【悟飯の涙と悟空の幸福論】
夜中に尿意を催し、覚めない頭でフラフラと用を足した悟空はふと悟飯が気になり、寝室に戻る筈の足を悟飯の部屋へと向けた。
今、何時だろう。
ベッドから起き上がる際に時計は見ていないが、こんな時間まで悟飯は勉強をしているのだろうか。
それとも、明日に備えてもう眠りに就いたのか。
「ふぁ~あ・・・」
大きなあくびをひとつ漏らして悟飯の部屋の前で足を止めると、扉が申し訳なさそうにほんの少しだけ開いている。
子供の頃からしっかり者のイメージの強い悟飯、自室の扉もきっちり閉めているものだと思っていたのに、珍しい。
細く開いた扉の隙間から照明器具の明かりは漏れてはおらず、夜更けまで勉学に勤しむ悟飯もさすがにもう就寝したらしい。
一体、何時まで勉強していたのだろう。
そんなに毎日毎日長時間勉強しなければならないほど、学者になるのは難しいのだろうか。
根を詰めて無理をしなければなれない仕事に就くのが、真に悟飯の幸福なのだろうか。
だが、学者になるのが小さい頃からの悟飯の夢ならば、親として応援したくなるのは当然の理だ。
どれ、せっかくだから悟飯の寝顔でも拝んでやろう。
と、ドアノブに手を掛けると中から微かな艶っぽい呻き声が聞こえ、悟空は驚愕と衝撃に思わずのけ反った。
(えええええええええ―っっ!!)
「うっ、ん・・・っ!・・・くっ・・・、うぅっ・・・!」
(こっ、こここここここここの声はっっ・・・!!)
唇を噛み締めたような艶やかな悟飯の声に、パジャマの上からでも上下するのがわかるほど大きく、爆発しそうな勢いで心臓が打ち付ける。
急激に顔が火照ってくるのも、わかった。
7年振りに再会した悟飯、今ではすっかり背が伸び、体型も父親と殆ど変わらない。
―のであるからには、悟飯の成長は何も体格的なものばかりとは限らない。
高校生にもなれば、Hな気分になることもあるだろう。
そういえば、悟飯の精通はいつ頃始まったのだろうか。
―なんてことを考えてしまうものだから、悟飯に『スケベ』と怒られるのだ。
だが、いかに天然の悟空とて親である限りは我が子の成長が気になってしまうのは仕方がない。
―ゴクリ・・・。
覗いて見てしまおうか。
もともと扉はほんの少し開いていたのだから、その扉をもうちょっとだけ開けてみるだけだ、そのくらいなら良いだろう。
音を立てないように細心の注意を払いながら悟空が扉の隙間を広げて恐る恐る中を覗いて見ると、予想を裏切ってベッドの上の人の形の山はピクリとも動いていなかった。
部屋の照明をギリギリまで絞った薄明かりの中、悟飯がすっぽりと布団に覆われているのが見える。
―ということは、布団の中で・・・?
布団の中の悟飯を想像し、悟空はもう一度大きく咽喉を鳴らした。
もう少しだけ、もう少しだけ近付いても布団を被った悟飯には気付かれないだろう。
悟空は人がようやっと通れるくらいの細さで軋み音も立てずに扉を開けると、するりと中に滑り込んだ。
一度だけ悟飯が布団ごともぞっと動いたがそれきり大きな動きはなく、後には下半身を刺激する艶やかな声が微かに部屋に響いている。
―悟飯のピー(自主規制)って、随分静かなんだな―
悟飯に気付かれないのを良いことに一歩、また一歩、そろりそろりと忍び足で悟空はベッドへの距離を詰めてゆく。
もはや今の悟空は親としてではなく、男としての興味と好奇心によって悟飯に惹き寄せられている。
だが、声はすれども一向に動きのない悟飯を不審に思い悟飯の足元からそっと様子を伺うと、何てことはない、すでに悟飯は就寝中であった。
(何だ、寝てんのか)
ホッとしたような、ガッカリしたような・・・。
「・・・うぅっ・・・んっ・・・」
悟飯に気取られる心配のなくなった悟空は忍び足を止めると、眠っているにも関わらず呻き声を上げ続ける悟飯の顔を神妙に覗き込んだ。
何か、悪い夢でも見ているのか。
当の悟空も、強敵が現れる度に悪夢にうなされた。
不安定な精神が悪い夢を見せ、悪夢が心に不安を与える相互関係を、悟空は知っている。
優秀な成績を修めようとのプレッシャーが、悟飯を精神不安定に追い詰めているのではないだろうか。
うなされる悟飯を安心させるように頭を撫でてやれば、閉じた瞳から流れる涙は悟飯の顔を濡らし、枕カバーにも大きなシミを作っていた。
チチがこの枕カバーを干すのを見て、液体が乾いて丸いシミになった跡を脳天気にも悟飯の寝ヨダレだと思ったのを覚えている。
今ここにトランクスのタイムマシンがあったなら、過去の自分に会って、枕カバーのシミは悟飯のなのだと教えてやりたい。
先の変な勘違いと併せて、罪悪感がチクリと胸を刺す。
新たに悟飯の瞳から流れるひと雫に、悟空はポツリと呟いた。
「悟飯、泣くな・・・」
―悟飯が悲しむなら、その悲しみを両の腕で抱き締めよう。
―悟飯が苦しむのなら、その苦しみをこの胸で受け止めよう。
―悟飯が泣くのなら、その涙が乾くまで悟飯の傍にいよう。
―だから―
「独りで泣くな、悟飯・・・」
頭を撫で続けるとやがて悟飯の呻き声が止み、代わりに静かな寝息が聞こえ始める。
布団の端からは、いつか悟空が世界中の幸福を握らせてやりたいと望んだ手が、大きさを変えて見えていた。
その手に悟空が己の手を重ねると、予想通りにふたつの手は形も面積もピタリと合う。
蕾のように小さかった悟飯の手は、今や頼もしいほどにこんなに大きい。
初めて悟飯の幸福を願った懐かしい感覚が、悟空の胸に去就する。
立派に成長した悟飯。
一人前の戦士に育った悟飯。
―この手の大きさに見合った幸福を、どうか自分の力で掴んで欲しい―
瞳の端に残る悟飯の涙を人差し指で拭いながら悟空は、悟飯の幸福に自分の存在が含まれますようにと祈った。
「なななななななっっ!!」
いつもより1時間ほど早く目覚めた悟飯は、驚愕のあまりに思わず飛び起きた。
「どどどどどどどどっ・・・!」
寝起きで頭が回転していないせいなのか、それとも信じ難い現実を咄嗟に受け入れられないからなのか、痴呆のように吃るばかりでどうして悟空がここにいるのかとの疑問の言葉が出てこない。
「・・・あぁ、起きたのか、悟飯・・・」
「お、お、お、おと、お父・・・、なっ、なっ、なっ、どっ、どっ、どう・・・」
「ああ、寝ながらおめぇが泣いてたからよ、頭を撫でてやってたらそのまんま寝ちまったんだな・・・ふぁ~あ・・・」
「泣いてた・・・?・・・僕がですか!?」
「おう、そうだ。おめぇ、こういうこと何度もあっただろう」
「いえ、普段は泣いたりなんかしませんよ・・・!」
「ああ、普段は・・・な。わかってるさ、そのくれぇ」
(絶っ対、泣き虫が治ってないと思われてる!)
真っ赤な顔で上目遣いに悟空を盗み見る悟飯にくすりとした笑いを漏らすと、悟空は起こした半身を肘で支えて悟飯を手招きして呼び寄せた。
「オラだって恐い夢くれぇ見ることがあるさ。別に恥ずかしいことじゃねぇだろ?それに、おめぇが未だに泣き虫だなんて、オラは思ってねぇ」
悟空の説明に半信半疑で悟飯がベッドのヘリまで近付くと、悟空は捉えた悟飯の腕を引いてベッドの中に戻るように勧めた。
「起きるにはまだ早ぇんだろ?オラに遠慮しねぇで、もうちょっと寝てろって」
(と言われても・・・)
衝撃的な出来事にばっちり目が冴えてしまっては、今更寝直しなどできる筈がない。
それと知りながら悟空は悟飯の頭をくしゃりと撫でつけると、優しく悟飯の瞳を覗き込んだ。
「でっかくなっても、おめぇはもっとオラに甘えたって良いんだぞ」
そう言い聞かせる悟空に、悟飯の脳に7年前に精神と時の部屋でふたりで過ごした日々が思い出された。
ふたりきりの世界。
ふたりきりの時間
ふたりきりの空間。
ふたりだけの思い出。
互いに意識し、
互いに信頼し、
互いに高め合った。
希望と絶望、
期待とプレッシャーを何度も繰り返し
傷付き、
苦しみ、
ボロボロになっているのに、
ふたりとも幸福だったー
悟空に促されるままに再びベッドに潜り込んだ悟飯は、逞しい父の腕に頭を預け、7年振りの温もりに黒曜石の瞳を閉じた。
悟飯が成長した為にシングルサイズのベッドはふたりには窮屈この上ないが、互いに感じる体温と匂いに、7年前と同じ幸福がふたりを包んでいた。
END
ここまでお読み戴きありがとうございました。