【爪痕】
その日は、朝から悟空の機嫌が良かった。
自ら積極的に悟天の遊び相手になり、珍しく悟飯とチチに労いの言葉をかけ、食材の調達にも張り切って出かけて行った。
しきりに背中を気にする以外は特におかしな様子はなかったが、時折鼻歌を歌うほどの機嫌の良さからして、どうやら上機嫌を通り越していつもよりテンションが高いようだ、と悟飯は感じていた。
硝子窓や鏡の前を通りかかる度に背中を映し出しては、どこか誇らしげに悟空がニマニマと笑う。
よほど良い事があったのだろうと思い、悟飯が問い掛けると、悟空は輝かんばかりの満面の笑顔で答えた。
「やっぱ、わかっか?」
「はい。お父さん、今朝からずっと浮かれてましたから」
悟飯からずっと気に掛けて貰えていた事に更に気を良くした悟空は、悟飯が見ている目の前で、恥ずかし気もなくするすると胴着を脱ぎ始める。
悟飯はこの時、悟空は修行で鍛え上げた己の身体の筋肉自慢をしたいのだろうと思った。
上腕の力こぶが更に大きくなったとか、以前より胸板が逞しくなったとか、修行の成果で腹筋が引き締まったとか、ets・・・。
ところが―
「悟飯、これを見てみろ」
悟空の半裸に内心でドギマギしている悟飯に悟空が指し示したものは、何て事のない、ただの引っ掻き傷だった。
そういえば、と、昨夜家の中に蚊が一匹入り込み、家人の心の平和を乱していたのを悟飯は思い出した。
「蚊に刺されたんですね。痒いからって、引っ掻いたらダメですよ、我慢しないと。傷になっちゃってるじゃないですか」
悟空の体を気遣って悟飯は優しく窘めたが、悟飯の言葉に悟空は『何の事か』と一瞬目を丸くした後、あからさまにムッとするとムキになったように言い返した。
「何言ってんだ!?これは昨夜、おめぇが付けた傷じゃねぇか!」
「えええっっ!?」
青天の霹靂とはまさにこの事だろうか、悟飯にはまるきりと言って良いほど身に覚えがなかった。
昨夜、確かにコトの終盤で悟空がラストスパートをかけた時、固く目を瞠ったまま必死に悟空の背中にしがみついていたが、引っ掻いたどころか爪を立てていた記憶すら悟飯にはない。
「終わった後も背中がヒリヒリするし、汗とかも滲みっからよ、風呂に入った時に鏡で見たら傷になってたんだぞ」
「・・・お父さん、それ、僕じゃありませんよ」
「おめぇだって!!おめぇがオラの背中にしがみついて爪でギリギリやっから、傷になったんだろうが。おめぇじゃなかったら、誰がオラの背中に傷を付けたってんだよ!」
「お父さんが、自分で・・・」
「ぶん殴られてぇかっ!!」
「く、薬・・・薬を塗りましょう!治りが早いですよ!」
認めたくはないが、どうやら自分の仕業だと認めざるを得ないようだと察知した悟飯は、苦し紛れだが賢明な提案を試みた。
これで話が丸く収まってくれるのを願って。
だが、悟空は悟飯の提案にぎょっとした表情を見せると、何かから身を守るように胸の前で腕を交差させ、逃げるように後退った。
「ヤダッッ!!」
幼い悟天が宝物を盗られまいとする様に似た悟空の言動に、子供みたいだと悟飯は心の中で嘆息する。
「せっかく悟飯が付けてくれたのに、なぁんで治さなきゃならねぇんだ!?」
口を尖らせて尚もムクれる悟空の言葉の真意に、悟飯の心臓がどきりと鳴った。
昨夜の己の乱れっぷりを思い出すと、悟空の顔もまともに見られないほど恥ずかしくなってくる。
出来ることなら、悟飯にとって恥の上塗りとも言える悟空の背中の傷など、昨夜の記憶と共に跡形もなく綺麗さっぱり消してしまいたいくらいなのに。
だが、あまり乱れると『はしたない』と呆れられ、嫌われてしまうのではないか、との心配をよそに、どうやら悟空は悟飯が乱れれば乱れるほど喜ぶらしかった。
悟空のその喜びが、更に悟飯の羞恥心を煽り、悟飯を崖っぷちまで追い詰めるとも知らずに。
「 なぁ、痛かったわけじゃねぇだろ?」
口を紡いだきり何も話さない悟飯に、悟飯からの答えを諦めたのか、不意に悟空が質問を変えた。
「痛かったわけじゃ、ねぇよな・・・。あんだけよがってたんだから」
「・・・!」
悟空の露骨な表現に、悟飯は心と体を竦ませた。
持って回った回りくどい言い方を好まない悟空は、求め方も性的な会話も、常にストレートだった。
だが、それらのすべてを難無くすんなりと受け入れるには、悟飯にはまだ経験が浅い。
悟空との愛の行為に没頭し、共に愉しむよりは、高波に攫われる小舟のように快感に翻弄され、何よりもまず羞恥が先に立った。
キスも初めてなら告白も初めて、何もかもが初めてずくしの悟飯には、当然なのかも知れない。
そんな悟飯に、悟空は、やれ『脚を開け』だの『見せろ』だの『触らせろ』だの『声を出せ』だの、とにかく無茶ばかり要求するのだ。
おそらく今も、悟空から無茶を要求される場面なのであろう、という嫌な予感に捕らわれる。
嫌な予感に限って、外れたためしがない。
と、不意に悟空に手首を強く掴まれて、悟飯の予感は益々色を濃くした。
「なぁ、おめぇも、気持ち良かったんだろ?」
「!・・・お父さんは、気持ち良かったんですか・・・?」
「おめぇが気持ち良ければ、オラも気持ち良いさ」
うまくごまかしたつもりが逆に悟空に丸め込まれた悟飯は、『ずるいなぁ』と心の中で口をすぼませた。
こんな時、悟飯は悟空との年齢の差を思い知らされる。
その上、悟飯の手首を掴んだままの悟空にぐい、と距離を詰められ、鼻先を掠める悟空の体臭に悟飯は息を呑んだ。
最近ではこんな些細なことでも体が反応してしまう自分を、どこかおかしいのではないかとすら思う。
そんな悟飯を、悟空は数々の経験から見抜いている筈だ。
ここで逃げの一手を打てば、せっかくの悟空の上機嫌に水を差すことになるだろう。
悟空の機嫌を損ねると、ロクな結果を生まない。
『弱ったなぁ・・・』
次からは、爪の長さにも気をつけなきゃあね、と、狙うように悟飯の瞳を見据える悟空を、悟飯はすがるような思いで見詰め返した。
昨夜の再現を、悟空が望まないことを願って。
END
ここまでお読み戴きありがとうございました。