【腕枕】
濃い藍色の空に早春の星座が瞬く夜更け、腹部を圧迫される息苦しさから目覚めた悟飯は、覚めやらぬ頭で真っ先に心霊現象を疑った。
視聴者の不思議体験を取り扱った春の特番の再現VTRで、人の腹の上に正座する髪の長い女性の霊を家族で目撃したばかりだったからだ。
だが、悪を挫き弱きを助けるヒーロー活動に勤しむ悟飯には、祟られるほど誰かの恨みを買った覚えなどない。
この孫家も、事故や事件とは無関係な山奥に建てられた新築物件で、お化けの類とは縁がなかった。
薄く開いた眼に映った指先が自由に動かせることから、金縛りにも遭っていないのは明白で、そうなると俄然、息苦しさの原因が気になった。
睡眠を中断させられるほどの呼吸の不自由さは、腹部を圧迫されていることによるものだ。
何かが、横向きの体勢で眠っていた悟飯の腹の上に重くのしかかっている。
何が、と『それ』に触れてみると、思いの外そいつは暖かかった。
幽霊どころか、生きた人間が持つ暖かさだ。
ハッとした悟飯が目を遣ると、就寝中の悟飯を呼吸困難に陥れたものの正体は、鍛え抜かれて丸太のように筋肉で膨れ上がった、男の足だった。
その足を見てようやく悟飯は、この夜がひとり寝でないのを思い出した。
と、思い出すのと同時に思い出したくない昨夜の出来事が脳裏に蘇り、悟飯は羞恥に頬を赤らめた。
昨夜の悟空は、明らかに悟飯との行為を愉しんでいた。
声を堪えれば『もっと声を出せ』と詰られ、局部を手で覆えば『触って欲しいんだろ?』とその手を払いのけられ、挙句は口に含んだ悟飯を解放すると『どうして欲しい?』と言ってにやりとされた。
それに、それに、悟空の手で追い詰められて頂点が近づくと―
『どうした、もうギブアップか?朝までまだまだ時間はたっぷりあるんだぜ』
と意地悪く耳元で囁かれ、敢えなく悟飯の欲望は限界を超えた。
あの時の悟空の勝ち誇ったような顔!
悔しさと情けなさと恥ずかしさが入り乱れ、肩を苦しく上下させながら悟飯は泣きたい気分になったものだ。
だが、本格的な戦闘はその直後にやってきた。
初めての時はあんなに優しかったのに、あの優しさが嘘のように、昨夜の悟空は悟飯への剥き出しの欲望を容赦なくぶつけてきた。
悟飯の意を汲んでくれたあの思いやりはどこへ掻き消えたのかと疑問になるほど少しの抵抗も許されず、悟空を拒絶する仕草を見せた途端に両手を頭上で捩じ上げられ、それきり悟飯の権利のすべてが悟空の手によって封印されてしまった。
それからは、悟飯は滾る悟空の欲望を受け止めるだけの、肉の塊と化した。
まだ、雪が降ったあの夜から大して回数もこなしていないというのに、初恋が成就したばかりの悟飯に、あんなハードな交渉を強いるなんて。
これからもあの調子で攻められるのかと思うと、暫くは悟空がこの部屋に通うのを遠慮願いたいものだった。
と悟空の無茶ぶりに嘆くストイックな精神とは裏腹に、悟空の愛撫を思い出して火照った躰は早くも回復の兆しを見せていた。
だが、それとほぼ同時に引き攣ったように傷口が痛み、回復を始めた悟飯の下半身はたちどころに意気消沈した。
昨夜の悟空がどうであれ、過ぎたことを今さらあれこれ沙汰しても詮方ない。
それよりも肝心なのは、これからどうするか、だ。
このまま大人しくこうしていても、悟飯の息苦しさは解消されない。
ならばと悟飯に覆いかぶさる悟空の足を退けようとしても、ちょっとやそっとの力ではびくともしなかった。
かと言って力任せに悟空を剥ぎ取った結果、悟空がベッドから転がり落ちてしまうのも恐い。
しかも、運の悪いことにこのタイミングで用を足したくなってしまい、さらに困ったことには、腹部を圧迫されているが為にそれはまもなく我慢の限界を迎えようとしていた。
仕方なしに悟飯は、やむなくベッドから抜け出る方法を選んだ。
だが―
(あれっ!?)
足にばかり気を取られていたせいでまるきり気付かなかった、胴体に回された逞しい腕に阻止されて、悟飯はベッドから抜け出ることはおろか、背後の人物から離れることすら叶わなかった。
しかもこの腕は悟飯が離れようとすると力を篭めてきて、悟飯が諦めると脱力する。
そんなことをもう2・3回も繰り返すと、もしかすると悟空はとうに目が覚めていたのではないか、との疑念が湧き上がってきた。
だが、悟飯の耳もとをくすぐる寝息は相も変わらず気持ち良さそうに一定のリズムを刻み、足は完全に脱力して重力の意のままになっている。
腕の意思はともかくとして、持ち主が熟睡しているのは間違いなさそうだった。
(仕方ないなぁ・・・)
結論として、悟空を起こさないように注意を払ってベッドから降りるつもりだったが、悟空を起こさないことにはどうにもならないと悟飯は観念した。
「お父さん」
静まり返った部屋で大きな声を出すのが憚れて、悟飯は隣りで眠る悟空をそっと呼んだ。
当然だが遠慮がちの声にいらえはなく、弱り果てた悟飯は大きなため息をひとつ吐くと、不自由な呼吸で己の使命にもう一度挑んだ。
その間にも生理現象が悟飯に訴える声は、刻一刻と大きくなっている。
「お父さん、起きて下さい!お父さん!」
「ん・・・ん・・・。ご、はん・・・」
可能な限り後ろに回した手で精一杯悟空を揺さぶると、さすがにこれには反応があった。
まさか夢の中でまで食事を楽しんでいるわけではないと思いたいが、ひとまず悟飯はほっと胸を撫で下ろした。
「そうです、悟飯ですよ。僕、トイレに行きたくなっちゃったんです。だから、離して下さい」
これでやっと開放して貰える。
そう当て込んだ悟飯だったが、意識が夢の中から引き戻されつつある悟空は、次の瞬間に悟飯にも予想外の行動に出てしまった。
『離して欲しい』との悟飯の申し出とはあべこべに、生涯片時も離すまいと決め込んだかのように悟飯を全身で包むとぎゅっと抱きしめたのだ。
(重い・・・!)
それは、如何に衰えたとは云えどもそれなりに鍛えられた悟飯に振り解くのが不可能な重さではなかったが、呼吸困難に加えて全体重をかけてのしかかられたような状況とあっては、如何な悟飯でも重いと感じてしまうには十分な重量だった。
「んー・・・。ご・・・はん・・・。もう一回・・・」
「トイレから戻ったら、もう一回寝直しますよ。だから離して下さい。早くしないと、漏れちゃいそうなんです」
「んん・・・?もれ・・・?・・・小便か・・・?」
悟飯の切羽詰った事情を意に介さないような悟空の呑気さに、『さっきからそう言ってる!』と悟飯は抗議の声を上げたくなった。
だが、意識が完全に覚醒する前の訴えを脳が理解できるまでにタイムラグが生じるのは仕方がない、と悟飯はその声を飲み込んだ。
ついでに、どんな夢を見ていたのか知らないが、だらしなくニヤけた悟空への感想も。
まだ夢見心地の様子ではあったが悟空は腕を解くと大きく足を引き、そのまま寝返りを打ってベッドへ大の字に寝転んだ。
ベッドの殆どを占領されてしまったことに不安は残ったが、とりあえず緊急事態は脱したのだ、不満はなかった。
きっと悟空は、悟飯が戻って来る頃には自分が起こされたことも覚えていないくらいに熟睡しているだろう。
その寝顔を想像してクスリと笑った悟飯がいそいそと体を滑らせ、ベッドから降りようとした時だった。
「痛っ!」
腰が重く鈍く痛み、ついでに引き攣れた傷口までズキズキと疼いて、悟飯は体の動きを止めてしまった。
行為の最中には忘れかけていた、いつもの痛み。
もうすっかり慣れたもの、と思っていたのに。