【雪景色】
木製の扉を開けて快適な温度の室内から戸外に出ると、そこは一面の銀世界だった。
今シーズン最後と言われた雪が、見渡す限りに世界を白く染め上げている。
それが早春の朝の陽の光に反射してキラキラと光り輝き、目も眩むあまりのまばゆさに悟空は額に手をかざした。
「やっぱり、積もったね」
わくわくした声の悟天に振り返り、悟空は『ああ』と短く返事をすると、晴れやかに笑った。
今朝は何て気分が良いのだろう。
「畑に積もった雪を、払ってやらねぇとな」
作物を育てる人間にとっては、雪が降ったとて農作業を休むわけにはいかないのだ。
家と畑を往復するトラクターがある程度の雪に強くても、野菜の方はそうはいかない。
もっとも、葉物の野菜は雪が染みて、市場に出荷できる状態ではないだろうが。
「僕も手伝おうか?」
と、健気な次男坊が父親を気遣ってくれる。
母親の教育の賜物なのか、孫家の子供たちはふたり共、思いやりのある優しい良い子だ。
だが。
「いや、このくらいは父ちゃんひとりで大丈夫だ。悟天は家の周りの雪かきをして、母ちゃんを手伝ってやってくれ」
悟天の気遣いは気持ちだけで充分、こいつに手伝わせたら、せっかくの畑が滅茶苦茶になりかねない。
それよりも、と、昨日の天候が嘘のように晴れ渡った空の下で洗濯物を干しに庭に出るだろう妻を思って、悟空は悟天の申し出に断りを入れた。
「うん、わかったよ、お父さん。ねぇ、お父さんが帰ったら雪合戦しようよ!」
「あんま積もってねぇけど、このくらいの雪でもできるんか?」
そうなのだ、降雪だけではなく予報は積雪量もぴたりと当たり、雪は積もったものの量はいつもより断然少ない。
雪が降ると我が子と一緒になってはしゃぐ悟空も、この積雪量で雪合戦をした経験はなかった。
「できるよ!去年も、このくらいの雪でお兄ちゃんと雪合戦したもん!」
いよいよ瞳を輝かせて力説する悟天の口から飛び出した固有名詞に、悟空の心臓が熱さを伴ってぎくりと痛んだ。
やれやれ、名前を聞いただけでこんなになってしまうなんて、これは相当重症だ。
「そうなんか・・・?」
去年の孫家の様子を、悟空は何も知らない。
が、去年の今頃は目の前の次男坊は伸び盛りの時期なだけに、今よりも体は小さかったはずだ。
兄である長男も、ハイスクールに入る前で、その顔立ちには多少のあどけなさが残っていたことだろう。
悟空の知らない悟飯と共に、悟天は育ってきた。
だが、その悟天も知らない悟飯を、悟空は知っている。
「そういえば、お兄ちゃん、まだ起きてこないね・・・」
「あ、ああ・・・。そうだな・・・」
長男が起床できない元凶が己だと自覚しているだけに、悟空の返事はぎこちない。
「お兄ちゃんも起こして、3人で雪合戦やろうよ!」
「ダメだッ!」
テンションの上がった悟天は当然のことのように楽しい提案を父親に提起したが、咄嗟に悟空は悟天の言葉をキツい口調で遮った。
父親に怒られたと思ったのか、驚きで身を竦ませた悟天が次いで悲しそうな表情を浮かべ、悟空は罪悪感に焦って口籠る。
「あ・・・、いや・・・その・・・」
てっきり大好きな父が自分の提案に喜んで賛同してくれるもの、と当て込んだ悟天のしゅんと項垂れた姿に、当てが外れて哀しげに瞳を揺らしたあの日の悟飯の姿が重なった。
「兄ちゃんは昨夜、遅くまで父ちゃんと話し込んでたから、まだ起きられねぇんだ。疲れも溜まってたみてぇだし、今日は学校も休みなんだから、ゆっくり寝かせてやってくれねぇかな」
先刻の己の態度のフォローに大慌てで説明を加える悟空に、悟天は一瞬キョトンと首を傾げてから、いつもの明るい笑顔で大きく頷いた。
「うん!そうだね!」
こういう気持ちの切り替えの早いところが、悟天の長所だと思う。
口調を荒げた父親に不信感を抱かない素直さと併せて、この時の悟空は悟天の天真爛漫な性格に救われた思いだった。
「よーしよし、良い子だ・・・」
と頭を撫でてやれば、悟天は嬉しそうに笑う。
その愛らしい笑顔に頬を緩ませた悟空だったが、次の悟天の質問に返答に困って声を詰まらせた。
「昨夜、お兄ちゃんとどんなお話したの!?」
「・・・や・・・、その・・・何だ、お・・・男同士の話だ・・・!」
「へえ、そうなんだ・・・」
大人と変わらないほどに成長した兄と父親との大人の会話は子供の自分には未知数の領分と、それ以上の詳しい内容について悟天は踏み込み込んでこない。
そんな悟天に対してだけではなく、昨夜の悟飯との間に交わされたのは身体を使った会話だったなどとは口が裂けても言えない悟空だった。
「さてと、父ちゃんはもう仕事に行って来るからな。母ちゃんのこと頼んだぞ、悟天」
「任せてよ!行ってらっしゃい、お父さん!」
父親から母親の手伝いを任された頼もしい自身を誇りに思ってか、悟天は快く悟空を送り出してくれる。
その悟天に笑顔で手を振り、悟空はひらりとトラクターに飛び乗ると雪化粧をした我が家を後にした。
悟空の姿が見えなくなるまで手を振って見送り続ける悟天を時々振り返りながら、地平線の彼方まで続くかと思われるほどの雪景色の中を進んで行くと、この雪が降る様子を窓から眺めていた悟飯の姿が思い出された。
白をベースとしたパジャマと同じくらいに白い躰がどこか儚げに見え、悟飯がこのまま雪と一緒に消えてしまうような気がして、悟飯の部屋に戻った悟空の足は一瞬だけ前に踏み出すのを躊躇った。
途端に、悟飯と心が通い合ったなんてのは悟空の錯覚に過ぎず、悟飯と同じ世界に生き返ったというのも実は嘘で、自分が夢でも見ているのではないかとの疑惑が頭を過ぎり、これが夢ではなくて現実である事実を踏み締めるようにして窓辺に佇む悟飯へと歩み寄った。
これまでの出来事が悟空の思い違いではない証しに悟飯はしっかりとした体温を持ってそこに存在し、戸惑う様子も見せずに悟空の唇を受け止めてくれた。
抱き締めた躰から悟飯の怯えと緊張が伝わり、初めてなのだからやはり怖いのだろうと思うと、乱暴に扱ってはいけない気がして出来る限りに優しく触れた。
その優しさに徐々に強張りがとけていった躰と繊細な白い肌はどこに触れても敏感に悟空に応え、洩れる吐息の甘さに、悟空の全身の毛が総毛立った。
あの時の悟飯の肌の感触が、まだこの手に残っている。
雪のように白い肌は滑らかでありながらどこかしっとりしていて、悟空の手の平にしっくりと良く馴染んだ。
これからはあの心地の良い肌に遠慮なく触れられる、と思うと知らず知らずのうちにトラクターのハンドルを握る手に力が篭る。
その悟空の手の甲に残された、悟飯の爪の痕。
夢のような昨夜の出来事が、夢ではなかった証。
あんなにギリギリと爪が食い込んでいたのに、何故か痛みは感じなかった。
それよりも、悟空に己のすべてを与えようとの真摯な悟飯の想いが胸に深く突き刺さり、悟飯から離れるのが憚られた。
もしもあの時、悟飯が自己犠牲の精神から痛みを堪えていただけならば、悟空は迷わず身を引いていた。
だが、どんな痛みと引き換えにしても悟空に抱かれることを悟飯が本心から望んでいるのが重ねた躰から伝わり、途中で離れたら躰よりも惨い傷を悟飯に残してしまいそうで、止められなくなった。
受け入れる痛みがどれほどのものなのか悟空には想像もつかないが、おそらくは相当な激痛だったのだろう、見る見るうちに顔面蒼白になってゆく悟飯に、悟空自身も血の気が引く思いがした。
だが、その痛みすらも喜びとして受け入れてくれる悟飯に、悟空の体は灼熱の炎を呑み込んだように燃え上がった。
行為の最中にあんなに体が熱くなったのは、初めてだった。
熱くて熱くて、己の体から発する熱で、悟飯さえも溶かしてしまうかと思ったくらいだ。
その熱に浮かされて、無我夢中で何度も繰り返し悟飯の名を呼んだ。
一生分は呼んだ・・・は、大袈裟か。
だが、これまで胸中で切なく呼んでいた彼の名は、昨夜を境に、焦がれる対象から己が所有した者へとその意味を変えた。