【藤棚の下で】
「・・・我ながら欲張りだったと思うよ。悟飯さんにはビーデルさんがいたのに・・・」
悟飯の肩に頭をもたれさせて、トランクスは独り言のように呟いた。
トランクスの懺悔の声音に、トランクスにすべてを奪われても良いと望んだのは自分の方ではなかったか、と悟飯の罪悪感がちくりと疼く。
家庭を持つ身でありながらトランクスの心を捕らえ続ける悟飯こそ、欲張りなのではないのか。
「でも、俺は今、もっと欲張りなことを思っている―。・・・悟飯さんの、未来が欲しい・・・!」
トランクスが囁いた刹那、春ならではの強い風がふたりの間を吹き抜けてトランクスの髪が花びらのように舞い、ほのかに漂った髪の香りに悟飯はぎゅっと両手を握り締めた。
互いに相手の立場を考えずにはいられないが、ふたりの未来を願うのは悟飯も同じこと。
人前でさえなければ藤色のトランクスの頭を抱いて頬をすり寄せたい悟飯の心に、トランクスの真摯な呟きが深く染み込んでくる。
「ねぇ、悟飯さん!ここで結婚式を挙げましょう!俺達ふたりだけの結婚式を・・・!」
我ながら名案だとばかりにトランクスは勢い良く立ち上がり、結婚式でお馴染みのメロディーを口ずさみながら大げさな仕草で結婚式の真似事を始めた。
ひとり掛け用の石の椅子の上に土足のまま立ち、一人二役で神父と新郎を演じて見せる。
―汝、トランクスは、病める時も健やかなる時も、新婦、孫悟飯を愛することを誓いますか?―
―はい、誓います―
―死がふたりを分とうと、その愛が未来永劫変わらないことを誓いますか?―
―はい、誓います―
藤棚の周りの人々は何事かと驚き、目を丸くしてトランクスの行動を見守っている。
トランクスの美貌に、俳優の演技だとでも思ったのだろうか、中には映画かドラマのロケを疑う声もあった。
その声の中に『どこかで見た顔』という台詞を聞き咎め、悟飯の心を影が覆う。
メディアに出るのを嫌うためにTVでトランクスを見かけることは少ないが、イケメンの若社長としてこれまで何度も経済誌の表紙を飾ったトランクス。
彼を取り巻く環境を思う時、悟飯は否が応にも自分の罪を自覚せずにはいられなかった。
「トランクス・・・」
名前を呼ぶと、トランクスは跳躍して悟飯の前に降り立ち、恭しく悟飯の手を取った。
高貴な姫君を扱う騎士のような紳士的な動作で悟飯をベンチから立ち上がらせようとするが、この時初めて悟飯はトランクスに抗った。
「・・・?」
手を引くトランクスとは逆方向に篭められた悟飯の力を訝しがるトランクスに、悟飯が慰めと宥めを目的とした穏やかさで、静かに問う。
「・・・お見合いの話があるんだって?」
責めるでもない悟飯の落ち着いた口調に、トランクスはどうしてそれを知っているのかという驚愕よりも、やはり知っていたのかという絶望感に肩を落とした。
トランクスの噂なら、すぐに悟飯の耳に入る。
彼の親友は、悟飯の弟なのだから。
今回ばかりはトランクスは悟飯に知られまいと親友にも黙っていたのだが、親同士も友人としての交流がある以上、悟飯の耳に入るのも時間の問題だった。
「結婚なんて、したくありません!見合いもです!・・・母にもそう言いました。そもそも、俺は女性に興味すらありませんから・・・」
「わかってるよ」
理不尽な怒りに身悶えるトランクスを受け止める優しさで、悟飯は微笑みを浮かべて頷いた。
今日のデートでこの話が出た時、極力笑顔でいられるように努めたいと心に決めていた悟飯だったが、努力するまでもなく、自然と悟飯は微笑みを崩さずにいられた。
ブルマからチチに、チチから悟天に、悟天から悟飯に話が伝わった折には『見合い』という単語が悟飯の心に鋭い切り傷をつけたが、悟飯はすぐさま己の中の不安を払拭した。
悟飯に向けられる真摯な眼差しが、悟飯を想う言葉の数々が、悟飯を抱く腕の力強さが、悟飯の体に重ねられる熱に浮かされたような体温の熱さが、トランクスとの思い出のすべてが、悟飯の中の不安を掻き消してくれた。
悟飯が不安を覚えると、トランクスが傷つく。
だから、悟飯は不安を捨てることにした。
そもそも、常々悟飯を失うのを恐れるトランクスの心を疑うなどと、どうして出来ただろうか。
悟飯に恋焦がれているトランクスが見合いを拒絶するのは、わかっていた。
そして、今回の見合いの申し出をブルマが断れない事情も。
「相手、取引先の社長令嬢なんだって?結婚するかしないかはともかく、会長であるブルマさんの顔を立ててあげないのはマズイだろう?」
穏やかに諭す悟飯に、期待していた予想とは異なる結果を見出したトランクスは愕然とうな垂れた。
恋人である以上、トランクスの見合いを望まない言葉を悟飯自身の口から聞きたかったのだろうと悟飯は思ったが、未来への憧れを抱く血気盛んな若者のトランクスと違い、悟飯は世の中の道理と仕組みを学んだ大人だった。
己の感情のみを押し通せるほど社会は単純ではないと、悟飯は知っている。
だから、今日はとことんまでトランクスと話し合おうとここに来た。
自分の立場を逆手にとってトランクスに見合いをしないよう懇願するのではなく、ブルマの立場を慮ってトランクスに見合いをするよう説得するために。
「・・・悟飯さんは、それでいいんですか・・・?」
硝子の輝きを放っていたトランクスの空色の瞳に暗い影が落ちるのを、悟飯は黙って見守った。
トランクスには、きっと冷たい男だと思われたのだろう。
もしかしたら、トランクスへの愛情も疑われたのかも知れない、とも思った。
だがそれも、もとより悟飯には覚悟と承知の上だった。
「お見合いをしたからと云って、必ず結婚しなければならないわけではないだろう?先方にはお見合いをしてからお断りすればいいじゃないか」
トランクスが断るのを前提とした悟飯の説得に、トランクスの瞳に輝きが戻る。
この手をトランクスとて考えなかったわけではないだろうが、おそらくお見合いを承諾すること自体が悟飯への裏切り行為だと思ったのだろう。
もしくは、裏切り行為だと悟飯が考えると思ったか。
ふたりの関係が終わるきっかけになりはしないかと怯えるトランクスに、愛されている絶対の自信があるからこそ悟飯は揺らがないのだと、教える必要があった。
「俺が断るとわかっていて、見合いをしろと言うんですね。それなら、母の顔も立てられるからと。それで、もしも・・・。もしも、俺が心変わりしたら、どうするつもりなんですか・・・?」
トランクスには、大層な自信家だとでも思われたのだろうか。
実際に相手の女性と逢ったトランクスの心変わりを心配しない悟飯の思考の甘さを、トランクスに詰られている気がした。
悟飯を見下ろすトランクスの瞳に非難の色が浮かび、淡々と説く悟飯に対するトランクスの心情を思わずにはいられない。
「そうしたら、僕は身を引くよ。トランクスのいない所で、トランクスを想ってる」
短い悟飯の台詞の間にトランクスの表情が三度変わる様を目の当たりにしながら、悟飯はトランクスとの交際当初から心の奥底に仕舞い込んだままの想いを曝け出した。
トランクスとの恋を簡単に諦めてしまう悟飯に『薄情者』と怒りを向けたトランクスの眼差しが、悟飯の誠実さに驚愕の色を映し、そこまで悟飯に想われていたと気付かなかった己の愚かさと、そこまで想い続けてくれる悟飯への懺悔に縁取られる。
「たぶん、トランクスが結婚しても、僕は命が尽きる最後の瞬間までトランクスを想っていると思う。・・・僕の未来が欲しいと言ったね。トランクスが望まなくても、僕の心は死ぬまでトランクスのものだ」
悟飯には、妻子がある身でありながらトランクスとの交際を続けている自分が卑怯者だとの自覚が十分過ぎるほどあった。
ふたりの仲を知る悟天は応援してくれているが、その他の誰から非難されても仕方がない、と悟飯は思う。
だからこそ、トランクスには嘘や誤魔化なしで誠実であり続けたかった。
いつでも誠実に、本音と本音で語り合いたかった。
その悟飯の思いを知ってか知らずか、トランクスは言葉に覆いを掛けない実直さで自身の心を伝えてくる。
トランクスは率直で素直で、贔屓目なしでも好感度の高い青年だった。