【去り行くあなたへ】


パオズ山の麓に位置する、小さな我が家。

丸いテーブルを囲むダイニングに、年代物の古びたテレビが居座るリビング、こじんまりとした佇まいに、外には昔懐かしのドラム缶風呂。

決して裕福ではないけれど、この空間には家族の明るい声と笑顔が絶えなかった。

俺たち兄弟が生まれ育って、幸福に過ごしてきた、暖かな家。

兄ちゃんは今日、ここを出て行く。

結婚なんてものは既存の紙切れ一枚を役所に提出するだけで成立するけれど、引っ越しの方はそうもいかず、土地の購入に住宅の注文、ライフラインの手配に家財道具の下見と、兄ちゃんの引っ越しは数ヶ月も前から始まっていた。

そして、兄ちゃんの引っ越しの当日の今日、兄ちゃんの荷物がなくなってガランとした部屋に、俺はひとりきりで立っていた。

改めて中をぐるりと見回してみると、それなりに広いように思える。

ああ、そうか。

家族がひとり減っただけで、これからは居住空間のすべてが今までより広く感じるんだ。

そう思った途端に寂寥感に襲われて、俺は唇を噛み締めた。

鼻の奥がツーンとして、噛んだ唇も握った拳も震えたけど、いつまでもこうして感傷に浸っていられるわけではないのを思い出し、込み上げてくる涙をどうにか堪えたんだ。

兄ちゃんの荷物がなくなったこの部屋に、今度は俺の荷物を運び込まなければならなかったから。

兄ちゃんがいなくなった部屋。

兄ちゃんが使ってた部屋。

今日からはこの部屋が、俺の部屋になる。

部屋数の少ない我が家の一角を俺に宛てがわれると知った時、愚かにも俺は喜んだ。

それから暫く経って、ふと気付いたんだ。

兄ちゃんの部屋がなくなったら、この家にはもう、兄ちゃんが帰って来る場所がないんだってことに。

それから数日間は、デキの悪い自分の頭をたっぷりと恨んだよ。

念願叶ってようやく自分の部屋がもらえると舞い上がった分だけ、しっかり落ち込んだ。

それで、ね。

その時、わかっちゃったんだ。

兄ちゃんには新しい居場所ができたんだから、戻って来た時の心配なんかしなくたっていいんだ、ってこと。

いつか兄ちゃんが戻って来てくれるのを、俺が期待したいだけなんだ、ってこと。

バカだよね。

今さら、どうにもならないっていうのにさ。

ここまできたらもう、諦めるしか方法がないっていうのにさ。

しかも最悪なことに、今頃になって、俺から兄ちゃんを奪ったあの女性に対しての嫉妬がふつふつと湧いてきちゃったんだ。

さらに可笑しなことに、これから兄ちゃんを幸福にしてくれるのは彼女なんだって思ったら、兄ちゃんをよろしくお願いします、なんて祈るような気持ちも芽生えてきたり。

多感な時期を迎えつつある俺は、もつれた毛糸のようにいろんな想いが絡み合って、けっこう複雑な心境だった。

その、めまぐるしく変化する心と自分の荷物を抱えて家の中を何往復もしていた俺が『それ』を発見したのは、クローゼットを開けた時だった。

アルバム。

兄ちゃんが学生時代に使っていた教科書や参考書と同じくらい分厚いのに、冊数はゆうに十を超えていた。

表紙をめくらなくても、中に収められているものを俺は知っている。

兄ちゃんと、俺の写真。

兄ちゃんの写真はよくお母さんが撮ってたけど、俺の写真の撮影者は、ほとんどが兄ちゃんだった。

ああ、こいつ、俺と同じで置いてきぼり食っちゃったんだ。

そう思った途端、涙が溢れて止まらなくなった。

『僕にとってお前はもう要らない存在なんだ』と無言のうちに兄ちゃんに宣告されたみたいで、辛くて悲しくて、やりきれなかった。

すると不思議なことに、写真を撮影した当時の記憶が次から次へと蘇ってきて、ついに俺は床に突っ伏して、みっともないくらいに泣きじゃくった。

置き去りにされたアルバム。

兄ちゃんに置いて行かれた、俺。

あんなに、愛してくれていたのに。

あんなに、愛されていた筈なのに。

兄ちゃんの邪魔をして叱られても、危ないことをして怒られても、悪戯をして困らせても、いつも最後には兄ちゃんは俺を許してくれた。

兄ちゃんに許してもらえたと、思っていた。

本当は、嫌だった?

内心では、呆れてた?

俺みたいな頭の悪い弟、いない方が良かった?

兄ちゃんに嫌われても仕方がないようなあれこれが涙と一緒に溢れてきて、俺の過去の愚行の数々への情けなさまで止まらなくなった。

手遅れの初恋を自覚したばかりだったから、なおさらキツかった。

俺がもっと優秀だったらとか、もう少し聞き分けが良かったらとか、とりとめもないことまで考えた。


それからたっぷりと自分の存在価値を否定して、これからは心を入れ替えようなんて、ようやく気持ちが前を向き始めた頃、リビングからお母さんが俺を呼ぶ声が聞こえてきた。

時計を見ればとっくにお昼どきを過ぎていて、驚いたことに、俺は喪失感のあまりに空腹すら忘れていたんだ。

リビングに行ってみると、案の定、目を真っ赤に腫らした俺を見たお母さんは呆れ、めでたい日に泣くとは何事か、いい加減に兄離れしなさい、といつまで経っても精神的に幼稚な俺を詰った。

無理だよ、お母さん。

いつかは兄離れしなきゃいけないのはわかっているけど、今すぐだなんて、とても無理だ。

と俯いた眼前に巨大な重箱を差し出され、俺はしぶしぶそれを受け取ると、重い足取りで我が家を後にした。
 
兄ちゃんに届けてやってくれ、だってさ。

引越しのゴタゴタで実家に集まれないから、お昼は弁当を用意してくれって、前もってお母さんに頼んでたんだってさ。

しかも兄ちゃんは、弁当を届ける役に、俺をご指名なんだってさ。

何で、俺!?

と思わなくもなかったけど、理由はすぐにわかった。

お父さんは畑仕事に出掛けていて家には居ないし、お母さんは引っ越し祝いのパーティーの準備に忙しい。

要するに、俺だけは手が空いているだろうと、兄ちゃんは踏んだんだ。

まったく、いい迷惑だよな。

俺には俺の都合ってものがあるのに。

自分の荷物を部屋に運んだら終わり、じゃなくて、運んだ荷物は片付けないといけないっていうのに。

その辺の事情も汲み取ってくれよ。

なんてぶつくさと文句を言いながら、内心ではやっぱり、どんな理由であっても兄ちゃんに会えるのが嬉しかった。

けど、その反面、こんな複雑な心理状態で兄ちゃんの顔を見ても、なおさら落ち込むだけのような気もするんだよね。

ああ、俺って、結構ナイーブだったんだな。

なんてつらつらと考えていると、あっという間に兄ちゃんの新居に到着した。

荷物の搬入の為か、はたまた風通しが目的なのか、ノックするまでもなく玄関のドアは開き放たれたままになっていて、俺は訪問時の挨拶だけ済ませて中へと足を入れた。

その一歩を踏み出したきり、新居の内部を見た俺は思わず言葉を失った。

何て言ったらいいのか、とにかく圧巻だった。

玄関の扉をくぐってまず目に飛び込んできたのは、天井まで届く高さの本棚の数々だった。

それが中央の階段を挟んで左右に広がり、図書館を彷彿とさせるような荘厳な佇まいを見せている。

おそらくは階段の上のフロアが居住空間で、階下は生活とは関係のない区域なのだろう。

どちらかと言うと、書斎兼応接間。

訪れた者を仲間として迎え入れる造りの我が家と違い、招待した客人への応対を目的とした意趣を感じる。

例えるなら、大学教授と歓談しながら資料集めも可能のような。

しかも、これだけ背の高い本棚が居並んでいるにも関わらず、入って来た者にまるきり圧迫感を与えない。

何故なら、このエリアだけ天井が吹き抜けになっていて、開放感があるからだ。

その、ドーム型の建物の構造に従ってカーブを描く天井には明かり取りが幾つか設けられていて、この明かり取りから差し込む日差しと窓から入ってくる陽光が幾筋もの光の矢となって、部屋中に降り注いでいた。

ここはまるで、聖域だ。

僕たちが侵すことが許されない、兄ちゃんだけの聖域。

その聖域のキラキラとした光の中に、兄ちゃんはいた。

「悟天」

俺の姿を認めた兄ちゃんは、まるで天使のように光りのシャワーを浴びながら、本棚に分厚い本を収める手を止めて梯子の上から俺を振り返った。

そんなに嬉しそうな顔をしないでよ。

余計にツラくなっちゃうから、さ。

「弁当を持って来てくれたんだろ、サンキュー!」

「うん・・・。どこに置けばいい?キッチンまで運ぼうか?」

「いや、そのへんのテーブルに置いてくれ」

「はーい」

ついさっきまであんなに絶望感に打ちひしがれていたのに、日常的な会話はぽんぽん飛び出してくる。

胸はこんなに、灼けるように切ないのに。

ああ、俺、やっぱり兄ちゃんが好きなんだな。

どんなに辛くても、どんなに苦しくても構わないほど、兄ちゃんが好きなんだ。

改めてそう思うと、乾いた筈の涙が再び込み上げてきそうになってくる。

そんな情けない顔を兄ちゃんに見られたくなくて、俺は兄ちゃんに背中を向けると、近くの丸いテーブルにどさりと重箱の包みを置いた。
1/2ページ
スキ