【腕枕】
「おめぇがどうしても嫌だって言うんなら、もう二度とこんなことなしねぇ」
意外な宣言に驚いた悟飯が顔を上げると、ガラにもなく神妙な顔をした悟空と鏡越しに視線がかち合った。
鏡を使って悟飯の表情を伺っている姿に、何故だか急に不用意な言葉でこの男を傷つけてはいけない気がして、悟飯は慎重に言葉を選んだ。
「確かに気持ち悪かったけど・・・嫌ではありませんでした。・・・だって、あれは、お父さんが気持ちよくなってくれたってことでしょう?」
悟飯が穏やかな表情で優しく告げると、悟空は全身の緊張を解いたようにふっと笑った。
本心を晒すのを恥ずかしがる思春期の高校生らしくストレートに『嬉しい』とは言えなかった悟飯だったが、それでも悟空は満足したようだった。
「ああ、気持ちよかったぞ。病みつきになっちまいそうだ」
そう言って背後から悟飯を抱きしめた悟空がくすりと笑い、何がおかしいのかと悟飯は目をパチクリさせながら理由を尋ねた。
「どうしたんですか?」
「いや、オラもつくづくおめぇには弱いなと思ってさ。これも『惚れた弱み』ってやつなんかな」
頭をすり寄せて先ほどの悟飯と同じことを零した悟空の頭部を、悟飯は鏡越しに意外そう眺めた。
(お父さんが僕に弱い?)
まさか、と思う悟飯の脳には、これまでの出来事のあれこれが次々と浮かんでいた。
性格は極めて温厚なれども自信家たるゆえに強引な一面も併せ持つ悟空の言動を鑑みても、悟飯には思い当たるフシがなかった。
たとえ相手が思考回路の単純な悟空であっても、他者にはその心中まで推し量れないという一例なのだろうか。
「奇遇ですね。僕もさっき、同じことを思っていました。どうして僕はこんなにお父さんに弱いんだろう、って」
「おめぇが、か!?オラに弱い!?・・・そいつは思ってもみなかったな」
少しだけ胸の一部を吐露した悟飯の言葉に、今度は悟空が意外そうな面持ちで目を見開いた。
「ははっ、きっとこういうのを、お互い様って言うんでしょうね」
「・・・そうだな」
悟飯がさもおかしそうに話すと、それに呼応するように悟空もくすりと笑った。
互いにそう思う理由については追求してはいけない気がして、ふたりは敢えてそこには触れずに会話を終わらせたのだった。
チチに不審がられないように濡れた下着を洗濯機に放り込むと、幾分か腰痛が落ち着いた悟飯は今度こそ自身の足で歩いて自室へと戻った。
終始悟空の肩を借りてではあったが、トイレに向かう際に悟空にかけた負担に比べれば、まだマシであった。
そうしてベッドまで辿り着くやいなやさっさと枕を悟空に奪われ、悟飯は内心でがっかりと肩を落とした。
毎回毎回、悟空がこの部屋で眠る度に、自分の枕なのに悟飯がまともに使わせてもらえたためしがない。
今度こそと心に固く決めたのに、今回も敢えなく不発に終わってしまった。
こんな時に『自分の枕なのだから返してくれ』と言えないところが、やはり悟飯が悟空に弱いことへの証明になりそうだった。
仕方がないから、チチに枕をもうひとつ買ってもうおう。
でも、それでは、何故枕がふたつ必要なのかと不審がられてしまうだろうか。
ならば、朝起きたら枕から頭が落ちてしまっているからとか適当な理由をこじつけて、ロングサイズの枕を頼んでみようか。
と、潔く諦めた悟飯が布団に潜り込むタイミングで、悟空が悟飯に向かって大きく腕を広げてきた。
「おめぇの枕はこっちだ」
口調は穏やかであったが、そう言われた瞬間に、なぜ悟空が枕を独占して端っこすらも明け渡さないのかを悟飯は悟った。
真に悟空が独占したいのは、枕などではなかったのだ。
悟空の真意を知った悟飯が逞しい腕に頭をちょこんと乗せると、すかさず悟空が背後から抱き竦めてくる。
そして、その直後には、やはり予想通りに筋肉質の足が悟飯の胴にのしかかってきた。
やれやれ、これではまた同じ現象が繰り返されそうだ。
おかげで寝不足は免れない。
それも、お互い様か。
短い時間の出来事だったのに、心理的な影響が大きかったからか、やけに慌ただしかった。
それも、きっと今回限りだろう。
悟飯がダッシュボードの上の目覚まし時計に目を遣ると、蛍光塗料が塗られた針は、夜明けより3時間前の数字を指していた。
今から寝直したところで大して睡眠はとれないが、それでも翌日に備えて少しでも眠っておきたかった。
悟空の吐息に誘われるように瞳を閉じると、悟飯は眠りに就くべく自身を包むぬくもりにうっとりと心を預けた。
やっぱり、新しい枕は要らないや―
END
ここまでお読み戴きありがとうございました。