【お日様のにおい】




パオズ山の紅葉が深みを増したある夜のこと、小用を済ませた悟飯が洗面所で手を洗っていると、奥の脱衣所の扉が勢いよく開いて中から悟天が飛び出してきた。

「お兄ちゃん、拭いて!」

そして悟飯の顔を見るなり、嬉々としてそうねだった。
脱衣所のガラス戸越しに悟飯の姿を認めて慌てて駆け寄ったのか、タオルを片手に持っているものの、見れば脱衣所の床も悟天の足もともびしょにしょに濡れている。

「悟天、体くらい自分で拭け!」

すかさずバスルームからはチチの厳しい声が飛んでくる。

「え~!?たまにはいいでしょう!?」

それに返す悟天の声は、まったく悪びれていなかった。
たまにもなにも、悟飯は一緒に入浴する際は必ずと言っていいほど甘えん坊の悟天の世話を焼かせられる羽目になるのだ。
それなのに、いかにも普段はちゃんと自分でやっていますと言わんばかりの悟天の口ぶりに、悟飯はやれやれと肩を竦めた。

「悟天、体は兄ちゃんが拭いてやるけど、代わりに床は自分で拭くんだぞ」

ここで拒絶すれば、孫家には災害級の嵐が吹きすさぶことになる。
それよりは素直に要求をのんでやった方が無難だ。
それに、代わりに濡れた床の後始末を悟天自身にさせればチチの怒りも買わずに済む。
そう判断した悟飯はすんなりと悟天の甘えを受け入れた。
途端に悟天の顔が、ぱああ、と輝く。
それこそバックに効果音をつけたくなるほどに。
悟飯は悟天のこの顔に弱い。
甘やかしているとわかっていながら、躾や教育といった概念がどこかに飛んでいってしまうのだ。

「うん、わかった!」

悟天は元気よく答えると、小さめのバスタオルを悟飯の目の前に掲げた。
その手からバスタオルを受け取り、キューティクルの存在価値を無視した男子高校生らしい手つきで頭を拭いてやると、今度は照れたように『えへへ』と笑う。
こんな風に素直に甘えられると、どうしても可愛く思ってしまう。
そんな悟飯の心情を慮ってか、チチはもうなにも言ってこなかった。
普段は躾に厳しいチチも、悟飯が悟天の為に自ら動く時ばかりは、弟を大事に思う悟飯の気持ちを汲んでくれるのだ。
その辺りの事情を把握して甘えてくる悟天は、甘え上手な末っ子を地でいっているとしか言いようがない。
いつまで甘えてくれるのかはわからないが、世話を焼ける相手ができた喜びは、悟天の誕生から7年経った今でも変わりがない。
とくにこうして悟天のぬくもりを感じられる時、悟飯は言葉にならない幸福感に包まれるのだった。
もっとも、今、悟飯を包んでいるのは幸福感だけではないが。
湯にあたって上昇した悟天の体温、温かい湿気、そして、悟天の全身から漂う清潔な香りもそうだ。
悟天が纏う様々なものに、悟飯もまた包み込まれている。
それらはいつも、悟飯を優しく穏やかな気持ちにさせてくれるのだった。
中でもとりわけ、髪の香りは格段の効果をもたらしてくれる。
同じシャンプーと石鹸を使っているはずなのに、悟天から立ち上る香気は悟飯のそれとはまったく異なるのだ。
悟飯が洗髪したところでシャンプーの香料はたいして効力を発揮しないが、悟天の髪からは胸の奥がくすぐったくなる香りがする。

「お前の頭、良いにおいがするな」

「本当!?僕の頭って良いにおいがするの!?」

「ああ、兄ちゃんとはぜんぜん違う」

「え~?そうかなぁ?」

「そうだよ。・・・ほら拭き終わった。今度はお前の番だぞ」

「は~い!」

些細なことでも悟飯に褒められたのがそうとう嬉しかったのか、悟天は上機嫌だった。
その証拠に、いつもなら面倒くさがってごねるところを、悟飯の言いつけに素直に従った。
ところが―

「こら、悟天。体を拭いたタオルで床を拭くのはダメだろ。ちゃんと雑巾で拭かなきゃ」

今日はやけに聞き分けがいいと感心したのも束の間、なんと悟天は自分専用のバスタオルで濡れた脱衣所の床を拭き始めたのだ。
これにはさしもの悟飯も面食らった。

「まったく、お前は予想外のことをするなぁ。それじゃあ、バスタオルが汚れちゃうじゃないか」

「大丈夫だよ、どうせお洗濯するし」

「洗濯するのはお前じゃないだろ。お母さんだろ。せっかくキレイに洗ってもらったバスタオルを汚して、お母さんに悪いと思わないのか?」

「思わないよ。だって、洗濯するのはお母さんじゃなくて、洗濯機だもん。それに、お家の床はいつもお母さんがピカピカに磨いてくれてるから、どこも汚くないよ」

「そういう問題じゃなくて、僕は雑巾とタオルの使い分けの・・・」

「こら!!聞こえてるだぞ、悟天!!」

「ひゃ~!!逃げろ~!!」

「あっ!?ちょっと、悟天・・・!」

どう説得しても屁理屈で返す悟天を持て余しているところにチチの怒号が響き、止める間もなく悟天は素っ裸で逃げ出した。
その素早さたるや韋駄天も真っ青な俊足ぶりで、見事なものであった。
決して褒められることではないが。

「お母さん、すみません。僕がついていながら・・・」

「構うことはねぇ。悟天の望み通り、そのバスタオルは雑巾にしてやるだからよ!」

「えっ!?ちょっと待ってください、お母さん。たしか、このバスタオルは悟天のお気に入りでしたよね?」

「そのお気に入りのバスタオルを先に雑巾扱いしたのは、悟天だべ!」

「はは・・・。そ、そうですね・・・。あっ、悟天のやつ、パジャマも着ないで飛び出していったぞ。しょうがないやつだなぁ。早く追いかけてパジャマを着せなきゃ、風邪をひいちゃう」

チチの主張はもっともで、反論の余地がなかった。
それなのにこれ以上悟天をかばいだて続ければ、要らぬ怒りの余波を被る結果になってしまう。
ここは早々に退散するのが賢明だと、悟飯は悟天のパジャマを逃げ口上に使った。

「あ、お母さんはゆっくりしててください」

母への気遣いという名の、怒りの冷却時間の提案も忘れずに。





一方そのころ、悟空はリビングでくつろぎながらお笑い番組を楽しんでいた。
世の中には様々なタイプの天才が存在するが、モニターに映る彼らは動作や表情、言葉選びと、どれをとっても他人を笑わせる天才だと、関心しきりに提供される笑いを味わっていたところだった。
そこへ、子供が駆けてくる騒々しい足音とともに悟空を呼ぶ声が迫り、悟空はTVからリビングの入口へと視線を移した。

「お父さん!!」

素っ裸で現れた悟天は、嬉々とした表情で頬を上気させていた。
顔が火照って見えるのは風呂あがりだからだろうが、どうも原因はそれだけではないようだ。
なにせ、嬉しいことがあったから聞いてほしいと、輝く双眸が悟空に訴えているのだから。

「おお、悟天。風呂からあがったんか」

「うん。あのね、今日はお兄ちゃんが体を拭いてくれたんだよ!」

「そうか、良かったじゃねぇか」

悟天の気持ちに寄り添って言葉を返してやると、悟天は照れくさそうに、えへへと笑う。
そんな悟天がすこしだけ羨ましい。
悟天にはあたりまえのような日常生活の一部が、今となっては叶わなくなってしまったのだから。

「うん!それでね、僕の頭って良いにおいがするんだって、お兄ちゃんが言ってたんだ。お父さんも嗅いでみて」

悟空の反応を期待した悟天に従って頭に顔を近づけて2、3度鼻を鳴らしてみると、なるほど、悟飯の言う通り清潔感がある中でも花を束ねたような香りが鼻腔をくすぐった。
家族全員が同じシャンプーを使っているのだからよく知っている香りのはずなのに、不思議といつもとは違う香りに感じてしまう。
悟飯が小さかったころもそうだが、同じ香料でも子供が纏うとなんとも言えぬ心地よい香りに変じるのだ。

「本当だ。おめぇの頭、良いにおいがすんな」

「でしょう?」

「ああ。もうお日様のにおいはしねぇな」

「お日様のにおい・・・?」

悟空がなにげなく放った単語が悟天には聞きなれなかったのか、それまで満面の笑みを浮かべていた悟天はきょとんとした顔で小首をかしげると、両の瞳を瞬かせた。
そんな仕草も愛らしい。
活発な悟天はいつも、雨の日以外はお日様のにおいを身につけて帰ってくる。
それを悟空は好ましく思っていた。
だが、今になって思えば、小さいころの悟飯の頭からお日様のにおいがするのは稀だった。
本が好きで勉強家だった悟飯は日中も家の中で過ごすことが多かったことに加えて、外に出る際には帽子をかぶせられていたからだ。
ところが、悟飯を育てていたころは日射病を心配して外出時の帽子の着用を義務付けていたチチが、悟天には同じハウスルールを設けていないのである。
これも、チチの育児方針がかわった一例だった。

「お日様のにおいって、どんなにおいがするの?」

「なんだ、お日様のにおいがわかんねぇのか」

「強いて言えば、干草のにおいに似てるかな」

どう説明したら良いだろうか、嗅覚で感じたことを言葉で表現するのは難しいと考えあぐめたところで、悟天のパジャマを手に悟飯が現れた。
こういう時は、博識の悟飯が頼もしく思えるものだ。

「干草?・・・うーん、やっぱりよくわかんないや」

だが、救世主となるはずだった悟飯のたとえでも悟天にはピンとこないのか、悟天は考え込んだ様子で眉間に深い皺を刻んでしまった。
これが漫画なら、背景にクエスチョンマークが飛んでいることだろう。

「干草でも駄目か・・・。参ったな、どう言えば良いんだ?」

ついでに悟空の背景にもクエスチョンマークが飛んでしまう。
あくまでもこれが漫画ならば、であるが。

「そうだなぁ・・・。あっ、そう言えば、仕事から帰ったお父さんからもお日様のにおいがしたな」

「えっ!?お父さんから!?」

「うん。お日様のにおいは仕事から帰ってきたお父さんのにおいだって言えば、わかるか?」

「へー!!あれがそうなんだ!?・・・でも、仕事から帰っってきたお父さんからは、土のにおいもするよね」

「ああ、そうだな」

「・・・オラって、そんなにおいがするんか・・・?」

初耳だった。
そもそも畑仕事に夢中の悟空は、作業着の汚れやにおいに無頓着だったのだ、仕事後の自分を家族にどう思われているのかなんてことには、考えが及んでいなかったのである。
もっとも、畑仕事に夢中になったところで集中力はすぐに途切れてしまうのだが。
集中力が切れると、ついついトレーニングに熱中してしまうのは毎度のこと。
ひとしきり熱中したあとで仕事を思い出し、また農作業に勤しむのだが、それもまた短い集中力が続いている間だけ。
それを交互に繰り返すのが悟空の畑仕事の特徴だ。
それでも最近は、家族においしいものを食べさせてやりたいと、なるべく集中力を途切れさせない努力を重ねている。
どちらにせよ、かなりの汗をかくことには変わりない。
太陽の日差しをたっぷり浴び、土にまみれて大量の汗をかく。
これで仕事あがりの悟空からフローラルな香りが漂っていたとしたら、それこそ奇跡である。

「汗もいっぱいかいてるし、もしかしてオラ臭ぇんか・・・?」

いちど気になり始めたら、それがもう確定事項のように思えてしまう。
誰にどう思われようが、たとえ嫌われようが一向にかまわないが、悟飯にだけは『臭い』と敬遠されたくない。
ましてや親離れが進んでいる思春期のこの時期に『臭い親父』だなんて思われたら、一発アウトではないか。
悟空は右の脇を広げると、鼻を近づけて犬のようにくんくんとにおいを確かめた。
なるほど、子供たちの言うとおり3種類のにおいがブレンドされている。
もしかするとこれは、即座に対策を講じなければならない案件なのかも知れない。
すると、膝をついて甘えん坊の悟天にパジャマを着せている悟飯が悟空を見あげてこう言った。

「そんなことないですよ。それに、お父さんが汗臭かったとしても、それは僕たちのために仕事を頑張ってくれてたってことなんですから、良いじゃないですか」

「そうだよ、お父さん。僕、お父さんが汗臭かったとしても、ちっとも気にならないよ。それに、僕、お日様のにおい大好きだもん。だって、お日様のにおいはお父さんのにおいなんでしょう?」

「そうだよな、悟天」

妙な心配を始めた悟空を安心させるためか、子供たちは口をそろえて悟空の気がかりを否定した。
悟空の努力を、家族が応援してくれている。
それはなによりも得難い理解でもあるし、仕事への取り組みの活力にもなる。
となれば俄然やる気が起きてくる。
畑仕事の途中で体がムズムズしても、沸きあがるトレーニング熱をなんとかしなければならない。
そもそも畑仕事からして肉体労働なのだから、農作業にうまくトレーニングを取り入れられたら一石二鳥になるのではないか。
そう悟空の思考があらぬ方に向かい始めた時、悟飯がさらりと爆弾発言をした。

「僕も好きですよ」

この台詞が悟空の心臓に穴をうがったのは言うまでもない。
悟空は無意識のうちに右手で左胸をかばっていた。

「お日様のにおい」

続く言葉に頭の隅が冷めても、突然の驚きに心臓が早鐘を打つのはどうにもならなかった。
わかっているのだ、悟飯が告白してくれるなんてあり得ないのだと。
いつか―



『お父さんが好きですよ』



そう言ってくれる日がくるだろうか。
―きてくれるだろうか。

「オラもお日様のにおいは好きだぞ。・・・悟天の頭のにおいでもあるからな」

未だ冷めやらぬ驚愕と興奮を抑えて悟天の頭をなでてやれば、悟天はくしゃりと笑み、悟飯は微笑んで瞳を細めた。
悟飯の本心としては、お日様のにおいにかこつけて悟空が好きだと告げてしまいたいくらいの心持だった。
だが、そんなうっかり発言で今の幸福を壊してしまうほどの気概を悟飯は持ち合わせていない。
わかっているのだ、告白したところで想いが通じ合うなんてあり得ないのだと。
いつか―
いつの日か。



(両想いになれたら良いのに―)



この時、ふたりは同時に同じことを思った。





END


ここまでお読み戴きありがとうございました。
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