゃないんだ。
「・・・それに、これが最後になっちゃうかも知れないからさ・・・」
兄ちゃんがボソリと何か呟いた。
けど、丁度その時にPCの着信音が鳴って兄ちゃん声に被さり、兄ちゃんが何て言ったのかはわからない。
何てタイミング。
しかもこの音、メールだ。
―パソコンのメール!?
「パソコン、もう使えるんだ?」
「ああ」
重箱の包みを解きにかかった兄ちゃんは手を止めて、扉の向こう側に設置された小さな簡易テーブルの上のパソコンを見遣った。
確かに兄ちゃんにとってパソコンは必要不可欠の生活必需品だけど、さ。
どんな事情であれ、すぐに使えなければ意味がないのかも知れないけど、さ。
それにしても、いくら持ち歩き用のノート型とはいえ、ルーターがどうやらネットの接続環境がなんちゃらと難しい配線の接続が必要なのに、引越し当日の昼前にはもう使用可能になってるなんて。
「もう配線の接続が終わってるなんて、ずいぶん仕事が早い業者さんだね」
「業者・・・?まさか!僕が繋いだんだよ」
「ええっ!?兄ちゃんが!?」
「驚いたかい?でも、これくらいどうってことないよ」
驚いた・・・なんてもんじゃない。
兄ちゃんが優秀なのは知ってたけど、まさか自分でPCの配線を繋いじゃうなんて。
何て言うかもう、根本的に俺なんかとは頭の造りが違うんだな。
「ビーデルさん、お昼は向こうでサタンさんと食べるってさ」
兄ちゃんの肩越しにパソコンを覗き込むと『ごめんね、悟飯くん』の一文が見えた。
そうか、こんな時だからこそ、ふたり共家族を大切にしたいんだ。
そうだよね、新しくできた家族より、これまで共に過ごしてきた家族の方が長い人生の中で一緒にいられる時間は短いんだから、当然なのかも知れないね。
だとしたら、さっきは拗ねたりする場面じゃなかったんだな。
と、兄ちゃんがメールを閉じた後のパソコンのデスクトップの一角に、俺は『悟天』と書かれたフォルダを発見してしまった。
俺!?
何で!?
どうして!?
俺、何かした!?
「・・・兄ちゃん、この『悟天』ってフォルダ、見てもいい?」
「ああ、いいよ」
恐る恐る尋ねてみると、私物のパソコンなのに、兄ちゃんは微塵の躊躇もなく俺の申し出を快諾してくれた。
さっぱりとした表情の兄ちゃんと違って、兄ちゃんから受け取ったマウスでクリックしたフォルダが開くまで、俺の胸は不吉な予感にドキドキが止まらなかった。
このフォルダの中身は何だろう。
もしかして、俺の悪事の数々が書き込まれていたりして。
いや、だったら兄ちゃんがすんなり承諾してくれるわけないか。
でも、そう思ってしまっても不思議ではないくらい、心当たりがたくさんあるんだ。
いっぱい悪戯して、いっぱい兄ちゃんを困らせてきたから。
―え・・・?
「これ・・・って・・・」
開いたフォルダからパソコンの画面いっぱいに現れたのは、なんと俺だった。
もとい、俺の写真だった。
しかも、全部見覚えがある。
さっきまで俺が見ていたアルバムの中の写真と、そっくり同じだ。
「兄ちゃん、この写真って、クローゼットの中のアルバムと同じだよね?」
「ああ、そうだよ。あのアルバムは僕から母さんへの置き土産なんだ。僕にはこっちがあるからね。少しずつカメラから取り込んでいって、昨夜やっと作業が完了したんだ」
「昨夜!?」
・・・って、引っ越し前夜だよ、他にももっとやるべきことがあったんじゃないの!?
なんて、そんなこと、この際はどうでもいい。
それよりもー
「こうしておけば、どんなに忙しくても、好きな時にお前に逢えるから、さ」
「兄ちゃん・・・」
いいの!?
兄ちゃんは本当にそれでいいの!?
「だって、だって・・・俺、いつも騒々しくて、兄ちゃんの勉強の邪魔ばっかりしてて・・・」
何言ってんだよ、俺!?
何もこんな感動的な場面で、ここまで自分を卑下しなくても良さそうなものなのに。
でも、駄目だ。
さっきまでキュウキュウと縮こまっていた心が兄ちゃんの言葉で綻んで、そこから詰め込まれた想いが溢れ出そうとしている。
わけがわからないけど、自分でも制御できない。
「だからイイんじゃないか」
―はあ!?
今、何て!?
「お前はいつも元気いっぱいで、見ているとこっちまで楽しくなってくる。そんなお前から、僕は疲れた時にパワーを貰っていたんだよ」
「・・・そう、だった、の・・・?」
「今までありがとな、悟天。お前が居てくれたおかげで、楽しかったよ」
兄ちゃん・・・。
兄ちゃん。
兄ちゃん!
兄ちゃん!!
置き去りにされたわけじゃなかったアルバム。
兄ちゃんにとって要らない存在なんかじゃなかった、俺。
ああ、どうしよう。
ついさっきまで悲しみに張り裂けそうだった胸が、今は別の感情ではち切れそうになっている。
兄ちゃんへの感謝や愛情や憧れや尊敬の気持ちが、まるで鍋いっぱいに張られた水が沸騰して鍋から溢れるように、俺から溢れ出ようとしている。
その鍋の中の熱湯が泡となって弾けるように、俺の胸の中で煮え立った感情のひとつがぽんと破裂した瞬間、俺は兄ちゃんに口付けていた。
どうしてそんなことをしたのか、俺にもわからない。
だけど、気が付いた時にはもう、俺は行動した後だった。
「・・・・・・」
「・・・っ!」
俺の突然の振る舞いにも、やっぱり兄ちゃんは怒らなかった。
俺がゆっくり唇をはがすと、兄ちゃんは面食らった顔で俺を凝視して、数拍の間を置いてから思い出したように赤面した。
でも、俺から逸らしたその瞳に浮かんでいたのは驚愕でもなく、怒りでもなく、困惑でもなかった。
今、兄ちゃんが何を思って何を感じているのか、俺は知らない。
だけど、兄ちゃんの瞳の端に僅かな照れが浮かんでいるのだけは、わかった。
「兄ちゃん、俺のこと、好き?」
「あ、当たり前だろ、兄弟なんだから」
唐突な俺の質問に、兄ちゃんはこれっぽちも躊躇う様子も見せずに即答した。
違うよ、兄ちゃん。
それは、俺が聞きたかった答えじゃない。
でも―
でも、いいんだ。
兄ちゃんがいなくなる今日、兄ちゃんにとっての俺の存在の意義を確認できたから。
兄ちゃんとの絆はそう簡単に壊れるほど脆いものなんかじゃないと、確信できたから。
それに。
「ねぇ、時々ここに遊びに来てもイイ?」
兄ちゃんが結婚したからって、兄ちゃんを諦める理由なんかにはならないと、わかったから。
「ああ、いつでも来てイイぞ。ビーデルさんも歓迎してくれるさ」
やっぱり。
そう言うと思った。
後半の一言は余計だったけど。
「・・・ありがと」
そう言った俺は、どんな顔をしていただろう。
笑っていたけど、もしかしたら泣きそうな顔をしていたかも知れない。
でも、俺を見た兄ちゃんは綺麗な顔でふわりと笑うと、中断された昼食の続きを促してきた。
兄ちゃんが包みを解くと、重箱の中にぎっちりと詰まっていたのはおにぎりやサンドウィッチと、箸を使わなくても食べられるものばかりだった。
どうやらお母さんは、引っ越しで忙しい兄ちゃんを気遣ってメニューを選んだらしい。
そんなお母さんに、思い出の詰まったアルバムと、ひとりでゆっくり過ごせるランチタイムをプレゼントした兄ちゃん。
兄ちゃんは今日、俺たちが育った家を出て行く。
その兄ちゃんに、心の中で俺は誓います。
これからも全力であなたを愛しますので、そこんとこヨロシク!
「そもそも隣同士なんだから、毎日行き来できるだろ?」
―そうでした!
END
ここまでお読み戴きありがとうございました。