【わがまま】
その夜、僕は学校の夢を見ていた。
次は体育の授業なのに、ウェアを家に忘れてしまってどうしようかと困っている夢。
しかも、こんな時に限ってお弁当まで忘れてるときたものだ。
今から家まで取りに戻っても、お父さんのように瞬間移動でもできなければ到底次の授業には間に合わない。
さて、弱ったぞ・・・。
と、途方に暮れる僕を気にも留めず、着替えを終えた級友たちはさっさとグラウンドに向かって行ってしまう。
ひとり、またひとりと級友が立ち去るたびに不安が大きくなっていくところで、奇妙な違和感が僕の夢を終わらせた。
醒め切らない頭でも、違和感の正体はすぐにわかった。
夢だけでなく、現実でも大切な人が傍からいなくなってしまう不安に、僕は目が覚めたんだ。
ちょうど眠りが浅くなったタイミングだったから、感じたんだろう。
横で眠っていたお父さんが、僕の隣からいなくなったのが。
僕が薄目を開けると、お父さんはベッドの端に腰を掛けてパジャマを身につけているところだった。
パジャマの袖に腕を通したお父さんが、ボタンを上からひとつずつ留めていく。
そうして僕に見せていた素肌が隠れてしまうと、つい数時間前に裸で抱き合っていたなんて、まるでなかったことみたいだ。
ひと眠りした後だからなのか、お父さんとのことがつい数分前のことのようにも、数日前のことのようにも感じてしまう。
その曖昧な感覚が、僕の心に妙な寂しさをもたらした。
だけど、この寂しさは夢現の感覚のせいばかりじゃない。
僕は知っている。
僕の隣から抜け出たお父さんが、この部屋を出て行くまで一度も僕を振り返らないのを。
ちらりとも僕を振り返らずに部屋を後にするお父さんの背中を、何回か見たことがあったから。
―もっと傍にいてほしい―
―朝まで一緒にいてほしい―
その度に飲み込んできた、僕の本音。
僕の希望。
でも、これらの言葉を、僕は一度も口に出したことはなかった。
そして、これからも僕が言葉で伝えることはないだろう。
口にすれば、お父さんが聞き入れてくれるとわかっているから。
お父さんが、僕のわがままをすべて叶えてしまう人だと、わかっているから。
だから、お父さんを困らせてしまうと百も承知の上でわがままを言うなんて、僕にはできない。
できないけど、でも、やっぱりもう少しだけ傍にいてほしい。
―なんて、ガラにもなく感傷的になっていたのがよくなかった。
お父さんがベッドから立ち上がろうとしたその瞬間、思わず僕は咄嗟にお父さんのパジャマの裾を掴んでしまっていた。
―何てことを・・・!
僕の馬鹿!
何やってんだよ!
「悪ぃ、起こしちまったか?」
お父さんは驚いたように僕を振り返って、でも、僕を気遣った優しい声でそう言った。
僕がこんなにわがままなことをしているのにも関わらず、そんなに優しい声音で気遣われたら、同じ『悪い』でも放してくれと言われた方がよかったかな、なんて思ってしまう。
そうしたら、すんなりとこの手を放せるのに。
今回もまた、僕のわがままを封印できたのに。
今日は一日、自己嫌悪に陥りそうだ。
「ちょうど夢から醒めたところでした」
引っ込みがつかなくなって、お父さんのパジャマの裾を掴んで硬直したまま、僕は首を横にふってお父さんの質問に答えた。
僕の目が覚めたのを、お父さんのせいになんかしたくなくて。
「そっか。・・・じゃあ、もう一回寝直すか?今日は朝まで一緒にいてやるから」
―ああ。
とうとう言わせてしまった。
だから、こんなことしたくなかったのに。
「いえ、僕なら大丈夫です。お父さんはもう寝室に戻って休んで下さい」
「まあ、そう言うなって。たまにはいいじゃねぇか」
行動とは裏返しの僕の台詞にお父さんはどこ吹く風で、さっさとパジャマのズボンを穿くとまたベッドに潜り込んできた。
お父さんはいつもの調子だったけど、硬くなった僕の声に、僕が強がってるって気づいてたんだと思う。
「ごめんなさい、お父さん・・・。・・・僕が引き止めちゃったから・・・」
「いいって。オラがここにいたかっただけだ。おめぇのせいじゃねぇから、気にすんな」
ションボリとして僕が謝ると、僕の申し訳なさと情けなさを吹き飛ばす笑顔でお父さんはそう言った。
おおらかな性格のお父さんに、何もかも許さてれる。
そこにつけこんで甘えるほど、図々しくなりたくはないけど。
でも、今日はお父さんが朝まで一緒にいれくれる。
嬉しさと申し訳なさと、次からは絶対にこんなことはしないとの決意を胸に、僕はお父さんの腕に包まった。
「おめぇの顔を見ちまったら、戻れねぇよ」
―えっ・・・?
僕の頭に頬を摺り寄せながら笑いを含んだ声でそう言うお父さんに、僕は体を固くした。
僕ってば、そんなに寂しそうな顔でもしてたのかな。
お父さんが心配して、寝室に戻れないほど。
「おめぇは知らねぇだろうけどさ、オラはここを出て行く時、なるべくおめぇの顔を見ねぇようにしてるんだ。おめぇの寝顔を見たら、戻るのが嫌になっちまうからさ。いつも『もっと悟飯の傍にいてぇ』って未練を断ち切るのに、これでも苦労してんだぜ」
―知らなかった。
―知ってたけど、知らなかった。
いや、正確には、お父さんの行動は知ってたけど、行動の裏に隠されたお父さんの気持ちは知らなかった。
お父さんが扉を閉める時の音がなんだか寂しそうに聞こえていたのは、気のせいなんかじゃなかったんだ。
そして、それは、僕のわがままな本音が僕に聞かせていた音でもなかった。
あれは、お父さんの本心から出た音だったんだ・・・。
「・・・だからよ、たまにでいいから『行かないで』っておめぇに言って貰いてぇ、って思うんは、オラのわがままなんかな・・・?」
照れと戸惑いの混じった声でそう告げられた時、心臓が真っ二つになったみたいに僕の胸がズキン!と痛んだ。
去年の今頃は、お父さんがいてくれるってだけですごく幸せだった。
今は、去年よりもっと贅沢な幸せを味わっている。
なのに、こんなに幸せなのに、時々泣きたくなるほど切なくなってしまうのは、どうしてなんだろう。
やっとわかった。
想い合ってる相手と別れる時に寂しさを感じるのは、自然なことなんだ。
もっと一緒にいたくて未練がましさを抱いてしまうのは、お互い様なんだ。
「お父さん・・・」
「ん?」
切なさが胸に詰まって、僕がお父さんを呼んだ声は囁きていどに小さかった。
それでも、お父さんは僕に応えてくれる。
僕が思ってたよりも、僕がお父さんを想うよりも、お父さんが僕を想ってくれているのかも知れないなんて、初めて思ったよ。
僕の言動ひとつで、お父さんが喜びも悲しみもするんだってことも。
きっと今は、僕は選択肢を間違えたらいけない時なんだ。
「もう少しだけ・・・。もう少しだけでいいから、傍にいて下さい」
その日、僕は初めてお父さんにわがままを言った。
END
ここまでお読み戴きありがとうございました。
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