【あなたの首筋にキスの花を咲かせましょう】
一体、どうしたことだろうか―
安眠を貪った悟飯が目覚めた時、傍らでベジータが悟飯に腕を差し出して眠っていた。
あまりのことに驚いた悟飯だったが、久しぶりに夢も見ずに前後不覚で眠ったためか、清々しいほどに今はスッキリと目覚めが良い。
こんなにぐっすり眠れたのは、いつ以来だろう。
夜中に悪夢にうなされるわけでも、就寝時になかなか寝付けないわけでもないが、どんなに疲弊困憊していても何故か悟飯には浅い眠りしか訪れてくれなかった。
父が悟飯の目の前から消えた、あの日から―
それが、久々に体感した人の体温がよほど心地良かったのか、セルゲーム以来まともな睡眠をとれなかった悟飯が、ここ最近では珍しいくらいに熟睡できた。
そうして思い出したのだ、人の温もりの気持ち良さを。
だが、その温もりを予想外の人物が与えてくれていたとは。
悟飯を間に挟んで眠る父子を起こさぬよう注意して起き上がりながら、悟飯は記憶を頼りにこれまでの経緯を辿った。
確か、遊んでいたトランクスが、目を離した隙に妙に静かになったのだ。
不審がった悟飯が覗き込むと、いつの間にかトランクスは眠りの国の住人となっていて、乳児の丸い寝顔を見ているうちに次第に瞼が重くなり、悟飯は大きな欠伸をひとつ漏らした。
最近の睡眠不足から、さすがに疲労を自覚して悟飯はトランクスの横で休むべく自分の居場所を確保した。
―それきり記憶がない。
途中で誰かがトランクスと自分に何か暖かい物を掛けてくれたのは覚えているが、それまで以上に心地良い温もりに、悟飯は童話の眠り姫のように深い眠りに就いた。
そうして目覚めた時、悟飯はベジータの腕を枕にしていた。
代わりにベジータの頭を支える物が何もないことからして、おそらくベジータは寝落ちしたのだろうと推測できる。
ということは、悟飯とトランクスを気遣ってこの手触りの良いブランケットを掛けてくれたのは、ベジータなのだろうか。
いや、でも、まさか、そんな・・・。
あり得ない、と思おうとして悟飯はすぐに考えを改めることにした。
プライドの高さ故に他人と馴れ合うのを嫌うあのベジータが、悟飯に腕枕をしてくることの方がよほどあり得ないではないか。
それが、現実にはこうして眠る悟飯を抱いてくれていた。
在りし日の父がそうしてくれたように―
これは、粗野で無骨なサイヤ人の頂点に立つベジータにも、父性が芽生えた証なのだろうか。
人の命もその運命も玩具程度にしか思わない残虐なサイヤ人の王子でも、我が子を授かり、成長した未来の我が子が敵の手によって倒された姿を目の当たりにして、残忍な人格の底に眠る人間らしい感情が目覚めた事実を示しているのだろうか。
気難しそうな顔で眠るベジータを呆然と見詰める悟飯の胸に何とも形容し難い感情が去就し、悟飯は言葉にできない想いの塊を、ふぅ、と息にして吐き出した。
最もらしい理由をこじつけて度々カプセルコーポレーションを訪ねる悟飯を、ベジータはどう思っているのだろうか。
もしかして、こんな風にベジータが悟飯の父親代わりを努めてくれるのを悟飯が期待している、とでも思っているのだろうか。
悟飯が自分の父親より年上のベジータにそれを求めたところで何ら不思議はないが、事情はやや異なっている。
理屈ではなく、特別なことでもなく、ただ単にベジータに逢いたかっただけなのだ。
何年も前から小さな胸の奥に秘め、生涯伝える気などさらさらないが、好きな相手に逢いたいという欲求が沸き起こるのは当然の成り行きだった。
孤高の魂と、何びとにも挫くことの不可能な誇りの高さにどうしようのなく惹かれ、依然として片想い驀進中。
きっと、悟飯のような子供を、大人のベジータは本気で相手になどしてくれない。
セルの放った気孔弾からベジータを庇ったことだとて、悟飯の行動の裏の心理など、考えてもくれないだろう。
でも、それでも良かった。
子供の頃の片想いなんて、いつまでも続くはずがないから。
悟飯の成長に伴って、いつしか消えてしまう運命なのだろうから。
だから、それまでの間、精一杯ベジータを好きでいたいと思った。
悟飯には、ベジータが追い続ける悟飯の父より悟飯の存在がベジータの中で大きくなるなんて奇跡は、どう考えても起こり得ないのはわかり切っていた。
ベジータにとって悟飯は、道端に転がるその辺の小石と変わらないことも、知っていた。
その、名もない路傍の小石を、悟飯が父を失ったあの日から名前で呼んでくれるようになったのだ、それだけで十分だった。
ああ、でも―
警戒心の強いベジータが悟飯の前で珍しく見せた無防備な姿。
こんなことは後にも先にももう二度とないだろう。
ならばこそ、今日の記念に悟飯しか知らない想い出が欲しい。
未だに老いの見られないベジータの頬に、悟飯の唇がそっと触れる。
熟睡したベジータが目を覚まさないのを確認すると、更に欲張りになった悟飯の柔らかい唇はむき出しのベジータの首筋へと移動し、破裂しそうなほど激しく打ち付ける胸の鼓動を意識しながら小さく静かに吸った。
悟飯に腕枕をしてからいつの間に眠っていたのか、夕食を知らせにブルマに起こされたベジータは、咄嗟に状況が理解できなかった。
目覚めたベジータの傍らには既にふたりの子供の姿はなく、行方をブルマに問うとふたりとも1時間以上も前に起きたと云う。
しかも、教育ママのチチがよほど怖いのか、悟飯は慌てて帰宅したと。
冴えない頭で起き上がったベジータの首筋に、ブルマが目ざとく赤く小さな跡を見つけた。
「あら?ベジータったら、寝ている間に虫に刺されてるじゃない。・・・嫌だわ、トランクスも刺されてるのかしら」
ベジータを気遣うブルマの声にベジータが壁掛けの洒落た鏡を覗き込むと、虫刺されにしては不自然に歪んだ楕円形の赤い跡が、自身の存在をベジータにアピールするような確かさで首筋に残されていた。
まるで、それは虫刺されの跡などではなく、故意に人為的に付けられた印のように・・・。
そういえば、夢の中で首に柔らかい感触があったような気がしたが・・・。
「ブルマ、悟飯とトランクスと、どっちが先に起きたんだ?」
「悟飯君よー。悟飯君は起きてすぐに、急いで帰らなきゃいけないからって、トランクスが起きる前に帰ったわよ」
ダイニングキッチンへと向かうブルマに問い掛けると、ブルマは急ぐ足を止めずに顔だけベジータに振り返って答える。
ブルマの答えにベジータはある可能性を見出して、鏡に映る首の跡に苛立たし気に舌打ちをした。
「あのクソガキ!このオレ様に下品なことしやがって!」
遠ざかるブルマに聞き咎められない声で毒づき、ベジータは悟飯が残したと思しき跡を片方の手の平で覆った。
「この次逢ったら、子供の分際で大人にちょっかい出したことを、嫌と云うほど後悔させてやる」
今日のところは子供の浅知恵と未熟さで、悟飯はこの程度の行動で満足したのだろう。
だが、大人の世界はもっと大胆で生々しい。
それを悟飯に、嫌と言うほど思い知らせてやる。
しかも、悟飯に求められていたものが父性ではないと判明したからには、悟飯があの男の子供だからと遠慮する気も失せた。
―覚悟しておけよ、悟飯―
この次悟飯はどんな顔をして現れるだろうかと、ベジータは予想と期待に込み上げる笑いを噛み殺した。
END
ここまでお読み戴きありがとうございました。