【藤棚の下で】


目玉商品であるホイポイカプセルを始め、世界中の乗り物を一手に引き受ける世界一の大企業、カプセルコーポレーション。
その巨大なビルの周りをカプセルコーポレーションの社員のランチタイムや終業時間を狙った飲食店の群れや娯楽施設がぐるりと囲み、一帯は西の都で最大の商業地帯と化している。
商業地帯の裏手には簡素な住宅街が並び、カプセルコーポレーションのビルから住宅街に抜けてすぐの角には、住人の為に造られた広大な公園が老若男女を問わず人々の憩いの場となっていた。
中でも有名な観光スポットとしてそちらの方面で紹介される機会の多い藤棚は、規模の大きさから世界有数と呼ばれ、藤の花の季節には見る者に和やかな癒しを与えている。
その、満開になれば別世界に迷い込んだかと錯覚するほどの見事な花を咲かせる藤棚の下は、トランクスと悟飯のお決まりの待ち合わせ場所だった―





車両の侵入を阻む公園の入口のゲージをくぐり抜けると、悟飯は真っ直ぐ藤棚に向かって小走りに駆けていた。
忙しい仕事の合間にやっと確保できた休日。
午前中はゆっくりと家族と供に過ごし、駄々をこねる我が子を何とか宥めすかして自宅を後にした時にはもう、トランクスとの待ち合わせ時刻にギリギリ間に合うかどうかの時間になっていた。
例え悟飯が遅刻したとしても、待ち合わせの相手のトランクスはむくれて帰ることも焦れて怒ることもないのはわかっていたが、なかなか予定が合わないトランクスとのデートを悟飯の遅刻などで一分たりとも無駄にしたくなかった。
あと3分、あと2分・・・。
のんびり散歩を決め込む人々を避けて進みながら、悟飯は何度も腕時計を見遣る。
ああ、もう!
どうしてこんな時に限って時計の針は早く進むのだろう。
ようやく藤棚の前の噴水に辿り着いた時、悟飯は安堵に急ぐ足を緩めた。
冬はリズミカルな水芸を封印されていた噴水が、春の麗らかな暖かさに、再び様々に形や強弱を変えてダンスを披露している。
踊るように噴き出す水の向こうに藤棚の姿を見出して、悟飯はほっと全身の緊張を解いた。
腕時計を確認すると、時計の針は約束の時間の一分前を指している。
間に合ったぁ・・・!
慌てて駆け付けた様子など微塵も見せぬ落ち着きを取り戻し、悟飯は噴水を回って藤棚へと歩を進める。
と、藤棚の側を通りかかる人々が、聖なるものを敬うような視線をある一点に向けているのに気が付いた。
ある者は目撃した途端に足を止め、暫し呆然と見惚れ、ある者は通り過ぎる間に何度も振り返っては、現実と非現実の別を確認している。
人々の注目を浴びる一点には、藤の花と同じ髪色の美貌の青年が、この世のものとは思えぬ神聖さを纏って佇んでいた。
何本も植樹された樹齢の長い藤の木が幾重にも枝を張り巡らせる藤棚の下は、ただでさえ幻想的な世界を彷彿とさせている。
その藤棚の下に、藤の花の精と見まごう青年がひとり―
藤の花の色と彼の髪の色が溶け合って人並み外れた美貌を更に際立たせ、憂いを含んだ儚さと醜い精神を嫌うような厳かさが混ざり合って、彼を人の体温を持たぬ存在のように印象付けている。
あまりの美しさに、行き交う人々が一瞬我を忘れてしまうのも、無理はないだろう。

(綺麗だ・・・)

昔から彼を良く知る悟飯でさえ、思わず足を止めてうっとりと見惚れてしまう。
だが悟飯は、彼が決して藤の花の精などではなく生身の男であることを、何度も確認していた。
初めて彼に押し倒された時のドキドキを、今でもリアルに思い出せる。

「悟飯さん!」

藤棚の側の悟飯に気づいたトランクスが、彼が感情を持たない藤の花の精なのではなく、れっきとした人間であるのを証明するような溢れんばかりの笑顔を向け、悟飯の心臓が音を立てて急停止した。
藤の花の隙間から降り注ぐ陽光の中、一陣の風に舞う藤の花びらがトランクスの髪を包み、あまりの眩しさに悟飯は額に手をかざした。
思い出の中ではなく、現実に胸がドキドキしてくる。
そんな胸のドキドキなどない風を装って笑顔で手を振ると、更に破顔したトランクスが周囲の視線を振り切るように駆け出して来た。
トランクスが藤棚の下を離れる瞬間、舞い散る藤の花びらがトランクスの後を追うように見えたのは、目の錯覚だったのだろうか。

「会いたかった・・・!」

悟飯のすぐ目の前まで駆け寄って来たトランクスが、悟飯の心が蕩けるような笑顔を綻ばせて、悟飯の欲しがっていた言葉をくれる。
『僕も』と悟飯が返す間もなく、悟飯の手を捉えたトランクスは、何かに急かされるように藤棚に向かって歩き出す。
悟飯の手を優しく握るトランクスの手のぬくもりを感じながら、悟飯はトランクスに歩調を合わせた。
周りの視線が、突き刺さるように痛い。
トランクスがカジュアルファッションの時ですらこうなのだ、これがいつもの、見るからに高級そうなブランド品のスーツにトランクスが身を包んでいたのなら、悟飯に向けられる周囲の冷たい眼差しは如何ほどのものだったであろうか。
だがトランクスは、悟飯に逢いに来る時に母のブルマから買って貰ったスーツを着用していたことは一度もない。
悟飯と逢う時、トランクスは『世界一の大企業の若社長』の地位を脱ぎ捨て、悟飯の良く知っている悪戯っ子の顔でやって来る。
昔から変わらない尊敬の眼差しを悟飯に向けて。

「あそこが空いています!あそこに座りましょう」

トランクスが空いているベンチを指差すと、藤棚の下の人々がトランクスの行く手を遮るのを恐れるように道を開ける。
そんな人々に内心で申し訳なく思いながらも、悟飯に対して無邪気なトランクスが悟飯には嬉しかった。
ベンチに腰を下ろすと、いつものように世間話や近況報告からふたりのデートが始まる。
それがいつの間にか思い出話にすり替わっていったのは、常とは違って今が藤の花のシーズンだったからだろうか。
数年前、満開の藤の花の下でトランクスの告白を受け、悩みに悩み、迷いに迷った結果、悟飯は藤の花が枯れる頃に返事をした。

「―あの時はすごく嬉しかった。俺は世界一の幸福者だと思った。悟飯さんと両思いになれたことに満足して、他に欲しいものは何もない、何もいらないとさえ思った。―なのに・・・」

悟飯の心を手に入れた後、若いトランクスはその他大勢と同じく、次第に新たな欲望を抱くようになっていった。
初めは唇が触れるだけの軽いフレンチキスを交わしただけでも心臓がドキドキして眠れなかったのに、その口付けはやがてデートの度に深くなっていった。
キスの間に密着されたトランクスの体に、悟飯の急所に静かに忍び寄るトランクスの手に、トランクスの欲望を知りながらも拒絶できないままに月日が過ぎ、ある日とうとう悟飯はトランクスに押し倒された。

「―俺は、悟飯さんのすべてが欲しくなった」

藤の花が映る、どこか遠い所を見るようなトランクスの瞳が、過去を懐かしんでいるのかそれとも悲しんでいるのか、微かな憂いを秘めて硝子の輝きを放つ。
その空色の瞳に心臓を鷲掴みにされ、悟飯は思わず切ない音を立てる自分の胸へと手を当てた。
以前から不思議に思う。
彼の瞳は澄み渡る空の色を映したものなのだろうか、それとも珊瑚礁を育てる海の色なのだろうか。
トランクスの真っ直ぐな瞳に心が射抜かれたのは、何年前のことだったのか。

「どうしても我慢ができなかった。・・・だから、悟飯さんに受け入れて貰えてから暫くは、浮かれ過ぎて足が地面に付いていなかった」

過去の自分を可笑しそうにフッと笑いながら悟飯に振り返ったトランクスの表情に、言葉にならない感情が浮かんでいた。
これはただの思い出話なんかではないと悟った悟飯は、返事も相槌もせず、トランクスに話を続けるように無言で促した。
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